人は"救われる"為に何をすればよいか?
人は"救われる"ために何をすればよいか?
結論から述べると、
人は"福音"を信じれば、救われます。
"福音"とは何かというと、
"良い知らせ=グッドニュース"という意味。
"ニュース"という以上、それは"とある情報"なのです。
情報である以上、知ってる人と知らない人の間には情報格差ができます。
この差がびっくりするほど大きいのです。
知らないまま死ぬには勿体なさすぎる"福音"
上を要約すると、①イエス・キリストは、自分(わたし)の罪の身代わりとなって十字架に架かって死に、②墓に葬られ、③三日目に復活された。要するに、クリスチャンと呼ばれる人は基本的に、以上を事実として受け止め/信じている、ということです。使徒たちが命がけで伝えた内容、現代のクリスチャンたちが伝えたいと願っている内容…それがこの数行に凝縮されているのです。どうです、拍子抜けするくらいシンプルでしょう?
ところが、これを一般的な日本人が聞くと、頭の中に「???」が増殖されるわけです。熱っぽく情熱的に語れば語るほど「いや~、ちょっと言ってる意味が分かりません」となるのは当然で、ここに登場するほとんどの言葉は専門(業界)用語なのです。各々、言葉の裏に隠れた意味が潜んでいます。「信じる」とか「信仰を持つ」という言い回しも業界用語。内容は「事実として認める」くらいの意味です。
隠された意味…その中心は"イエス・キリスト"という人物。福音を信じるということは、この人物が旧約聖書の始めから約束されていた救い主メシア(ギリシャ語でキリスト)であることを認める、という意味です。
次にメシアは、自分(わたし)の罪の身代わりとなって十字架に架かって死に、墓に葬られ~というくだり。ここは文字通り、メシアが身代わりの死を遂げるという内容です。聖書には、罪の報酬は死です(ロマ6:23a)という言葉があり、このために私達全員、いつか死ぬことになっています。端的に言えば、人間が死ぬのは罪のせい…ということです。
ここで語られている罪とは、物を盗んだ、嘘をついた、人を殺したなど個々の罪ではなく、その源となっている罪のことで、"罪の性質"とした方が分かりやすいかもしれません。個々の罪は、これが表に出てきたものに過ぎず、大元になっている罪の性質を何とかしなければ、人は死を免れないということなのです。なーんだ、罪の性質さえ何とかすればいいんじゃん…と思いますよね。でも人は、罪の性質を変えることも無しにすることもできない。人は罪に対して絶望的に無力です。
神抜きで救いを得ようとする人と救いの道を用意される神
人間は、致命的な問題を抱えている ――― それが罪。ここから派生する諸問題を解決するために、人間は様々な方法を編み出してきました。まず、人間は、「神抜きで」自らを救う方法、もしくは罪に関わる諸問題の解消方法を模索し始めます。これは現在進行形で行われているのですが、神がいくら手を差し伸べようとも「あ、間に合ってまーす」と突っぱねるわけです。人は自ら望んで、"神抜きで"生きたい存在なのです。
紙や印刷技術を発明した人間は、文字を通じて、お互いの意思疎通が以前よりは格段にできるようになりました。これで相互理解が進み、戦争もなくなるだろうと思われました。産業革命に伴い、商業主義や物質主義が台頭、「皆でリッチになれば皆幸せになれるはず」でした。後に現れた共産主義は「いや、それでは格差が広がるだけだ。富を平等に分配せよ。平等になれば争いはなくなる」と革命を呼びかけます。近年、インターネットの登場によって、互いの意思疎通はさらに早く、安価にできるようになりました。そして西側諸国の主流となったグローバリストたちは「国境を取っ払って、統一政府と統一宗教、そしてより堅固な世界保健機関を」と主張しています。ここまでやれば「キット、戦争はなくなるはず」なのでしょう。
政治家にばかり任せておけない芸術家は「平和的な手段で世界を一つに」と言い、霊能者たちは「我々自身が宇宙と一つに、神になればよいのだ」と主張します ――— 脱炭素、LGBTQ、SDGs等の新しい価値観、○○主義、○○イズムなど、何度も形を変えて表舞台に出てくるのは、そうした人間の足掻きの結果なのかもしれません。そして今、mRNA技術の発展により、人間は癌や糖尿病、認知症からダウン症に至るまで、すべての疫病を撲滅しようとしています。さらに、脳をデジタル化(デジタルクローン)することで、永遠に生きることだって可能だとか―――。
人間は、その生存をかけて、生命を永らえるもの、罪から派生する種々の問題に対する答えをひねり出そうともがいてきました。人はいつか、罪の問題を解決できるようになるのでしょうか? あと何千年かあれば、人はその高みに到達できるのでしょうか?
