ハリガネムシ
ウーヤは馬鹿な男。雨の日に気まぐれで俺を拾って、そのまま住まわせている。通帳類はベッド横の棚の二段目、判子は冷蔵庫のキャベツの後ろ、その他諸々、大事なものの場所は俺は全部知ってる。もちろん手を出したりはしない。俺のことを拾ってくれた恩人にそんなひどいことをするはずがない。むしろ、今すぐにでもここを出て行ってやりたいくらいだ。ウーヤは彼女がいる。正確には、いた。三ヶ月付き合った彼女。こないだ、俺と寝た。軽い女だった。あんな女、ウーヤには似合わないよ、相応しくない。俺がちょろっと誘ったらちょろっと股開くような、あんな女。ウーヤは誠実な男だから、誠実な女と付き合えばいいのに、あんな、メイクばっかり濃くて、風呂入って化粧落としたら誰か分かんないような女よりさ、薄化粧で儚くて、誠実で真面目で一途な女が似合ってる。だってウーヤは料理も出来るし大抵の家事は出来る上に、真面目な会社員。エリートだからリストラされる心配も皆無。俺がウーヤの代わりに探してきてやろうか、そんな理想の女。そう言ってやったら、ウーヤのやつ、顔を真っ赤にして怒った。当たり前か、どんな理由があろうと、俺のほうからあの女を誘ったのは事実なんだし。ま、拒まなかったあいつもどうかと思うけど。そう言ったら、頬を張られた。出て行けよ。静かにウーヤはそう言った。いつものことだ。これでウーヤはまた彼女と駄目になって、俺は相変わらずここにいて、ウーヤに頼り切って生きてく。俺だって、人並みに家事はできるから、ウーヤが会社に行ってる間の家のことも切り盛りできるし、ウーヤが残業とかで疲れたら、夜食を作ってやったり肩揉んでやったりできるし、飲み会で潰れたウーヤの介抱だってお手の物だし。結局何回もウーヤはことあるごとに俺に出て行けと言うけど、実際俺が出て行ったら近所の公園まで探しにきてくれるし、俺だって最近は出て行かずに、犬みてぇに反省のポーズとって数日おとなしくしてりゃ、ウーヤの機嫌なんて簡単に直るんだ。それからウーヤ、言うんだ、叩いてごめん、俺が間違ってた。そう、ウーヤが間違ってるんだよ。俺は間違ったことなんてしてない。ウーヤの女と寝る気なんてなかったし、まさか誘いに乗るとは思ってなかったんだし。ウーヤだって、俺の言うことを聞いて、軽い女だって分かるから、ちゃんと女を振ってぽいするし。何度もその光景を見てきたけど、怖いんだ。いつかは俺がああやってぽいされちゃうような気がしてさ、そんなこと有り得ないんだけどさ。なあウーヤ、ハリガネムシって知ってる? 水中で交尾してガキ作って、水ん中で暮らす昆虫にガキ食ってもらって、その昆虫をさらにカマキリとかバッタとかに食ってもらって、で、その腹ん中で成虫になったらカマキリ誘導して水辺まで来させて、腹破って抜け出すの。そ、いわゆる寄生虫。腹破られたカマキリはさ、二、三日で衰弱して死んじまうっていう話。怖くない? だって、カマキリを誘導するんだぜ? マインドコントロールっつうか、洗脳っつうか、しかもハリガネムシの頭のいいとこはさ、腹破ってみて辺りが乾燥してたらそれ以上出てこないってとこなんだ。水分のあるところでしか暮らしていけないらしくてさ。なんか、怖いよな。しかもハリガネムシってのがまたこいつ、長い髪の毛みたいな感じの気持ち悪いやつなんだよ、くねくねってうねってさ、乾燥したら干からびるけど、そこに水かけたら動き出すらしいよ。気持ち悪くね? ああ、話すっげー飛んだんだけどさ、つまりあれだよ、お前、なんで俺を寄生させてんの? ぶっちゃけバイトもしてないし働く気ないし、ニートだし、肩揉みくらいの役には立つけどさ、いつかお前のこと食い潰して逃げ出すぜ? いいの、毎回毎回彼女寝取られて笑ってっけどさ、ほんとうにおもしろい? 嫉妬とかしねぇの? ほんと、よく出来た人間だよな、出来すぎてて怖いくらい。俺、何の役に立つ? いずれ食い潰すにしても、俺だって、アイツにいいことしたっていう思い出ほしいんだよ。わがまま? 分かってるよ、それくらい。でも俺ウーヤのこと嫌いじゃねぇし、ちゃんと愛してるし、人間としてリスペクトしてるし。ところでさ、カマキリって、ハリガネムシが出てる最中、痛いのかな、痛いよな、きっと、腹破られてそこから無理やり捻り出てくるんだから、痛いよな。ウーヤ痛いの嫌い? 俺も嫌い。でも俺はハリガネムシだから、痛い思いはしないんだ。申し訳ない、とは思うかもしれないけどさ、これ、全部お前のせいだよ、ウーヤ。お前が俺を甘やかすから、俺調子乗ってんだよ。責任転嫁って言うんだよな、こういうの。分かってるよ。でも俺、ほんとうに、ウーヤのこと大好きだよ、だから分かってくれるよな? 怯えた顔すんなよ、だって俺、ほんとうに欲しいもの、分かっちゃったんだから。俺はハリガネムシだけどハリガネムシじゃないから、ちゃんと干からびるよ。だからウーヤも黙って腹破られてくれるよな?
