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『第七官界彷徨』 尾崎翠

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

「私」の名前は小野町子。
町子が兄二人(小野一助・二助)と、いとこの佐田三五郎が共同生活する家に、炊事係として同居することになるところから、小説は始まる。

心理病院に勤務する心理医者の一助、大学で農作を研究している二助、そして音楽大学を受験するため勉強中の佐田三五郎。
この3人と共に暮らす日々が、町子の目を通して語られるのだが、その生活はまるで不条理劇だ。

二助は自室の床の間を大根畑にし、こやしを大鍋で煮ては家中に臭いを充満させる。彼が熱中している研究も、蘚苔の恋愛なる奇怪なものである。

三五郎は大して勉強もせず、どうもだらしのないチャラ男だ。
この三五郎、町子のくびまき(マフラー)を買うためのお金で自分のネクタイを買ってきてしまい、「くびまきはまだ急がないだろう」と、まったく悪びれない。
それに対して町子も、「まだくびまきのぜひ要る季節ではないし」と、全くもって呑気なのだ。

「仕方がないからネクタイはこの部屋の飾りにしよう」
三五郎は女中部屋の釘にボヘミアンネクタイをかけた。私の部屋にはいままで何ひとつ飾りがなかったので、まっくろなボヘミアンネクタイは思いつきのいい装飾品となった。

と、まるでボケ二人のコントである。

「僕の蘚はじつに健康な、一途な恋愛をはじめたんだ。蘚というものはじつに殉情的なものであって、誰を恋愛しているのか解らないような色情狂ではないんだ。」

という二助はかなりぶっ飛んでいるし、そんな二助に毒されているというか便乗しているというか、

「あれほどに重い隠蔽性患者は、十六人部屋に移して共同生活をさした方がいいんだが、患者自身が決して一人部屋から出ようとしないんだ。あれは、やはり、人間の祖先であった太古の蘚苔類からの遺伝であって、蘚苔的性情を遺伝された人間というものは、いつもひとところにじっと根を下ろしていたい渇望をもっているんだ。」

と、一助も一助である。

とにかくこの家庭の人々は、能天気に狂っていて憎めない。
そして彼らはそれぞれに、うまくいかない恋愛事情を抱えているのだが、三五郎に至ってはその相手は町子でもあり、隣に越してきた少女でもある。町子も本人が「私の恋愛」と明言するものの他に、その気持ちは三五郎に向かっているとも、隣家の少女に向かっているとも読めるような感じがするし、さらにはうっすらと、プラトニックとまでもいかない観念的な近親相姦的雰囲気もある。

「どうしたんだ。我儘は困る」と三五郎が言った。「すこしだけだんだらが残っているんだ。あと五分だけ我慢しろ」
「眠いんだね。夢でもみたんだろう」二助はやはりペンの音をたてながら言った。「すこしくらいの虎刈りは、明後日になれば消えるよ。ともかくおれの背中からとってくれなければ不便だ。連れてって寝かしてやったらいいだろう」
私は二助の背中から彼の足もとに移り、畳に置いた両腕に顔を伏せてただ睡ってしまいそうであった。

上は、町子が三五郎に髪を切ってもらいながら、眠気に襲われて二助に寄りかかって寝てしまうという場面だが、ここなど、なんとも言えないある種の萌えシーンである。

本作の他にも作者は「町子もの」をいくつか書いていて、『歩行』という作品では町子は兄の同僚である心理医者に恋をして失恋に苦しみ、『地下室アントンの一夜』では、お使いに来た女の子として登場する。
どの作品も浮遊感のある詩的な世界であり、また極上の不条理コントだ。

本作が書かれたのは昭和6年。この時代にあって、こんなにのびのびとユーモラスな作風で創作をした尾崎翠は、まさに稀有な存在だ。
現代であれば、ミランダ・ジュライのようなアーティストになっていたかもしれない。

早すぎた天才、執筆再開が固辞されたのが惜しまれる、といった、彼女が本来もっと評価されて享受されるべきだったという意味合いの表現がよくされる。
だが私の尾崎翠への思いは、こんなに素敵に面白いものを作り出してくれてありがとうと、その言葉に尽きるのだ。

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