一方、神は神の側で、人とは全く異なる方法で、人間の救いを実現しようと動き始められました。それもかなり早い段階で。
死罪を免れることのできない人間が、とある罪のない人間の身代わりの死によって無罪とされるというのが、神による人間救済計画でした。神は人間を見捨てたわけではなかった、ということが神のこの行動から窺い知れます。アダムとイヴが罪を犯した、あの悪名高い事件の直後、神は一見、不思議な行動に出るのです。神は、獣を殺し、その皮で衣を作り、それを人間に着せました。人間のために血が流され、罪を贖う(へブル語カファルכָּפַר(kaphar)は、罪を「覆う、贖う、赦す」の意味)という、メシアによる身代わりの死が、ここに型として予表されています。
そもそも、罪とは神に対して犯すものなので、神のみが罪赦す権利を持っています。神は御自身が遣わしたメシアを、人が信じればそれでよい、とされました。キリスト教ではこれを信仰義認(しんこうぎにん)と呼んでいます。要するに神御自身が「赦す」と言えば、それでよいのです。反対に、罪を犯した側、加害者側である人間が、その後、罪滅ぼしのため、どれほど善行を積み上げようと、自分の身体を傷つけようと、いのちを捧げようと、受け入れられることはないでしょう。加害者側である人間が、赦しについて口を挟む余地はないですし、「これだけやれば十分」、「それだけでは足りない」と言う資格も元々ありません。
二千年前に来られたイエスは、人間の根本的な問題である「罪」を指摘するだけでなく、イエス自身がその解決となったことは驚くべきことでした! 人間の歴史の中で、賢人や人格者は多く出ましたし、種々の罪を指摘する人間はいたでしょう。ところが、誰一人として、人間の本質的な罪と、その解決を担った人はどこを探しても見当たりません。
2000年前に誕生したメシアと現代を生きる私たちの関係
まあ、イエスという人物はなんか凄いんだろうなというのは、なんとなくわかった。でも、イエスと自分と何の関係があるの? ―― これはよく受ける質問の一つです。2000年前、中東の片田舎で生まれたイエスと、現代に生きる自分たち、一体どんな関係があるのでしょうか?
結論から言うと、貴方に原罪(罪の性質)がないならば、貴方とイエスは関係ありません。したがって、救われるためにイエスを信じる必要もありません。貴方に原罪(罪の性質)がないということは、既に貴方は神と関係を持っているはずなので、既に救われているからです。貴方に罪の性質がないということは、罪を犯すことができない状態にあるので、生まれてこのかた罪を犯したこともないはず、です。
上記の報酬という言葉は、労働などの見返りや対価として与えられるものをいいますが、ここでも同様に対価として必ず与えられるものを指します。人の一生の最期に死という結果があるということは、罪の対価を支払っている、という意味になります。反対に、罪がない人は既に救われているので、そもそも死ぬことがありません。死とは罪の結果だからです。「自分には罪がない」という人は、アダムとエバの時代からずっと死なずに生き永らえてきたのかもしれません。これからも死ぬことはありません。そういう人には、イエスは必要ありません。既に永遠のいのちを得ているからです。
少し意地悪な言い回しになってしまいましたが、原罪がないとはそういう意味です。「私たちは皆、罪びとです」という聖書の言葉は、この原罪による逃れられない事実があるがゆえです。
原罪による逃れられない事実の真っただ中にいるのが私達人間で、もはや自分たちではどうしようもない状態です。自分を救うことすらできません。それとも上記のように「神抜きで」頑張れば、できるでしょうか? 世界中の人類が結束し、一つになれば達成できるでしょうか? 戦争をなくし、飢饉や病いを克服し、そして遂には、救いを得る(死を克服する)ことができるでしょうか?