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人は自分が愛されたようにしか他人を愛せないと言う。それなら、ユキヒロの俺に対する愛情って何なんだろう、どう考えても、どう見ても、歪んでる。ユキヒロは歪んだ愛情を受けて育ってきたのか? それとも、愛されたようにしか……これ自体が迷信なのか? 俺がユキヒロを拾ったのは、しとしとと霧のような雨が降る夜だった。帰りに近道だから中抜けしていく公園のベンチに、ニット帽をかぶり、膝を抱えてゆらゆら揺れていた。危ない奴かと最初思った。でも、その横顔が途轍もなく寂しく、切なく見えて、俺は気付いたら傘をそいつに傾けていた。それがユキヒロだった。突然振る雨が途切れて、ユキヒロははっと顔を上げた。そして、泣きそうな顔をして言ったんだ、何してるの、って。俺は戸惑った。何って、なんだろう。俺は逡巡して、分からない、と答えた。ユキヒロは、傘の柄を握って、俺に、拾ってよ、と泣きそうな声で囁いた。俺はそれに頷いていた。気付けば。そう、気付けばユキヒロはうちにいて、俺が仕事で家を空けている日中の家事をこなしたり、残業続きで疲れた俺に夜食の茶漬けをつくってくれたり、まるで妻のように俺を支えてくれていた。最初にユキヒロと喧嘩……喧嘩って呼んでいいのか分からないけれど……喧嘩したのは、俺の彼女とユキヒロが寝たからだった。最初は、ユキヒロが誘ったと聞いて、それに彼女が乗ったのなら彼女も同罪だろうに、俺はユキヒロを責めて、頬を叩いて出て行けと叫んだ。ユキヒロは泣きそうな顔をしながら、手荷物ひとつ持たずとぼとぼと出て行った。静かになった部屋で、俺は泣いているユキヒロの顔を想像してみた。急いで、鍵もかけず部屋を飛び出した。あの公園に行くと、いつかのあの日のように、ユキヒロは膝を抱えてベンチにうずくまっていた。あの日と違うのは、雨が降っていなかったことだけ。俺は、ユキヒロに近づいて、ユキヒロが顔を上げたのを見て微笑んで言った、帰ろうって。ユキヒロは花が開くようにぱあっと嬉しそうに笑って、俺のあとをついてきた。可愛い奴、と思ったりもした。でも、ユキヒロの悪い癖は直らなかった。何度彼女を作っても、必ずユキヒロに寝取られる。そりゃあ、ユキヒロは整った顔立ちをしていて、話術なんてもんは全然あったもんじゃないけど、なんだか、引き寄せられる、そんな雰囲気を醸していた。だから、彼女たちが一度なら……とユキヒロに惹かれた理由も何となくは分かるんだ。ユキヒロは、彼女たちと寝たあと必ず決まってこう言った、ウーヤにはもっと誠実な女が似合うよって。誠実な女を選んできたつもりだった俺にその台詞は痛くて、何度も何度もユキヒロと喧嘩した。そのたびに出て行けと言っては連れ戻すことの繰り返しで、そのうちユキヒロは犬のように数日おとなしくしていて、俺が謝るとじゃれてきたりして、そのあたりからだったのかな、歯車が狂い始めたのは。なんで、ユキヒロが俺の彼女と寝るのか、分からなかった。俺を困らせたいだけなのか、それともほかに理由があるのか、なんなのか、全然分からなかった。ユキヒロは、酒も飲まないしタバコも吸わないし、もちろんドラッグだってやらない。でも、いつも酔っ払ったような、ドラッグでぶっ飛んだかのような思考回路をしていて、クレイジー、そんな感じだった。だけど、家事はきちんとこなすし、肩揉みの手の厚みと力の入れ方はちょうどいいし、ちょっと頭のネジが外れてることなんて、どうでもよかったのだ。ユキヒロの異常なまでの俺への執着が怖くなり出したのは、ユキヒロがここへ来て一年目の冬のことだった。付き合って三ヶ月の彼女を例によって寝取られた。俺はもう、いつものこと、と気にしないでいた。でも、一応ユキヒロをしかった。張り手も食らわせた。それから数日後、ユキヒロは俺の休日に昼食を作りながら、楽しそうに話し始めた。気持ち悪い寄生虫の話。俺は、聞いていて段々怖くなってきた。話の内容にじゃない、話の内容はもちろん気持ち悪いし怖いのだが、それを話している嬉々とした表情のユキヒロが怖かったのだ。なんでそんな陶酔し切った目で笑いながら話してるんだ、どうして、どうして俺にそんな話をするんだ。何かに酔ったように怖くね? とか笑いながら言葉を紡ぐユキヒロが怖かった。そして同時に気付く、ユキヒロの俺に対する異様なまでの執着心。知らないふりを、できれば続けたかったけど、ユキヒロは我慢できなかったんだ。男同士だからどう、とかこう、とかそういうのはなくて、ただあるのは恐怖だけだった。ユキヒロが、包丁を持ったまま、調理も途中で、ダイニングテーブルにやってきた。ほんとにウーヤのこと大好きだよ、だから分かってくれるよな? 包丁を持ったユキヒロが近づいてくる。ハリガネムシは、水をかけると再生するそうだ。俺が、腹を突き破られたら、誰がユキヒロに水を与える? ユキヒロの目が、とろりと蕩けた。
