ケーキの味は幸せの記憶だ。
ケーキは幸せの味だ。幸せな記憶と結びついている。そんなケーキが好きだ。クリスマスやお祝い事の、ましかくで花がらや星がらの箱に入って、着飾ったケーキも、友人とカフェで食べるフィルムが丁寧にまかれたひときれのケーキも、回転寿司でプラスチックのお皿に乗ってのっぺりと流れてくる安っぽいケーキも。そして私たちには、時に荒野のような人生を歩む人々には、幸せの記憶が必要だ。ケーキという概念が必要だ。
ケーキと紅茶やコーヒーを食するとき、その記憶を辿るとき、そこには幸せで安心していて安全であたたかく、おいしく、友人や家族との楽しいひとときがある。今思い出してみても、ケーキと一緒に思い出すつらい記憶が全くない。もしかしたら勝手に脳内消去されているのかもしれないけれど、でも、ということはケーキを思い出すとき、私は幸せな記憶を思い出し、幸せな気持ちにいつでもなれるということだ。すごいライフハックではないか。気付いてしまった。
最近食べたケーキは、お茶の水のコージーコーナーのショートケーキだった。大学の同期と先輩数人と、一緒に食べた。いつ苺を食べようかひとりでずっと口に出さずに悶々と迷っていた。しかし適当なタイミングでえいやっと食べた。ショートケーキの苺をいつ食べるのかは、ささいなようでいて大きな問題だ。いつも地味に悩んでしまう。
高校2年の今くらいの時期だったと思う。家庭科の授業でホールケーキを作ったことがあった。すでに出来合いのスポンジに、回転台を使ってクリームを塗り、デコレーションをするという、今考えればABC〇ッキングスタジオでも体験できるのかわからない夢のような授業なのに、デコレーションしたい材料を持ってくるようにと言われたのに、しかしそれにも関わらず、私は材料をなんとすべて忘れたのであった。しょうがないので友人たちにデコレーションのための材料の寄付をお願いしにまわり、やっとのことで苺をわけてもらった。簡素なデコレーションのケーキだったけど、おいしかった。その時の友人がいまどこで何をしているかわからないが、彼女のことはたぶん忘れない。
崩れてしまいそうなふわふわの芸術品のケーキを、私たちは大切に、ゆっくり食べる。持ち帰るときには、保冷剤と、四角い箱と、斜めにしないようにする細心の注意とが必要だ。満員電車なぞ大敵である。
ケーキはまるで私たちの幸せという概念を体現しているかのようである。
作るのには手間暇と時間と試行錯誤が必要なのに、壊れやすいもの。
美味しさを維持するのも大変なもの。
大切に扱いたいもの。
ずっと味わっていたいけれど、すぐに口の中で溶けてしまうもの。
でもだからこそ、一度味わったら忘れられないもの。
私たちは、いったい人生で何回くらいケーキを食べるのだろう。壊れやすいケーキとともに、壊れやすい幸せも噛み締めていきたいと切に思う。
そして時に荒野のように変化する私たちの暮らす時間に、ケーキという概念は必須だと思う。幸せな記憶は、私たちの未来を助けてくれる。幸せな記憶は、ケーキを作るときみたいに、物語として作ることもできると思う。