価なしに義と認められるとは、救われるために「何もしなくてよいよ。お金も要らんよ」という意味です。「自分の先祖がそうだったように、自分はいつか死ぬ」と理解でき、死がある以上、自分には原罪がある(=罪人である)と認める人に対して、神は手を差し伸べてくれている。それも自分たちが生まれる、ずっと以前から。筆者は、自分の力で戦争や病い、飢饉をなくすことも、死を滅ぼすことも、原罪を無き者とすることも無理と判断し、神の用意されたメシアを信じることにしました。神が用意された救いの手段が、メシア(ギリシャ語でキリスト)だった、ということです。
旧約聖書の預言には、この①身代わりの死を遂げるメシア(ヨセフの子)と②王として地を裁くメシア(ダビデの子)の二つの型が登場します。約二千年前にイスラエルに生まれたイエスは、前者のメシアだったのです。キリスト教では、①を"初臨(しょりん)"、②を"再臨(さいりん)"と呼んでいます。ユダヤ教では、メシアのこの初臨と再臨の概念が混合しているため、メシアの到来に関して、未だに混乱が生じています。
このメシアの目的は、人間の救いですから、単に世界のどこかで生まれて、密かに死んでいくようでは、その役割を果たすことができません。メシアが人に注目されることは、重要事項だったのです。そこで神は、このメシアに様々な条件を課して、実際に生まれた時、「この人がそれである!」と誰もが分かるようにされました。
ただ、このメシアに課された条件というのがかなり厄介で、すべての条件をクリアするのが中々に難しい。―――こうした条件をすっ飛ばして「私がメシアである」という人は、今でも後を絶ちません。2022年の日本でも統○協会が社会的な問題になってますし…。このように旧約聖書の預言(約束)をまったく無視して現れる人や団体のことを「偽メシア」「偽預言者」「カルト」「異端」等と呼んでいます。
さて、メシアに課された条件とは?
メシアの条件
先ず、その出生について。メシアはアブラハムの子孫(創世22:18)であり、ユダの子孫(創世49:10)であり、ダビデの子孫(I歴代17:14)であって、ベツレヘムに生まれる(ミカ5:2)必要があります。アブラハムもユダもダビデも知らなくとも、要するにメシアはユダヤ人である、ということは分かっていただけるでしょうか。ユダヤ人って条件だけなら、世界中探せば、こういう人、いるかもしれません。でも…実際には難しいんです。何故なら、ユダヤ人の家系は紀元70年(ローマ帝国がイスラエルの神殿を破壊し、民族が離散)以降、記録が焼失してしまっているから。辛うじて名前から判断できるレビ人(コーエン、レビ、リーヴァイ等)以外、ユダヤ人は自分の先祖が誰か、分からなくなっています。ですから紀元70年以降、"私こそメシアだ"と名乗る人が現れていたとしても、メシア認定するのは難しい。となると、メシアは紀元70年以前に生まれた人の中から探すのが妥当ということになります。さて、イエス以外で上の条件に合致するような人物は見つかるでしょうか?
さらにこの人は、処女から生まれるという条件を満たさなければなりません。はたしてそんな人間は歴史上存在するでしょうか? 男女の性交渉なしに、人としてのメシアが生まれるという意味ですから。処女マリアから生まれたという、"あの人"以外でメシアとなり得るユダヤ人は歴史上存在したのでしょうか? 少なくとも筆者は聞いたことがありません。
次にメシアの業(わざ)について。長いユダヤ人の伝統の中に、メシアだけが為し得る奇跡(Messanic Miracles)というのがあります。それは、①ツァラートの癒し(マタ 8:2-4、マル 1:40-45、 ルカ 5:12-16)、②口のきけない悪霊の追い出し(マタ 12:22-37、マル3:19-30.)、③生まれつき盲目の人の癒し(ヨハ 9:1-41)です。上記の奇跡を行う人が現れたら、それはメシアである、というのが当時のユダヤ人社会における共通認識だったのです。
最初の①ツァラートは重い皮膚病で、皮膚全体に白いかさぶたができる伝染病です。罹った人は、当時のユダヤ人コミュニティから隔離されました。普通の社会生活ができなくなるだけでなく、人とすれ違う度に「汚れている、汚れている」と叫んで、注意を促す必要があったのです(レビ13:45)。イエスはこの人を癒し、こう言います。「~行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい」(マタ8:4b)。モーセの律法によると、ツァラートが癒された人は、祭司に検分してもらい、完全に治癒したことを確認した後、ささげ物をするよう規定されています(レビ14:4-9)。ところが、ユダヤ人の歴史では、そのような人は一人も現れませんでした。従って、ユダヤ人の間では「ツァラートを癒す者こそメシアである」と信じられていたのです。イエスはわざわざ「祭司に見せなさい」と言うことで、当時のイスラエル指導者層に、メシアが到来したことを伝えさせたのでした。
