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父の記録⑤|特養では心身ともに安定していたものの、今一つ馴染めない
急性期の病院から特養まで、見通しを早めに示された安心感
現在の医療の制度上、一つの病院に長く入院し続けることはできないらしいが、急性期を過ごした国立病院の相談員さんが、早い時期から急性期の治療を終えた後の一般的な経過を示してくれたので、道筋は見えた。相談員さんの説明によれば、1ヶ月程度経ったらリハビリ専門病院に移って専門的なリハビリを受け、その後は父の年齢を考えると介護老人保健施設(老健)、最終的には特別養護老人ホーム(特養)で介護を受けて生活をすることになるだろう、ということだった。特養には期限はないので、次の行き先を心配する必要はない。
心配だったのは特養の空き状況だ。噂では「何年待ち」などということも聞く。「早くどこかの特養に落ち着きたいね」というのが、母と私たち姉弟の共通の思いだった。
特養に対する父の抵抗感
事故から2,3週間たった頃だったと思うが、転院先など今後の方針を決めるため、母が国立病院の相談員さんから「この日に来てもらえますか」と呼ばれた。病室にいて、その場に参加できない父は相談員さんに「自分の弟(私から見ると叔父である敬二さん(仮名))もその場に呼んでほしい」と頼んだそうだ。父は病院で「体はこんなだけど頭はしっかりしている!」と怒鳴ることもあったほど、年寄り扱いされたくないというプライドがあったようだ。頸椎損傷により要介護となったが、認知症の方も多くいる特養に入ることには強い拒絶感があったようだ。しかし、母に任せていたら特養に入れられてしまう。それを恐れ、自分の弟なら、特養は嫌だという自分の気持ちを伝えてくれるのではないか、と考えたようだ。
20歳代くらいで頚椎損傷となった人のSNS等を見ると、本人や家族が必死で情報収集をして評判の良いリハビリ施設に入ったり、最新の医療を試している様子が伝わってくる。しかし、母にとって、病院からの紹介以外の選択肢を探るのは、性格的にも年齢的にも難しく、それが父の恐れを強めていたのかもしれない。
あめ市(仮名)の特養へ
父は特養へ入ることを嫌がっていたが、老健にいられる期間も限界となり、事故から1年ちょっと経った2017年12月にあめ市の特養に入居した。私の足なら母の住まいから歩ける程度の距離にあり、日当たりの良い一人部屋で、新しくてきれいな施設だった。
父の特養に対する拒絶感は、入居してもそれほど和らがなかったと思われる。入居者が順番に祝ってもらう誕生日会やお盆、お正月などの季節ごとのイベントについて「年寄り扱いされたくない」あるいは「子どもじみている」と感じて楽しめなかったようだ。特養の入居者は80歳代後半や90歳代が多く、母は「一世代若すぎたよね」と言っていたが、確かにそのとおりである。
インターネット環境を整えたが、使わなかった
「年寄扱いされたくない」という父の思いをくみ取って、居室にタブレットを持ち込んだり、ラジオを買ったりといろいろ準備した。いまどきは脊椎損傷のユーチューバーや高齢者のユーチューバーもいる。配信までは無理でも、インターネットやパソコンを使う知識はあったのだから、何か記録を残してみようとか、かつて自転車で訪れた先で撮り貯めた写真をインスタに上げてみようとか、前向きになってくれれば協力しようと思った。しかし、父は母が亡くなるまでインターネットに接続することはなかった。その理由は今でもわからない。
罰ではない
一度だけ、父が「何の罰が当たってこんなことになったのだろうなあ…」とつぶやいたのを聞いた。子どもである私の目から見て父は非常に真面目に生きてきた人だと思う。もし父が頚椎損傷ほどの罰を受けなければならないのならば、煩悩まみれの私はいったいどんな罰を受けることになるのだろうか。
ただ、敢えて言うならば、父は動物に対する優しさを持ち合わせていなかったと思う。家の屋根裏に入り込んだネズミへの対応は、害獣だから当然と言えば当然だったけれど、子ども心にネズミに同情したことを、今でも時折思い出す。