プロ奢オンラインサロンの倫理と資本主義の精神 #プロ奢贈与研レポート

このnoteはプロ奢マガジン購読者限定のオンラインサロン内にある"野生の大学”で行われている贈与論の講義の最終課題レポート #プロ奢贈与研レポート である。

名前:白紙
学年:博士後期課程1年
Twitter ID:@mzfzrd
日付:2020/05/21


概要

本稿は、プロ奢サロンの創生期におけるコミュニティの形成と発展について贈与論の観点から考察し、コミュニティにおける贈与のはたらきと、現代社会および今後の社会における贈与の在り方について述べたものである。なお、本稿はマックス・ウェーバーによる論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(通称:プロ倫)とは関係ない。

背景

マルセル・モースは著書「贈与論」にて<全体的>社会現象の中に現れる贈与という事象を他の事象から切り離し、帰納的検証を行うことで議論した。現代社会においては資本主義が広く支持されているため、経済活動という事象を排して単純に贈与単体の事象を理解することは難しい。そのために「贈与論」では、経済活動から切り離されている未開の民族を対象とすることで贈与の例を挙げて考察を行なったと考えられる。

モースは同著で次のように述べている;「贈与(給付)は任意な形で行われるが実際にはまさに義務的な性格のものであり、私的あるいは公的な戦いがもたらされるようなものである」。要約すると、「贈与は一見して自由で主体的に行われていると考えがちであるが、実際には社会構造と深く結びついた義務的な性質を強く持つものである」と解釈できる。

しかしながら、現代においても"贈与のようなもの”は根強く存在しており、「贈与は社会構造と深く結びついている」というモースの立場に立てば、もはや資本主義社会の現代における"贈与のようなもの”を経済活動と独立に理解することは不可能であると考えられる。したがって、現代社会における贈与と未開の民族における贈与に何らかの関係はあると考えられるものの,同一に議論できるわけではなく、現代社会における"贈与のようなもの”ーーつまり、経済活動に付随した贈与ーーの性質を調べ、それ以外の贈与ーーつまり、経済活動に付随していない未開の民族の贈与ーーとの関係性と相違点を明らかにすることは現代の贈与研究における重要な研究課題である。

また、近年の日本では「嫌なこと、全部やめても生きられる」と言った、反資本主義的とも呼べる思想が蔓延しつつあり、この思想は2020年3月から発生した新型コロナウイルスに依る世界的な経済被害の後押しによってさらに広まっていると考えられる。反資本主義的な思想をもつ人類は、現代人の中では比較的民族に近い人類であると解釈できるため、上述の現代社会における"贈与のようなもの”と未開の民族における贈与の関係性を議論する上で重要な研究対象である。

目的

本稿では、形成された直後の小さなコミュニティにおいて、反資本主義的な思想をもつ人類を対象に起こる<全体的>社会現象および贈与の発生について調査し、現代社会における贈与について議論することを目的とする。

また、形成された直後の小さなコミュニティ、および経済合理性を排した民族に近いコミュニティでの贈与のはたらきについて調査することで、コミュニティ形成における贈与の役割について検討すると共に、資本主義が崩壊した後の世界で引き起こされる<全体的>社会現象についても考察することを目指す。

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そんな感じで、あいまいに交流しよう〜。

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調査内容

具体的な調査方法として、著書に「嫌なこと、全部やめても生きられる」があるプロ奢ラレヤーが2019年6月1日(日)に発足したオンラインサロン(以下、プロ奢サロン)の創世記から黎明期において発生した"贈与のようなもの”について贈与論的な観点から考察を試みることで、現代社会における贈与を理解することを目指す。特にプロ奢サロンは、経済活動を認識しつつも経済合理性を排していると考えられる半妖たちが形成する比較的民族に近いコミュニティであり、未開の民族と現代人の関係性を議論する上では重要な対象である。