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ウーヤは言う。いつも言う。子どもに言うように、噛んで含めるように、念を押すようにしつこく。もう二度と、こんなことするなよ。俺がウーヤの彼女を寝取ったのがばれて怒られて、俺が反省してウーヤが叩いたのを謝るのと一緒に言う。俺はいつもそれに頷くんだけど、実行したことはない。するな、ということを、しなかったことがない。ともすればそんな言葉遊びのようなウーヤの言葉。どれほどの重みがあるかは自分が一番分かってる。俺はただ、ウーヤにしあわせになってもらいたいだけ。俺は、しあわせのかたちを知らない、色を知らない、匂いを知らない、重さも、味も、何も知らない。だけどしあわせ、というものがあることだけは知っている。見たことないけど、聞いたことはある。結局さ、愛、とかと同類のもんなんじゃないかってことが最近分かってきた。俺は愛も分からない。でも、ウーヤのことは愛してる。すげぇ矛盾。この気持ちを愛だって言うなら、愛ってけっこう汚いものなんだなって思うよ。だって、汚れてる。ウーヤのこと、俺すごくすごく好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで……頭がぶっ飛んじゃいそう、殺したいくらい憎い時もあってさ、こんなの愛って呼んだら世間の人たちに怒られそうだ。ウーヤはこの愛分かってくれてるのかな。愛ってほんとう、なんなんだろう。こんな汚れたものが愛なら、しあわせなんかには期待できなさそう。愛よりもっと汚いものだと知るよりも、憧れているままのほうがずっといい。じゃあ、しあわせになったウーヤは、汚いものなんだろうか? ウーヤは俺にとって、すごくなんて言うか、痺れるっていうか、目が合った瞬間、身体に電流が走ったみたいに、この人についていこうって思わせる、何かがあったんだ。それはもちろん今も変わらないで、俺を惹きつける。まるで、花に吸い寄せられる蜂みたい。蝶じゃないのかって? 俺はそんなきれいなものじゃないよ、蜂でも申し訳ないくらい。毒蛾以下の人間だよ、でも蛾は花に吸い寄せられないだろ、だから仕方なく自分を蜂に仕立て上げるんだ。ミツバチなんて可愛いものじゃないけど、蛆虫以下の人間だけど、ウーヤはそれを許して受け止めてくれた最初の人なんだよ。だから、俺はウーヤに寄生する。甘い蜜をたっぷり吸って、花はいつか枯れる、食い足りない蜂を残して。俺はウーヤを内側から食い潰すことしかできないんだ。吸い取るだけ吸い取って、何も見返りを与えない。蜂は花粉を撒き散らすことで花の命に貢献しているけど、俺にはそんな些細なこともできない。ただ、食い散らかすだけだ、だらしなく、怠惰に、不健全に、それも、身体の内から。なあウーヤ、俺がこないだ話した虫の話、覚えてる? そう、ハリガネムシ。続き、聞きたい? ハリガネムシに寄生された昆虫って、生殖機能をなくすんだ、そう、つまり子孫を残すことができない、昆虫の中で何が起こってそうなることになったのかは分かんないけど、それって怖いことだよな、生殖器でも食べてるのかな。……しかもさ、極稀なケースなんだけど、ハリガネムシって、ヒトにも寄生するらしいんだ、よっぽど運が悪くないとそんなことにはならないだろうけど。ヒトも、成虫になったハリガネムシにマインドコントロールされちまうのかな、考えるとぞくってするよな。きっと目がうつろになって、ぼんやりしちゃって、水辺に連れて行かれて、ヒトのどこから出ようとするのかな、やっぱり腹突き破るのかな、かなりグロテスクだよね、もし人体に入ったハリガネムシがもっと太く成長したら……って考えるとさ、エイリアンって映画知ってる? 腹からエイリアンが飛び出てくる映画。え、胸部だった? なんだ、知ってるんだ。俺は見たことないよ、だってそんな気持ち悪い映画、夜トイレに行けなくなっちゃうじゃん。話戻すけどさ、ハリガネムシって長いやつになると一メートルとかいっちゃうらしいよ、気持ち悪くない? 一メートルだよ、一メートル。俺の腰辺りまで伸びるってことだよ。そんなのがカマキリの腹ん中に入ってるんだよ、カマキリ絶対苦しいよな。前話したっけ? 寄生されたカマキリは死んじまうって話。カマキリの中でも特に、ハラビロって奴に寄生してるんだけどさ、ハラビロの体長はメスでも七十ミリくらいだよ、そこにさ、寄生して一メートルになったハリガネムシが入ってるんだよ、腹パンパンだよな、寄生されたカマキリって、飯食えるのかな、排泄とか、できんのかな、俺そこまで詳しくないんだけどさ、俺、実は見たことあるんだ、ハリガネムシ。誰かに踏んづけられて死んでるカマキリの内臓とかがびちゃって散らばっててさ、その内臓のあたりをくねくねもがいてんの、最悪の光景。でも、俺も結局アイツと同じなんだよなって思うよ。なあウーヤ、顔色悪いよ、大丈夫?
