いい人。~千葉県横芝光町・妻子殺害放火事件~
未明の火災
平成22年12月30日午前6時50分、千葉県のとある民家から出火、木造二階建ての住宅及び隣接する作業場の二棟を全焼した。
この家には60代の夫婦が暮らしていたが出火当時別棟にいたため難を逃れた。
家業で大工を営んでいたといい、火元はその建設作業に必要な作業場とみられたが、警察は失火と不審火の両面から捜査をした。
近隣の住民は複雑な思いを隠せなかった。この家には、つい一か月前にも火災が起きたばかりだったからだ。
しかもその火事で、この家の若夫婦のうち妻と幼い息子が焼死していた。
12月1日の惨劇
二棟を全焼した火災からさかのぼること約一か月前。
この横芝光町の住宅から男の声で「妻と子供を殺害してしまった」と110番通報があった。
警察が駆け付けると、民家の2階で女性とその子供と思われる男児が死亡しているのを発見、さらに遺体周辺には火を放った痕跡も残っていた。
その場で大やけどを負っていた男性は救急搬送されたが、搬送される際に「自分が殺して火をつけた」と話していたことから、殺害されたのはこの男の妻と子供で、殺害したのはこの男である可能性が高いとして男の回復を待った。
殺害されたのは男の妻で介護施設職員の鈴木淳子さん(当時34歳)と、息子の大地君(当時6歳)と確認。
淳子さんには首をひも状のもので絞められた痕に加え、背中や腹部に刃物による刺し傷が複数見られた。大地君は火傷の状態がひどかったが出血した形跡が見られたことから、淳子さん同様刃物で刺されたのちにふたりは火を放たれたと推測された。
のちの司法解剖の結果、淳子さんは熱傷性ショック死、大地君は出血性ショックと熱傷性ショックの両方によって死亡したとわかった。
二人は発見当時別の部屋にいたが、淳子さんの布団には灯油のようなものがまかれて火がつけられており、まだ息のあった淳子さんと大地君は身動きが取れないまま、火に焼かれたのだった。
一方で一命をとりとめた男は、淳子さんの夫で大地君の父親である鈴木章弘(当時34歳)。警察が到着した際、本人も手足に大やけどを負った状態にあり救急搬送されていたが、その後右足を太ももの付け根から切断した。
警察では搬送時に同行した警察官に対し、章宏が「仕事のことで行き詰っていた。」などと話していたことから、父親による妻子を巻き込んだ無理心中事件とみて捜査を始め、章弘の退院を待って殺人と非現住建造物等放火の容疑で逮捕した。
「家族3人、手をつないで散歩したりして仲が良かったのになぜ…」
近所の人々は悲しみと困惑の色を隠せなかった。
あたりは田畑が広がる長閑な集落。鈴木家は工務店を営んでいて、章弘は父親とともに仕事に励んでいたという。
敷地内の別棟で若夫婦と子供が生活をするという、田舎ではどこにでもあるような普通の暮らしがそこにあった。
しかしこの惨劇はそのどこにでもあるような暮らしの中で、というか、そういった暮らしだからこそ、起きたと言える。
仲の良い、幸せな風景の裏にはこれまたどこにでもあるようないくつかの問題が隠されていたのだ。
幸せな家族
鈴木家は千葉県山武郡横芝光町にあった。県道109号線から少し入った場所で、近所は古くからの民家が立ち並んでいる。
裏手は田畑が広がり、神社や寺なども点在するごくごく普通の長閑な町である。
章弘は高校卒業後に父と同じ大工を志し、実家で生活しながら修業を積んだ。職場には父の弟も勤めており、まさに家族経営の小さな工務店、といったところで章弘は自然と家と仕事両方の後継ぎとして生きていた。
淳子さんは横芝光町の近くの市で生まれ、4歳上の兄と共に成長した。子供のころはオーケストラの楽団に所属し、高校卒業後は下宿しながら大学へ通い卒業後は地元へ戻って市役所の臨時職員となった。
二人の出会いは淳子さんが市役所で勤務していた頃で、25歳の時に結婚。淳子さんは市役所の仕事をつづけながら、新婚生活は章弘の実家の敷地内にあった離れでスタートとなった。
やがて大地君を授かり、子育てに専念するため淳子さんは市役所を退職、その後大地君が幼稚園に入ったころに介護施設の職員として仕事をし始めた。
どこにでもある、田舎のモデルケースともいえる家族。
実家に完全同居も珍しくないものの、一応別棟での生活であり、経済的にも子育てに関しても実家の両親の援助も期待でき、私が暮らす愛媛県でもこういった生活スタイルは多い。近くに親がいることはうっとおしかったり気苦労もありはするが、それで得られるメリットも少なくないからだ。
鈴木家の場合は夫である章弘の職場が実家であることもあって、淳子さんも特に反対することもなく始まった新婚生活だった。
夫婦関係も良好そのもので、章弘の人となりについても事件後でさえ、悪い話が一切なかった。