プロ奢サロンは、発足から数日で100人メンバーが存在しており、当時の勢いは異常の一言であった。正確なコメント数は定かではないものの、6月3日の時点でSlack内の総コメント数は確か1万を超えていた(もしこれが著者の記憶違いであったとしても、一週間後の6月9日時点では間違いなく超えていた)。これは、2020年3月,4月の#会議室と#贈与研究所、および5月21日時点での5月の全チャンネルの総コメント数を合わせて1.2万であることからも異常度が窺える。

以下では、プロ奢サロンにおけるいくつかの贈与の事例を紹介する。

事例1 「100円と10kmマラソン」

これは、プロ奢サロンにおける最初の「祭り」であったと言って良い。それまでのサロンでは、各々の参加者が自由にプロ奢のマガジンと奢ログの感想を言い合ったり、論客と化したりして、雑談チャンネル内に議論スレッドが乱立する会員制2ちゃんねるの様相であった。そんな中で起きた一つの電車男的祭りが、以下のブログにてまとめられている「100円で10kmマラソン事件」と言えるだろう。

詳細については上のページを参照されたし。(単にネット上の祭り・読み物としても面白く、とてもよくまとまっているので、暇があれば読んでいただきたい。)

大まかな経緯については以下である。

1. 6/8(日)~6/9(月)の深夜、プロ奢サロンに「100円でなんでもやる男クン」が参加する。
2. プロ奢が「100円でなんでもやる、ってどこまでやるんですか?」と悪い顔ーーあるいは玩具を発見した無邪気な少年のような顔ーーをして尋ねる。
3.プロ奢は「100円あげるから今から10キロマラソンをライブで配信してほしい」と依頼した後、半ば強引に金を押し付けて、「代わりならいくらでもいる」と脅す。
4.雨が降っていたため100円クンは走るのを辞退し、上述のブログをまとめた本人である別の参加者「り」が名乗り出る。
5.「り」は100円を受け取って10km走りながらツイキャスをし、てんやわんやした後、りさんはnoteに感想を載せて3万円程稼ぐ。

以上の事の顛末は、「決して経済的価値が大きいわけではない100円のために自分を犠牲にした結果、利益が返ってきた」という話であると解釈できる。ここで、「自分を犠牲にすること」とは贈与論における、破滅の贈与(ポトラッチ)である。

言い換えれば、100円でなんでもやる男クンはポトラッチレースに敗北してしまったと考える事ができ、レンタルなんもしない人のようなビジネスモデルは、自分自身の生活をポトラッチするビジネスモデルであると理解することができる。

自分自身の生活をポトラッチすることは、何もない人間でも何もしない人間であっても行うことができるが、月曜日からの仕事や雨に濡れたくないという気持ち、そして「代わりの男」が存在することによって容易く価値を失う贈与である。

結果として、プロ奢サロン内には「100円」が儀礼的な意味で強烈な価値をもつようになったと考えられる。

事例2 「循環する100円と呪いの大きさ」

「100円」はその後、何度か循環することになった。しかしながら、10kmマラソンという呪いの大きさに耐えられる人は少なく、100円を受け取ってもらうにはポトラッチを要求しない適当な交換条件が必要であった。その結果として落ち着いたのは、何かやるべきことに対してやる気が出ない人に100円を渡して強制的に実行させる、という流れがあった。例として、締切の近いレポートなどが挙げられる。この現象は、投げ銭文化に近い物があると考えられ、実際にコミュニティ内のコミュニケーションを活発化させ、参加者間の交流を図る(メッシュを張る)ために重要なはたらきをしたと考えられる。

しかしながら、この「100円」は儀礼的な側面を持ちながら、100円という経済的な価値も持つ特殊な贈与物であり、返礼および循環のためには「無茶振りに近い何か」の強制力がはたらいていたことにより、いくつかの問題が発生した。