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ユキヒロは、優しい。無一文を居候させて彼女まで寝取られてこんなこと言うのもなんだけど、優しいんだ。時折何の脈絡もなくおかしくなったりするけど、それも全部ひっくるめてユキヒロなんだと納得すればいいだけの話、気持ち悪いなんて思わない、目がうつろでも、頭の螺子とかストッパーなんかがどっか飛んでてもユキヒロは美しいから。ユキヒロは分かってないけど、俺はちゃんとユキヒロのことをひとりの人間として認識しているし、俺なりの愛もある。狂気的な、とは到底呼べない、俺の穏やかな愛。明らかに、ユキヒロとは釣り合わない。あいつはなぜか、怖いくらい俺を慕ってきて、すがりついてきて、俺を神か何かかと勘違いしている。性交のときにも、俺がユキヒロの身体を舐めようとすると「汚いから」と本気で抵抗する。だから指で味わう。俺は、ユキヒロの味を知らない。あいつはキスをするのも嫌がる。「ウーヤが汚れるから」。いったいあいつは自分をなんだと思っているのだろう。包み込むだけじゃ駄目なのか、もっと強引に俺という存在を刻んだほうがいいのか、どうしたらユキヒロに心から俺の愛を信じてもらえるのか。ユキヒロのお気に入りは、ハリガネムシという寄生虫だ。気持ち悪い話を爛々と瞳を輝かせて語る。話しているときのユキヒロの表情は恍惚としていて、まるでハリガネムシを敬愛しているよう。俺は、やめろよ、と一言そう言えば、ユキヒロがぴたりと黙るのを知っている。それでも喋らせる。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。そう思いながら、聞く。「ユキヒロ」「何?」「セックスしよう」「……うん」。ユキヒロはこの行為が愛に溢れたものだと知らない。俺の性欲処理の儀式だと思っている、と俺は思っている。馬鹿言え、性欲処理ならもっと無茶苦茶に扱って獣かって思うくらいやりまくってるっつーの。そこに気付かない辺り、ユキヒロは鈍い。俺の一挙一動や不意の一言にはものすごく敏感に反応するくせに、鈍い。ユキヒロは色の白い、きれいな身体をしている。女のような丸みはないし、細いから骨と皮だけに近いし、肋骨は浮いているし、かと言って意外と肩幅は広く男を主張しているようだし、不思議な身体をしている。くしゃっとした黒髪に、その裸体はよく似合う。ユキヒロは普段、主夫として働いているけど、そうじゃないときは大抵ソファの隅に膝を抱えてこぢんまりと申し訳なさそうに座っている。今にもソファから落ちそうなくらい、端っこで、だ。ユキヒロはコンプレックスの塊なんだと思う、ネットでいろいろ調べてみたんだ、もしかしてユキヒロって精神疾患を持ってるんじゃないかって。それで出てきた単語が「アダルトチルドレン」。決して子どものような大人とか、大人のような子ども、という意味ではない。幼少期、親から正しい愛情を受けずに育ってしまった奴のことを言う。そうするとどうなるか? 俺は、少し前に考えていたことを思い出す。「人は愛されたようにしか愛せない」。もしかしてユキヒロは、愛されたことがなくて、愛し方が分からないんじゃないのかな、そう思った。でも、医者でもない俺がユキヒロをアダルトチルドレンだと断言してしまうのもおかしな話だし、かと言ってユキヒロを精神科に連れて行く気もさらさらない。ユキヒロはユキヒロらしく、それが俺の願いだ。でもきっと今のユキヒロは、ユキヒロじゃない。俺に合わせて我慢している。悲しんでいる。苦しんでいる。それを、救ってやれない自分が死ぬほど嫌いだ、ユキヒロはよく、「ウーヤにはもっと誠実な女が似合うよ」と言う。誠実な女を見つけて、ユキヒロの誘惑をパスする女が現れたところで、俺は決して彼女を選ばないだろう。きっと、俺は、ユキヒロを選ぶ。結婚よりも、ユキヒロと深いところで繋がりたいと願うし、ユキヒロに愛してもらいたいとわがままを言うし、いつかユキヒロの全部を知りたいと思うし、ユキヒロにも俺の全部を受け入れて欲しいと望むだろう。人間として、そうひとりの人間として、ユキヒロを愛したいと思うんだ。でも、ユキヒロは未だ俺に完全に心を許したわけじゃなくて、道のりはきっと遠くて、だけど俺はそこが茨の道でも進みたいわけで、つまり愛しているんだ。ユキヒロは、分かってくれるかな、このエゴ丸出しの恋愛感情に、気付いてくれるかな、ほんとうはすごくガキで女々しい俺に、そして愛してくれるかな、そんな俺っていう人間を。「ウーヤは、きれい」。お前のほうが、きれいだよ。そう、俺に言えたなら、未来はもう少し変わるだろうか? なあユキヒロ、どう思う?