「真面目、温厚」「仕事は几帳面で信頼できた」「余計なことは言わないが、人付き合いは悪くない」「子煩悩」などなど、とにかく悪く言う人がいないほど、章弘の人柄は素晴らしい評価だった。
妻の淳子さんも、周囲の人々にとにかく夫を褒めまくっていたという。
子供の面倒をよく見てくれるし、仕事も熱心で私はいい人と結婚した…そういう惚気話を友人らはよく聞かされていた。
それは淳子さんの実家の父も同じで、娘と孫を殺害された裁判でも、「章弘を恨む気持ちは一切ない」というほど、章弘の人柄には誰もが文句のつけようがないと太鼓判を押していた。
淳子さんの人柄についても、職場での評判も非常によく、裏表のないさばさばした性格だと評された。
ただ、物事をズバッという一面があったといい、多くの人々はそれを良い意味でとらえていたが、一部では「気が強い人」「我を通す人」という印象を持つ人もいた。
章弘の両親である。
気の強い、嫁
それは大地君を妊娠しているときに起きた。
つわりがひどかったという淳子さんは、朝起きられずに家事ができないときがあったという。それを、章弘の父親は気に入らなかった。
淳子さんに直接言ったわけではないものの、なんで家事をしないのか、というようなことを父親が愚痴っていたのが淳子さんの耳に入ってしまった。
ただ、父親はこの時淳子さんが妊娠していることを知らなかったのだという。
淳子さんへの苦言は、章弘の母親からも発せられた。
大地君が生まれてお宮参りをした時のこと。この地域ではお宮参りに親戚が総出で集まることが常だといい、食事会が催されることも当たり前だった。
その日、淳子さんは産後間もないこともあって体調がすぐれず、食事会には顔を出せなかった。それを知った章弘の母親が、一度も顔を出さないなんて、という思いから章弘に対し淳子さんを責めるようなことを言ってしまった。
章弘は、「妻の体調よりも世間体が大事なのか」と憤慨したという。
この頃から、章弘は淳子さんに対して「親のことよりも子供を優先して考えた生活をしよう」と提案し、次第に両親との関係は冷えたものになっていった。
よくある、両親にものが言えずに妻に我慢を強いる情けない夫、という感じではなく、章弘は淳子さんや大地君の生活を第一に考え実践しているように見える。
ただ、仕事が父親と同じということと、同一敷地内に家があるということでなんというか中途半端な状態が維持されることになってしまった。
この中途半端な状態というのは、後々、章弘の心を追い込んでいく一つの要因になっていたと思われる。
さらに、この同一敷地内の家には、大きな問題があったのだ。
台所の問題
突然自分語りを始めてしまうが、私が生まれたのは昭和49年、この横芝光町よりもさらに山奥である。
当時、嫁ぎ先の親と同居は当たり前、別居などほとんどないような状況であるが、私の両親は共働きだったこともあり、また、祖父母がある程度理解のある人間だったことで私の誕生を機に同一敷地内に別棟を建ててもらったという。
まさに、この鈴木家のような感じである。
母が言うには、別棟にした一番の理由は台所の問題だったという。
共働きの両親にしてみれば、家事、とくに食事作りについては、祖母が担ってくれるということで助かった面もあったというが、やはり世代の差もあり、そこに私が生まれたことで生活リズムが違うという問題も出てきた。
そこで、台所を別にしたいという思いからの同一敷地内別居(同居)になったというのだ。
そう、台所は妻の数だけあったほうがいい。
昭和50年代のクソ田舎でもそうだったのに、平成20年代の千葉の鈴木家では、若夫婦の家に台所がなかった。
最初は淳子さんも章弘も不便に思わなかった。が、大地君が生まれてみると、ミルクを作るのにもわざわざ実家の台所を使うというのではあまりに不便ということになって、章弘と淳子さんは別棟のほうにも台所を作りたいと章弘の父親に申し出た。
何を反対する理由があるのか全く不明だが、なぜか父親はそれを許さなかったという。
この時はそこまでではなかったのか、章弘も淳子さんも父親が反対したことで引き下がっている。
しかし不便であることには間違いなく、台所の話は時を置いて再び蒸し返された。
事件が起きる2か月前、章弘は再度父親に台所を作りたいと申し出た。大地君は来年小学生、そうなれば朝ご飯のタイミングも変わってくるのであって、もう一度話してみるには良い機会だった。
ところがこの時もまた、章弘の父親はそれを許さなかった。ジジイ、なぜだ。
誰がどう考えても、幼い子がいる若夫婦の住まいに台所があるほうがいいに決まっているのに、鈴木家ではなぜか台所をもう一つ作ることが許されなかった。
もう一つ不思議な点がある。章弘は大工であり、台所をしつらえるなどすぐにできるはずだった。それまでにも淳子さんに厳しいことを言う両親に反抗し、両親の意に沿わない行動もしてきたにもかかわらず、この台所の件についてだけはなぜか父親の許可を得ようとしていた。