その結果、(勿論、悪意無しにではあるが)精神状態の優れない人に対して強制的に散歩をさせたり、女性が一人で夜中にランニングを自発的にしたり、といった所謂「間違っている#男気チャレンジ」に近い行動が見られるようになった。それに伴って、コミュニティ内で100円の循環を批判する言動が目立つようになり、結果的に100円を投げ合う文化は廃れることとなった。

考察

なぜ、「100円」の循環という贈与(儀礼)は崩壊したのだろうか。

これは、先に述べた「100円」の儀礼的な側面と経済的な側面の二面性によってもたらされたと考えられる。

100円は経済的価値をもっており、自販機でコーラと交換することができる。また、7つの100円を集めれば、プロ奢サロンに1ヶ月滞在することができる。このような経済的価値は大きすぎるわけではなく、気軽に投げ銭し易い額であったことが100円の循環を発生させたと考えられる。一方で、プロ奢サロンは民族に近く、100円ですら惜しいという人も確かに存在した(そして、そのような人は往々にして時間があるため、サロンに常駐する時間も長くなりがちである)。

この、100円に対する価値感覚のズレによって、「遊び感覚で投げ銭をしている人」「儀礼的に100円を回転させることによってコミュニティ全体の効用を向上させてコミュニケーションの促進や実生活におけるモチベーションアップさせたい人」「100円ですら惜しくとにかく7つ集めて来月もここにいたい(あるいは、既に払ったコストを取り戻したい)人」といった異なる心理がはたらいており、異なる呪い軸の発生、そしてそれぞれの軸に対する互酬性のズレが起きたと考えられる。

また、プロ奢ラレヤーは当時、倫理とプライドを採用していなかったこともあり、サロン内でも倫理について軽んじる動きがあったことは否めない。しかし、コミュニティ内でその倫理が完成されていれば問題はなかったが、あくまで創生されたばかりのコミュニティにおいては統一的な価値観が与えられる間もなく、現代社会における倫理を適用して、コミュニティ内の活動を咎める意見も発生した。加えて、プロ奢ラレヤー自体は何か大きな問題が無ければ基本的に放任する方向であり、サロン民は民族的に放牧されていたこともあって、コミュニティ内に明確なルールは「自己紹介しろ」「勧誘はだめ」くらいしかなかった。

上記の考察をまとめると、「100円」の贈与という儀礼は、コミュニティの形成において、コミュニケーションの促進など、一定の効果を発揮してはいたものの、以下の問題点:

・「100円」の儀礼的な贈与に対する「倫理」も「法」も「共通の精神」も「美意識」もなかった
・「100円」が経済的な価値も持っていた

があったと考えられる。

逆に考えれば、スポーク型のコミュニティにおいて明確なルールが存在する状態で、経済的な価値をもたない儀礼が発生することは、コミュニティの促進(コミュニティのメッシュ化)という観点で協力な効果を発揮するのではないかと考えられる。

これは、民族間で価値のない首飾り(ムワリとソウラヴァ)を送り合っていたクラ貿易との合理性につながる。

結論

経済合理性を思想的に排したコミュニティであっても、全員がコミュニティ内で経済的に活動を行わないというルール(あるいは共通認識)がなければ、経済合理性に基づいて行動する人は存在いる。また、儀礼も完遂されない。

スポーク型のコミュニティやできたばかりの新しいコミュニティにおいて、経済的な価値をもたない儀礼を行うことは、コミュニティ内の生産性の向上およびコミュニティ内のコミュニケーションの促進(コミュニティのメッシュ化)という観点で協力な効果を発揮すると考えられる。

まとめと感想

贈与について考えることで、これまでのコミュニティの活動や社会現象に贈与を見出してしまうようになってしまった。

これから先、プロ奢サロンで贈与のことを考えないことはないだろう。

もしかすると、我々は既に贈与のレウスなのかもしれない……。




謝辞

このテンプレを作ってくださった白紙様に感謝します。私は白紙様のレウスです。

ちょっと喜ぶ可能性があると思われます