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少し、昔の話、するね。俺の親は、たぶんどっちも健在だと思う。たぶんって言うのは、もう今じゃ確かめようがないから、たぶんなんだ。まあ、死んでようが何してようが、俺にはもう関係ないんだけど、だって、あいつら俺を捨てたんだもん。喧嘩が絶えない家庭だったなーって言うのはぼんやり記憶にある。そんで、たぶん離婚したのかな、ある日ぷつっと、母さんがいなくなって、父さんも仕事で夜遅くまで帰ってこないことがほとんどだった。ネグレクトって知ってる? 育児放棄のことなんだけど、ほんとそれみたいな状況。母さんがいなくなったの、俺がいくつのときだと思う? あのね、三歳。それでも父さんが育ててくれればよかったんだけど、そうもいかなかったんだよね。今思えばさ、きっと母さんは父さんに愛想尽かしてほかに男つくって出てったんだよ。だって、仕事くらいしか能がないし、たまの休日も寝てばっか。気まぐれに起きてきたと思ったらカップ麺食ってまた寝て……三歳の俺、何食べて暮らしてたと思う? お湯も沸かせないからカップ麺さえ食えなくて、って言うか、何か食うっていう発想すらなくて、ただひたすら腹減らしてたんだよね。父さんがたまに俺にカップ麺をつくってくれるのを、すごい勢いで食ってた記憶がある。それで、細かい事情は知らないけど、……たぶん、見るに見かねて、かな、父さんの母さん、俺にとってはばあちゃんが俺を引き取ったんだよね。そっからは、けっこう幸せだった。あったかい飯が三食ちゃんとあったし、おやつも食べさせてもらえてさ。でも、ばあちゃんが死んで、状況は一変したね。父さんは、ばあちゃんの葬儀にも出てこなくて、まあ、行方くらましててさ。そうなると、当時五歳だった俺はどこに行けばいいの、ってことで、親戚の家たらい回し。どこでも邪魔者扱いされたよ。だって、当たり前じゃんね、家族ってさ、家族なんだよ、ぎりぎりの均衡保ってなんとか家族やってるところに俺みたいな異分子がひょいって入ってくるとさ、そのぎりぎりの均衡って言うか、築き上げてきたものって言うか、そういうのが崩れるわけ。たとえば従兄の家では、もちろん従兄優先の生活。俺は全部後回し。で、叔父さんの給料が減って、もう俺を食わせていけないって判断したのか、今度は会ったこともない続柄も知らないおばちゃんの家。俺が七歳のときかな、もう覚えてないや、正確な年齢。あ、でも、そのおばちゃんのところにお世話になったときから小学校に通い始めたから、七歳だよね、うん。そんで、まあ、そこもいろいろあっていられなくなって、ほんとのたらい回しが始まった感じ。全然知らない、ほんとに親族? ってくらいわけの分かんない家にお世話んなったりもした。最終的に、俺十五歳になって、中学卒業したわけ、そうするとさ、義務教育じゃなくなるじゃん? こっから先は俺が自分で考えろ、みたいな感じで最後の家も追い出されて……どうしてたんだろ、とにかく、十五にしては俺は華奢すぎたから、体力系の仕事はできなくて、でも、頭も悪かったから事務とか経理とかもできなくて、そのうち有り金もなくなって、ほんと、こういう表現よく歌にあるけど、街の隅でうずくまってた。そしたらさ、そういうの見ると母性本能とかくすぐられるのか知らないけど、女が声かけてきたんだよ。しばらく、その女……美紀さんって言うんだけど、そう、美紀さんのヒモやってて……マジでヒモだよ、キャバ嬢やってた美紀さんと、セックスして金もらって好きに使って、家に住まわせてもらって……。でも、美紀さんは突然消えた。消えたって言うか……ある日俺が家帰ると、すげぇガスくせぇの、もう想像ついたっしょ? 美紀さんガス使って自殺したんだ。俺は逃げた。警察にいろいろ聞かれるって思ったら足が勝手に動いてた。それから、美紀さんにもらった金使って東京に来た。ああ、俺、東北出身なの。訛りないでしょ、だって、あったらいろいろ探られると思って、矯正したんだ。で、東京で、男も女も関係なくヒモやって、それでウーヤに出会ったんだ。でもさ、俺、もう、ここを出て行こうと思う。ウーヤのこと愛してるから、死んでほしくないんだ。だって、今までに俺をヒモにした奴ら、全員自殺か事故で死んでんだ。俺、ハリガネムシなんだよ。寄生して相手を食い殺す星の下に生まれてきたんだよ。ウーヤに、死んでほしくない。だから、……うん、今までありがとう。ウーヤのそばにいられて、俺たぶん、幸せだったよ。だから、今ここでバイバイ。最後まで迷惑かけっぱなしでごめん。ウーヤには、誠実で健気な女が似合うよ、うん。……ありがと。
