【エッセイ】過度の自虐に関する一考察
0.初めに
こんにちは、かてごりです。
この記事では、自虐、それも「根拠のない自虐」「事実に反する過度な自虐」に関する私自身の感想を垂れ流したいと思います。本文の内容に関しては私の推察でしかない故、不正確なものとなっている可能性が高いです。
では、本文に入る前に「根拠のない自虐」や「事実に反する過度な自虐」とは如何なるものであるのか、その例を見ていきましょう。
例1.「俺/僕/私 以外全員○○してる。○○してないの 俺/僕/私 だけ。」
例2.「全員 俺/僕/私 の上位互換」
例3.「(中の上~上の下程度の成績表を開示しつつ)よわよわです!」
以上3つの例を見てきましたが、これらに関しては、いずれもほとんどの場合において虚偽の主張である訳です。
では、なぜある程度の数の人間が、このような事実無根の自虐を行ってしまう傾向にあるのか、その理由について考察していきましょう。
1.自虐的ユーモアによる保身の正当化
何らかの危機や劣等感にさらされた場合、多くの人間の脳内では、保身を試みんとする何らかのメカニズムが働くと考えられます。実際に保身を目的する行動を起こすかどうかは別です。
ですが保身というものは傍から見て見苦しいものであり、多少なりとも発達したミラーニューロンを有するオタク君は「他者から『見苦しい』と感じられたくない」という思いの下に「ユーモアによる保身の正当化」を図るわけです。
ここまででこの節の本質的な部分をさらってしまった訳ですが、少し分かりにくい文章となってしまったので、具体例を挙げつつ再度説明を試みましょう。以下具体例。
仮に、ある特定の人物(ここではXさんとしましょう)が大学に入学し、大学に在学する周りの人間と比較して知性や知恵、知識的な面で、潜在的に劣等感を負っていたとします。ある日、Xさんはある試験で自身の満足のいく90点という点数を採ることができたとします。そこでXさんはSNS等を通じて「90点を取れた!」と周囲に顕示し、自らの劣等感を拭いたい、という欲望に駆られる訳です。ですが、そこでXさんは「直接的に成果を顕示することで、私自身の投稿/言動が見苦しいと思われないだろうか」,「周囲の人間から『底が知れている』人間だと思われないだろうか」と周囲の人間に関する心理的推察を始めてしまうわけです。その結果,Xさんは自虐的ユーモアを織り交ぜた上記例3のような投稿/言動や「頭わるわる人間だけど○○点とれた/優とれた」といった投稿/言動に走ってしまうと考えることが出来ます。
以上、多分に勝手な推論を含む考察となってしまいましたが、この節に関してはこのくらいで終えておきたいと思います。
次節からは、事実無根の自虐の源泉である「プライドと実力の乖離」と、その状態への対処法に関して議論を進めていきましょう。
2.プライドと実力の乖離を克服しようよ
劣等感というものは,「プライドと実力の乖離」から生じやすいものであると、私は理解しています。その劣等感が、事実無根の自虐の原因の内の1つであるので「プライドと実力の乖離」を削減・軽減することが事実無根の自虐の源泉(の内の1つ)であると言えるわけです。
「プライドと実力の乖離」とは厄介なもので、この状態に陥ると自分で自分の首を絞めるような行動に陥りがちであると、私自身、人間を観察していて感じます。ここでは深く首を突っ込まないこととします。
「プライドと実力の乖離」を削減する方法としては2つのものが考えられます。
1.実力を上げ、自らを満足させる(積極的対応と呼びます)
2.プライドを下げる(消極的対応と呼びます)
私自身、あまり積極的対応に関しては好印象を抱いておりません。幸福とは刺激の差異から生じるものであって、恒久的に幸福感を感じられる一状況など存在しないと考えているからです。つまり積極的対応を採った場合、人間は刺激の差異を求め、自らの際限なき欲望を満たすために努力し、苦痛を味わい、やっとの思いで幸福をつかんだとしてもその状況に直ぐ飽き、さらなる刺激の差異を求めて苦痛を味わう……といった、苦痛にまみれた人生を歩むことになる、と私は考えています。
消極的対応に関して「果たして人間に可能なのか」といった疑問は付きまといますが、私自身はこの消極的対応を積極的に採用しつつ、人生における幸福の最大化と苦痛の最小化を図りたいと考えています。消極的対応の具体的方法に関してもいつか記事にできるといいですね。
3.さいごに
「プライドと実力の乖離」を削減していくことが、私自身「大人になること」の一要件であると考えています。
最後に「大人になる」とはどういったことなのかを記し、この記事を締めくくりたいと思います。
大人になることの二要件として、私は次のようなものを考えています。
1.現在および将来の心理的効用・費用を算定・推察し、その結果を適切に言動に反映することができること
2.自らの能力を適切に評価、客観視し、その評価・認識結果を適切に言動に反映させることができること
(「プライドと実力の乖離」の削減は、この2つ目の要件の前提条件となっているわけです)
以上です。少し抽象的に2要件を記してしまった自覚はあるので、いつかこれらについてかみ砕いて説明する記事を書きたいです。