二つ目。②悪霊を追い出す人のことを"エクソシスト"といいます。どこかで聞いたことがありますね。通常、悪霊祓いをする場合は、悪霊の名前を聞き出し、「<悪霊の名前>よ、出て行け!」と言って追い出します。ところが、口のきけない悪霊の場合、コミュニケーション自体ができないので、これを追い出すことができるのはメシアだと思われていたのです。実際、イエスがこの特殊な悪霊を追い出した時、周囲にいた人たちは「もしかすると、この人がダビデの子(メシア)なのではないだろうか」(マタ12:32b) とひそひそ話し合っています。
最後に③生まれつき盲目の人。この人はいつも同じ場所で物乞いをして生活費を稼いでいたため、ある意味有名な人だったようです。この日のエルサレムは、祭りの日の人出でごった返していました。イエスは奇跡を行った後、姿を消し、"盲目だった"人だけが残されました。騒ぎの原因となったこの人は、当時のユダヤ人指導者たちに取り押さえられ、何度も尋問を受けます。初めて目が見えることの感動に打ち震える暇もなく、まるで罪人のような扱いを受けたこの人は、呆れ果ててこう言い放ちます。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(ヨハ9:25b) この言葉は含みがあって「私は今まで、メシアが来れば生まれつき盲目の者も癒されると、あなたたちから教わってきたのですよ」と、指導者たちを皮肉ったのです。
上記のエピソードは、当時のユダヤ人社会の底辺に位置する人たちにまで、メシアに関する知識が浸透していた証拠でもあります。そして最後に、身代わりの死を遂げた後の復活に関する預言を紹介します。
メシアの復活に関する預言は、この他にも、詩篇などに多くみられます(例:詩篇22篇)。そして、身代わりの死を遂げるメシアを象徴する箇所が、イザヤ書にあります。
まるでイエスが十字架に架かる様を見てきたかのような描写ですが、これは後世の人間(例えばイエスの弟子)が、都合の良いように付け加えた文章ではありません。イザヤは、イエス誕生の約700年前に活躍した、れっきとした旧約時代の預言者です。ちなみに、現代のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)では今でも、伝統的に旧約聖書の朗読が為されますが、このイザヤ書53章だけはすっ飛ばされるそうです。何故か? この箇所を読むと、嫌でも"あの人"を連想してしまい、必ず、大議論を巻き起こしてしまうから、だとか。
イザヤ書はこの後、8節で生ける者の地から絶たれたと続き、10節では、末長く子孫を見ることができると記されています。一度絶たれた(死んで)後、子孫を見ることができるという意味なので、よほどひねくれた読み方をしない限り、この人は死んだ後、復活すると記されているのです。
そして極めつけは証人の存在です。十字架刑の後、復活したイエスを見た人たちがいたということです。この手紙の著者パウロの執筆時までに、少なくとも五百人以上の人が見たと書いています。
ここまで記してきたのが、①身代わりの死を遂げるメシア(初臨のメシア)の条件ですが、これもまだ一部に過ぎません。こうした厳しい条件をクリアしている歴史上の人物といえば、筆者はイエス・キリストしか思い当たらないのですが、いかがでしょうか?
ちなみに②王として地を裁くメシア、つまり再臨のメシアの条件も少しだけ紹介しましょう。
統○教会の文鮮明(ぶんせんめい)をはじめ、韓国には自らのことを"再臨のメシア"と呼ぶ人が40人、50人といるそうです。日本人の麻原彰晃(あさはらしょうこう)も自らのことを「救世主キリスト」と呼んだとか。さらに世界に目を向ければ、"自称メシア"は履いて捨てるほどいます。ところが上述のとおり、再臨のメシアは、既に成人された状態で白い馬に乗って、軍勢と共に天から降りてきます。義をもってさばき、戦いをされるので、改めて赤子から成長するのではない。自らをメシアと名乗る人の子供の頃の写真など見つけたら、その人は"再臨のメシア"ではあり得ません。さらに再臨のメシアは死ぬことがないので、死んでしまった文鮮明はメシアではあり得ないのです。
救いって、何からの救い?
