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研究室とトイレの間をずっと往復している
今、僕はたばこを吸わない。
たまに飲み会なんかで人からもらって吸うことはあるが、自分で買ってまで吸うことはない。
ここまで至るにはいろいろあった。
たばこを吸っていた期間は、足掛け10年以上になる。
その間、何度も禁煙を試みた。
本格的に禁煙を決意し、そして初めて成功したのは、大学生のころだった。
僕は小児喘息持ちだったのだが、そのころは季節の変わり目、とくに秋から冬に差し掛かる時期になると、明け方に息苦しくなることが続いていた。
喫煙者というのは不思議なもので、どんなに体調が悪くてもそれを押して忍び、たばこを吸おうとする。
喘息の発作でせき込みながら吸うたばこなんてちょっとした拷問みたいなものだが、それでも吸い続けていた。
しかしある時、途端にそれが馬鹿らしくなって禁煙することにした。
10年ほどは全く吸わなかったので、僕のなかではこの期間の禁煙は「成功」ということになっている。
再びたばこを吸い始めたのは、大学院を出て働き始めたころだ。
今思えば職場でのストレスなどもきっかけだったのかもしれないが、一番の理由は「うまいたばこ」を吸ってしまったことだった。
ある時、出張先で手巻たばこを吸っている人からもらった1本が、これまで自分の吸ってきたたばことは全く違う世界の味わいだった。
そのころ僕は、結婚を間近に控えていて、数か月後には一緒に暮らし始めることが決まっていた。
そのことがむしろ「どうせ数か月後にはやめるんだから」と、たばこを再び吸う積極的な理由になってしまい、そこから数か月限定で僕は再びたばこを吸うようになった。
そして結婚後、再びした「禁煙」が今に続いているので、一応今の僕は「非喫煙者」ということになっている。
たばこを吸わないと、最も困るのが仕事中の気分転換だ。
たばこを吸っている時なら、数時間に1回ほど席を立ち、5分ほどたばこを吸うことでリフレッシュできていた。
これに代わるリフレッシュ方法というのはなかなか難しい。
屋外に出て深呼吸してみても、やはり何かが違う。
コーヒーを淹れて一息つくのはなかなかいいリフレッシュになるけど、しかしたばこを1本吸うことと比べると格段に手間がかかる。
席を立ち、外に出て、たばこを1本吸い、そしてまた席に戻る。
これに代わる気分転換の方法は、未だ決定的なものは開発できていない。
その結果、僕はめちゃめちゃトイレに立つようになった。
別にトイレに行きたいわけじゃない。頻尿を疑うような予兆も特にない。
毎晩の晩酌のおかげで確かに腹は下しがちだけど、それもめちゃめちゃトイレに行く理由ではない。
つまり、別に大も小も催しているわけではないのに、なんとなくトイレに行く。
この行為が、今の僕にとっては気分転換の唯一の方法なのだ。
例えば朝、大学に向かったとする。
朝から授業や会議が入っていれば、その間は暇もくそもないので別のいいのだけど、問題は授業も会議も入っていない時間だ。
こういう時間は本当に貴重で、基本的に自分の研究や論文執筆といった本当に集中しなければいけない仕事はこういう時間にまとめてやってしまう必要がある。
しかしその貴重な時間のうち、僕はかなりの割合を、トイレと研究室を往復することに費やしている。
まず朝、研究室につき、電気とエアコンをつけ、荷物を置き、PCの前に座り、PCの電源を入れ、メールソフトを立ち上げてメールをチェックする。
ここまでの間に最低1回はトイレタイムが入る。
大体はPCの電源を入れたあと、メールソフトを立ち上げるまでに1回行っていると思う。
そして昨日夜から今朝までの間にたまっている数通のメールに目を通し、緊急性の高いものとそうでないものとを頭のなかで選り分けた上で、もう一度トイレに行きながらメールにどう返すかを考える。
トイレから戻り、緊急性の高いメールにとりあえず返信をしたあと、電気ポットに水を入れ、お湯が沸くまでの間にもう一度トイレへ。
戻ってきたら沸いたお湯をマグカップに注ぎ、それを飲みながら今日1日のTo Doやスケジュールを確認し、優先して取り組むべき仕事が決まったら、それに取り組む前に再度トイレタイム。
こんな調子で、僕が大学で仕事をしている間、そこには無数のトイレタイムがある。
繰り返しになるが、これはあくまでも「気分転換」であり、特に何も催しているわけでない。
僕にとっては、トイレに行くというのが一種のルーティーンになってしまっていて、トイレに行くことで仕事のリズムを保っているのだと思う。
しかし客観的に見れば、僕がどんなに仕事に集中していたとしても、その姿は他人からみれば単に「めちゃめちゃ研究室とトイレの間をずっと往復しているおじさん」としか映っていないのだ。
こんなに人に誇れない仕事風景でいいわけがない。
誰か、たばこでもトイレでもないちょうどいい気分転換の方法を教えてくれやしないものかと悩みながら、今日も僕は研究室とトイレの間をずっと往復している。