◆
俺はユキヒロを引き止めることができなかった。彼があんまり切なく、美しく儚く笑うから。この部屋にユキヒロの私物なんてほとんどなかったけど、なけなしの荷物を持って、ユキヒロは俺の前から姿を消した。もう何日になるだろう。俺は仕事に行くことを忘れていた。ぼんやりと部屋でタバコを吹かし、開くはずのないドアを見つめていた。嘘だよ、本気にした? そんなふうにニコニコ笑って帰ってくるとか、ありもしない妄想を描いて、税率が上がる前にカートンで買ったタバコをひたすら消費する。ユキヒロは、最後まで俺の愛情を理解してくれなかった。自分の愛情ばっかり押し付けて嘆いて悲観して、失礼な奴。俺は神様でもなんでもないし、美しくもない。どうして俺は、ユキヒロに愛されたのだろう? 今となっては確認する術もなく。会社を無断欠勤して三日目、上司から連絡が来た。俺は、高熱を出して欠勤の電話が出来なかったと嘘をついてごまかした。熱も下がってきたので明日は出勤するとも伝えた。ユキヒロがいなくなったからって、世界が止まるわけじゃない。動いてる、少なくとも、俺の時計は止まらない。時が止まる、とかよく聞く表現だけど、あれ、嘘だよ。なあ、ユキヒロ、ほんのちょっとでも、俺の愛情は届いていた? 「困るんだよ、急に三日も休まれちゃあ」「すいません……」「ま、君は普段まじめだし、そんなことだろうとは思っていたけど」いつもの毎日がはじまる。変わったのは、家に帰っても暖房をつけて部屋を暖めてくれる奴がいないことだけ。それだけ。でも、それは大きい。心にぽっかりと大きな穴が開いたような感覚。ユキヒロがいなくても、世界は動いていく。時間は勝手に過ぎていく。ユキヒロがいなくなってから、彼が持っていた合鍵を探したけど、見つからなかった。ユキヒロが持ってる。そう思うことにして、俺は毎日毎日、期待しながらドアノブを回す。いつか、このドアノブがくるっと回って、勝手に開いて、あれ、と思ったらキッチンのほうからいい匂いがして、シンクに向かっていたユキヒロが振り返って言うんだ、「お帰り。今日ウーヤの好きなカレーだよ」って。馬鹿だろう、と自分でも思う。そんなわけないのに。そんなはずはないのに、視線はいつもユキヒロを探している。喧嘩するたびに彼が家を出てしゃがみ込んでいた公園のベンチ。真っ暗な夜の街灯の下。俺の休日にふたりで行った近所のゲーセン。どこにも、ユキヒロはいない。空気すら感じない。もう、気がついたら、ユキヒロが姿を消してから一ヶ月経っていた。表面上はいつもと同じように出勤して仕事して、帰って、ひとりで飯を食って、そんな生活を過ごしていた。今頃ユキヒロは誰かを抱いたり、それとも抱かれたりしているのだろうか。新しい寄生先を見つけたんだろうか。そう思うことも何度もあった。ユキヒロ、ユキヒロユキヒロユキヒロユキヒロ。思えば、俺はユキヒロの本名も知らない。ほんとうにユキヒロっていう名前なのかすら知らない。「俺、ハリガネムシなんだよ」悲しそうな横顔に、俺は言えなかった言葉をいまさら頭の中でリフレインさせる。「じゃあ、俺はカマキリでいいよ」って。あの日言えなかった、その一言を。言えていれば、何か変わっただろうか?ユキヒロは今もここにいただろうか? ifをどんだけ願っても無駄なことくらい分かってる。それでも、そう思わずにはいられなかった。俺は俺なりの愛し方でユキヒロを愛して、ユキヒロはユキヒロなりの愛し方で俺を愛して、そして結ばれなかっただけ。そう思うようになるのに、三ヶ月かかった。ユキヒロの笑顔を忘れそうになっている自分が怖くて、何度も何度も、夜中になると写真立ての中ではにかむユキヒロを見つめた。写真は嫌いだと言っていたユキヒロが、唯一残していった一枚。あの時、追いかければよかった。後悔が今も襲う。でも、諦めもついてきた。いつまでもぐちぐち言ったって、俺はユキヒロを追いかけなかったし、諦めた。所詮その程度だったんだろう? 自分に言い聞かせる。でも、外に出れば目はユキヒロを探す。繰り返し。堂々巡り。何百回も言い聞かせたって、俺はユキヒロを探してる。いるはずがないのに。最後に自分の身の上を話して出て行ったユキヒロ。きっともう、有り金はたいてこの街から脱出しているはずだろう。俺は、捨てられたのだ、ユキヒロに。そう思わないと、やっていけない。お前今、どこにいて誰とどんなふうに過ごしてんの。俺のこと、もう、忘れた?