寂聴さんが言われるところの"救い"と聖書の"救い"は、言葉は同じでも内容は異なります。時折「自分には救いは必要ない。悩むことこそ人生さ」と嘯(うそぶ)く人に出くわします。この人たちは恐らく上記のような「悩みからの救い」が念頭にあるのでしょう。これを同列に語ると、話が食い違い、議論になりません。要は何からの救いか?という点です。
端的に答えると、聖書の救いとは"神の怒り"からの救いです。地球の歴史の中で一度だけ、神の怒りが下った事件がありました。神が人間を造ったことを悔やまれ、地上から人間を消し去ろうとされたことがあったのです ――― これが、ノアの洪水でした。
ノアの洪水に匹敵する、地球規模の禍(わざわい)、これをキリスト教界では"大患難時代"と呼んでいます。筆者が信者となった時には"そんなの、まだまだ先でしょ"とタカをくくっていたのですが、今私たちの身の周りで起こっている数々の出来事、それらがパズルのピースを組み上げていくように成就していく数多の聖書預言を鑑みると、どうやら私たちが未だ生きているうちにやってきそうな勢いなのです。
大患難時代とは、地上における7年間(正確には1260日x2=2520日)の最も苦しい時のこと。旧約聖書では、主の日(イザ2:12, ヨエ1:15)、ヤコブの苦しみの時(エレ30:10) 新約聖書では、大きな苦難(マタ24:21)やがてくる御怒り(Iテサ1:10)、試練の時(黙示3:10)、御怒りの大いなる日(黙示6:17)…など幾つか言い回しがあるのですが、どれも同じ意味です。旧約・新約聖書を通じて、度々警告されています。実際にどんな苦難があるのか?については、後日、書き加えることにしましょう。
さて、この大患難時代から救われる唯一の方法が、ここまで書き綴ってきた内容なのです。下にある試練の時とは大患難時代を指す言葉です。信者たちを守ると書かれた次の聖書の言葉は、これまで100%成就してきた聖書預言の一つであるがゆえに、信頼に値する言葉だと思いますが、いかがでしょう?
今すぐ、救いを手に入れる
救われるのに、代償は要りません。まったくの無償、タダです! 高価な壺を買う必要もなければ、敬虔で善い人になる必要もありません。その他、毎週教会に通う必要もないし、献金する必要だってない。もっと言えば、救われるために洗礼を受ける必要すらありません。今、ありのままの貴方でよいのです。代償は既にイエス・キリストが十字架上で支払ってくださった。そういう意味では、父なる神はこの上なく高価な代償を支払ったことになります。これを無償で受けることができるのですから、このチャンスをみすみす逃す手はありません。神からの贈り物として受け取るだけでよいのです。
救いは今すぐ手に入れることができます。一刻も早く、上記メシアに関する事実を受け入れた方がよい理由があります。それは、携挙(けいきょ)が近いと思われるからです。携挙を教えないカトリックや東方教会は別にして、今、世界中のクリスチャンが同時に「携挙は近い」と感じているらしく、家族や友人にメッセージや手紙を遺しているようです。携挙を逃すと必然的に大患難時代を潜り抜けなければなりません。自分の親しい人たちが、災いの只中に放り込まれるのは見るに忍びないでしょう。その時彼らは聖書預言の成就を目の当たりにするでしょう。無論、その時に信じ、大患難時代を生き延びれば救われます。それでもおススメはできません。それほど過酷で非情な7年間だからです。
神はどのように、信者たちを救い出すのでしょう? 神には大患難時代が始まる前に救い出す計画があります。それが前述の携挙です。携挙は、神による物理的な救いの手段でもあるのです。
今の時代の救いには終わりがある!
そして、重要なこと! 今の時代(教会時代)の救いには終わりがあります。
これは使徒パウロがローマの信徒たちに宛てた手紙です。奥義というのは、彼のみに示された啓示(預言)のことで、ユダヤ人の一部は当時も今も福音に対して心を閉ざしていますが、それも異邦人の満ちる時までであるということ。(異邦人とはユダヤ人以外の人、すなわち私達のことです)つまり、私たち異邦人の最後の一人が福音を信じて救われた時点で「そこまで!」と、後ろで扉が閉められるのです。異邦人の数が満ちると携挙が起こり、教会が天に挙げられます。上は、その後いつかの時点で、生きているユダヤ人がすべて福音を信じるようになるという啓示(預言)です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。もし今、貴方が今すぐ救われたいと願うなら、以下の「救いを求める祈り」を心の中で唱えてください。もちろん、声に出して祈っても大丈夫です。
その他のページも時間のある時に目を通してください。理解が深まるかもしれません。
《参考》
・CHRISTOLOGY: THE DOCTRINE OF MESSIAH.
By Dr. Arnold G. Fruchtenbaum
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