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父の記録<番外>|昭和の大須と父のわくわく

幼いころ、父に連れられて名古屋の科学館や大須に行ったような記憶がある。それが1日のできごとだったのか、複数回のできごとを1日の記憶にまとめてしまっているのか、今となってははっきりと思いだすことはできない。なぜその記憶に母がいないのかもわからない。

名古屋市科学館のお絵かき体験

科学館のプラネタリウムで星を見たあと、科学館のイベントか何かで、ブラウン管の画面に専用のペンでお絵かきをする体験をした。いつものスケッチブックのように女の子の顔を書きたかったのだが、背景色に「赤」を選んでしまったため、描き進めることができなかった。顔の輪郭を描いて手が止まった。
たまたま父の知人も子どもを連れてきていた。会社の同僚だったのだと思うが、「偶然だね」と挨拶をしていた。その子は私よりも少しお兄さんだったが、すいすいと絵を描いていて、周りにほかの子どもたちが集まり、賞賛の目で見られていた。描けない私は固まって泣きべそをかくしかなかった。
ここまでの記憶はまだ幼稚園に行くか行かないかくらいの年齢だったと思う。

大須で見た電子部品

大須に行ったときは小学生になっていた気がする。大須は父が行きたくて連れていかれた場所だ。名古屋市の大須といえば秋葉原のようなところ。電気街や電子部品の店がたくさんある。そして、デパートやおもちゃ屋さんのようなキラキラ感は全くない。父は電機関係の仕事をしていて、電子部品を買いに行ったのだと思う。
おぼろげながら、トランジスタやコンデンサがあったのを覚えいている。ます目に区切られた箱に区分けされて入っていたような気がする。部品の形を小学校の理科で習った豆電球と心の中で対比していた。「豆電球はコードが2本なのに、この部品は3本足針金が出ていて、光る部分も付いていない。何のためのものだか全然わからない」と思ったような記憶がある。
小学校2年生か3年生だったとして、昭和50年代の大須だ。街も店も雰囲気があまりに「ガチ」で、子どもが楽しめるような要素はひとかけらもなかった。
今になって考えてみると、父は幼い子供を連れてでも行きたかったのだから、真剣だったのだろう。大須で見たあの部品に少しでも関心を持っていれば、新卒でSEになった時の私の仕事の捉え方も違うものになっていたかもしれない。もしくは大学は工学部に進んでいたかも。
いまだにトランジスタもコンデンサも何のための部品だかわからないが、今度、ラジオ製作キットとはんだごてでも買ってみようかな。

今となっては父も母もいなくなってしまったので、科学館や大須に行ったのが現実だったのか私が遠足か何かと混同してしまっているのかすら、確認のしようがない。亡くなる直前の1ヶ月間くらいは、父は話すことができず、私も何を話しかけてよいか戸惑っていた。父が大須で何を買ったのか、買ったものをどうしたのか聞いてみればよかった。

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