◆
あの日から、一歩も動けない。体が、じゃなくて心が。ウーヤに迷惑かけないように、俺はこの街とサヨナラをする。電車に乗って、遠ざかっていく、見慣れた街並みを目で追う。ウーヤ、あのね、俺、嬉しかったよ、ウーヤが追いかけてこなくて。変な話なんだけどさ、もし追いかけてこられたら、俺きっとまたウーヤに迷惑かけるとこだったもんね。ウーヤ、ウーヤはさ、お前がヒモになってきた奴らが全員死んだからって俺も死ぬとは限らない、とか言いそうだし、きっと言うし、本気でそう思ってるんだろうけどさ、そうじゃないんだよ。俺は、神様にも見放された、可哀想なんて言葉じゃ片付けられないくらい運が悪くて最悪な性格で……もう、やめよ、悲しくなってきた。別に悲劇のヒロイン……俺男だけど……ヒロインぶってるわけじゃない。ただ、どうしても、ウーヤのそばは温かすぎて……俺は忘れてたんだ、自分のさだめって言うのかな、運命って言うのかな、そんな感じのもんを。今俺の隣にいるのは、タバコをやめられないガサツなOL。リエコって言うんだけど、セックス依存症で、その性欲に付き合いきれない、って彼氏にふられたこともあるらしい。俺は、そんなリエコの期待に応えられるから、だからそばにいる。でも、最近苦しいんだ。リエコが吸ってるタバコが、ウーヤと同じにおいするんだ。すごく苦しい。ウーヤのこと、俺がほんとに愛してたんだなって痛感する。それでも今日も、俺はウーヤのにおいのするリエコとセックスする。髪の毛がだいぶ伸びてきた。切りに行く、と言ったらリエコは万札をぽんっと俺に渡した。今時髪なんて千円で切れるんだよ、なんて思いながら、数日その万札を持て余し、結局普通のサロンで切ることにした。それでも、四千円。六千円の余りは何に使おうか、そんなことを考えながらリエコの家に帰ると、なんだか、いやに静かだった。俺は、何となく分かってて、寝室のドアを開けようとした。が、何か物が置いてあるのか、ものすごい抵抗だった。俺は何とかしてドアを開けて、ドアノブにタオルを引っ掛けて、首を絞めてるリエコを見つけた。もう、見慣れた、死体なんて。俺は、事切れているリエコのそばに紙切れを見つけた。拾い上げると、四つ折にされたメモ用紙で、「DEARしょーた」と書かれている。しょーた、はリエコにとりあえず教えておいた俺の名前。俺の名前はいくつでもある。ユキヒロってウーヤは呼んでいたけど、それだって本名じゃない。四つ折だった紙切れを開くと、まるで遺書みたいな内容が書かれてた。会社の金を使い込んで俺に与えてたこと、それがばれてリストラ、プラス返済を求められたこと、そんな金なんかないこと……。こうするしかなかった、の一言で遺書のような手紙のようなそれは終わっていた。俺にどうしろって言うんだよ。いつものように、最小限に留めた荷物をリュックに入れて、リエコの家を出る。外は暗い。この手に残った六千円で出来るだけ遠くに。もう終電は行ってしまっただろうから、動くのは明日になってから。コンビニで、ブリーチ剤を買う。いつもそうする。リエコの家に俺が出入りしていることは、もしかしてリエコの住んでたマンションの住民の誰かは知っていたかもしれないから、外見を変えるんだ。それは、最初に美紀さんが死んでから、ずっとやってきたこと。警察に追われないように、面倒ごとに巻き込まれないように。……どうして、俺が関わった人間は皆死ぬんだろう? 親戚の間をたらい回しされていたときもそうだった気がする。ただ子供だったから知らされなかっただけで、俺はそれでもうすうす勘付いてた。死ぬまではいかなくても、リストラされたり借金抱えたり……そういう理由で俺を手放してきたんだから、皆。俺がいると必ず不幸になるようにこの世はできてんだ。馬鹿につける薬はないって言うけど、ほんとだよな、ウーヤ。ウーヤだって辟易してたろ? 俺が女寝取って、そのたびに喧嘩して。ほんとはうんざりしてたんだろ? だから今頃俺がいなくなってせいせいしてるんだろ? ウーヤはきれいだから、すぐに新しい女が出来て、その女はウーヤに相応しい誠実で健気で美人で、非の打ち所がなくて……俺とは正反対の可愛い彼女が、もうきっと隣にいるんだろ? 俺がどんなにもがいてもたどり着けなかった、「ウーヤの隣」に。分かってる。分かってるんだよ、俺に「ウーヤの隣」に座る権利なんて持ってないこと。だから、ウーヤが死んでしまう前に、俺はウーヤから離れたんだよ。だから、幸せになってもらいたいんだ。俺は幸せを知らないけど、でも、俺はたしかにウーヤのそばにいたとき、幸せだったんだと思うよ。だからありがとう。
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転勤。突然、この街を離れることを余儀なくされた。ユキヒロとの思い出が詰まったこの街を離れることを。最近の俺は仕事が以前に比べて遅くなって、仕上がりも悪かったから、まあ、体のいい左遷だな、と思うことにした。悔しさも怒りも、何もなかった。悪いのは、自分なのだから。荷造りしながら、俺は一枚のCDを見つけた。パソコンに入れて再生すると、俺は絶対に聴かないようなパンクロックが入っていた。……今までの恋人たちにそんな音楽の趣味を持った奴はいなかった。ひとり、ユキヒロを除いて。彼は俺の恋人だったのか、そうじゃなかったのか。新幹線に乗り込んで、ノートパソコンを開いてイヤホンでパンクロックを聴きながら仕事をする。……駄目だ、気分が乗らない。音楽を止める。静かになる。周りには俺がキーを打つ音だけが響いて、静かだった。かちゃかちゃかちゃかちゃ。そういえば、ユキヒロはこの音を好きだと言った。俺は打つのが速い。その音を聞くのが、俺が仕上げにひときわ力を入れてエンターキーをかつん、と押すのが好きだと言った。どこにいても、ユキヒロの幻影は付きまとう。今頃どこで何をして、誰と過ごしているのだろう。一年経った。ユキヒロは変わっただろうか。あのくしゃくしゃな黒髪はどうなったろう、華奢な体はどうなったろう。最近そんなことばかりを考える。恋人もできた。でも、長続きしなかった。「祐也は、私を見てないよね」そんなふうに、寂しそうに言われた。そんなことない、そう言わなかったのは、そのとおりだったからだ。俺は、彼女にユキヒロを重ねていた。くしゃっとしたショートヘアに、華奢な体。女であると言うことをのぞけば、外見はユキヒロにそっくりだった。そして、ユキヒロが言っていたような「誠実で健気な女」だった。それでも、俺は好きになってやれなかった。どこにいても何をしていてもユキヒロの影がちらつく。彼女のふとした仕草にユキヒロの癖を思い出す。彼女の笑顔にユキヒロのはにかんだ顔を重ねる。誠実で健気な女は、勘も鋭かったのだ。それでも、大して悪いと思っていない自分に吐き気がする。どうして一度はユキヒロの愛情を怖がったりしたのだろう。今ならきっと、全部受け止められる。受け止められるけど、もう、遅い。ユキヒロはどこかへ行ってしまった。ふわふわと、羽がついているような男だった。浮世離れしていると言うか、地に足がついていないと言うか。正確な年齢も知らなかった。たぶん二十代前半、と勝手に見当をつけていた。考えてみると、俺はユキヒロのことを何も知らなかったんだ、と思い知らされた。彼が自分の身の上を語るまで、何も。いや、語った今でも、知らないことは多すぎて、後悔ばかりが襲う。もしもう一度会えたなら……そんなことばかり、最近思う。三島は、それなりに田舎で都会だった。過ごしやすい場所、というのが印象だった。今の俺はどうかしてる。ユキヒロを失って一年も経つのに、まだ未練がましく彼を待っている。「……ウーヤ?」会社を早めに上がって帰路についていた。夕暮れが明日の天気を知らせている。そんな情緒的なことを思いながら、道を歩いていた。その声に、思わず足が止まり、体が固まる。ブリキの人形のようにギギギ、と音がするんじゃないかと思うほどぎこちなく、振り向いた。俺をウーヤなんて呼ぶのは、ひとりしかいない。そこにいたのは、俺といた頃の見る影もないユキヒロだった。真っ白に染まった髪の毛に、黒いフレームの眼鏡をかけたユキヒロがそこに棒立ちしていた。お互い、唖然とした表情で見つめ合う。ややあって、ユキヒロがぼそっと言った。「仕事は?」「転勤になったんだ」「ふうん」「ユキヒロ」名前を呼んだ。すると、ユキヒロは首を振った。「もう俺、ユキヒロじゃない」それでも俺は名前を呼んだ。何度も何度も、繰り返し呼んだ。ユキヒロの顔がくしゃっと崩れて、涙が一粒こぼれた。「ユキヒロ」「俺、俺……」しゃくりあげながら、ユキヒロはしゃがみ込んだ。「あれから、何してた?」「……ふたり」例のジンクスのことだろうと予想がついた。ユキヒロは少し痩せたように思う。「ユキヒロ、顔上げろ」「……」眼鏡を外したユキヒロの手を取って、立たせる。「俺、死んでないから」「……」「これから六十年くらい、死ぬ予定もないから」「……」だから、だから。俺は、言葉にならなくて、ユキヒロを抱き寄せた。「俺は、死なない」ユキヒロはわんわん泣いて、俺のマンションまでついてきた。夕焼けは、とっくに夜の帳に塗り替えられていた。
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