母親は台所の件について反対しておらず、むしろ章弘に対し、「お父さんがなんて言おうが、勝手に作ってしまえばいいじゃないか」といった助言もしている。
しかし章弘は、「親父が賛成しないから」と渋っていた。
淳子さんはそれを受けて、じゃあもう家族だけで別居しよう、そう提案したという。
章弘も了承し、若夫婦は別居すべく新居を探し始めた…と思いきや、その気配はなかった。
正確には、淳子さんは自分でいろいろと探していたのかもしれないが、章弘が積極的に新居を探していたという事実はなかった。
謎
事件が起きたのは12月1日。台所の問題が再燃したのは2か月前の話で、実はこの事件で一番の謎と言われているのが「なぜこの日に妻子を殺害しようと思い立ったのか」ということだった。
逮捕起訴された章弘は、犯行時の多くの部分についての記憶を失っていた。
これはいわゆる解離状態にあるといい、救急車の中で警察官に告げた「仕事に行き詰っていた」という動機についても覚えていなかった。
犯行時のことも、断片的に映像のようなものが残るにとどまり、妻の淳子さんを刺したことは覚えていたが、なぜ刺したのか、ということについては章弘自身まったくわからないと話した。大地君についても同様である。
少し遡ってみる。
章弘と淳子さんは、ある時期を境に両親と食卓を囲むことはなくなっていた。朝食も時間をずらし、夕食は近くに暮らす淳子さんの父親と、淳子さんの実家でとるようになっていた。
淳子さんの実家では、すでに母が亡くなり、それまで父と暮らしていた兄も結婚して家を出ていたため、父が一人で暮らしていた。それもあって、淳子さんと大地君が先に実家へ行き、夕食を作ってそこに仕事が終わった章弘が合流するという感じになっていた。
風呂にも入って帰宅していたといい、章弘の実家にある離れには「寝に帰るだけ」そんな状態だったようだ。
事件が起きる前日も、鈴木親子の姿は淳子さんの実家にあった。ただこの日は来るのが遅く、夕食は取らなかったという。が、風呂には入ってから親子3人で帰宅していた。
淳子さんの父親は、この日も何も変わらない章弘だったと話す。
それは章弘の両親も同じで、事件のあった朝も実は章弘の両親はかなり早い段階で起きていた。母親が旅行に行くため、午前3時に起床、4時半に妻を送った章弘の父は、その後戻って二度寝をし、6時ころになにやら騒がしいので起きだしたところ、自宅前に消防車やパトカーが来ていて事態を知った、という流れだった。
章弘の仕事ぶりにも何か変化があったわけでもなかった。あの大洗の駐車場で娘二人を殺した父親が事件直前、取引先から罵倒されるほどの仕事上のミスを連発していたことに比べると、章弘の場合はまったくなにも変わらない、いつも通りの日々を過ごしていた。
章弘はなぜ、この日の朝妻子を殺害しようと思い立ったのか。
加えて、そもそもなぜ殺害に至ったのかという動機についても、仕事上の問題と章弘が当初話していたにもかかわらず、弁護側はそれを否定していた。
結局、裁判所は「本件は強固な殺意に基づく非常に残酷な犯行であり、結果は誠に重大」としたうえで、動機は「解離性障害のため被告に記憶がなく、他の証拠によっても明らかになっていない」とした。
そして、当初章弘自身が供述していた「大工としての仕事、経営に行き詰った」という動機については否定している。一番考えられることとして、両親との軋轢、両親と妻の関係悪化が動機の一因である可能性は高いものの、その両親への反感が妻子殺害に結び付くには理解が難しいと結論付けた。要は、犯行のきっかけ、動機は不明なままということである。
検察は懲役25年を求刑したが、裁判所は章弘に対し、懲役20年を言い渡した。
妻子を殺害し放火までしたということで無期懲役でもおかしくない感じだが、無理心中を図ろうとしたケースであることや、章弘自身も右足全体を切断し車いす生活をおくっていることなど、一定の制裁をうけていると判断されたのかもしれない。
おそらく両手も大やけどを負っていたとのことで、社会復帰したとしても仕事ができる状態ではないだろうし、わからないでもない。
控訴したかどうかは不明だが、情報がないことから確定したと思われる。
悪夢の七五三
章弘は妻子を優先し、世間体を重んじる両親に反発していたのは事実だ。
鈴木家が暮らした山武郡横芝光町のこの地域は、地域とのつながりを重んじ昔ながらのしきたりが色濃く残る地域だったという。
たとえば先に述べたお宮参りでも、親戚一同にお披露目するという家庭が日本全国的に見て一般的かというとそうではない。それを行う家庭があったとしても、産後間もない母親が体調を崩したとしてそれに嫌な顔をするようなことはないだろう。
しかしこういった地域の結びつきの強いところでは特にお祝い事は絶対に手を抜いてはいけないことのひとつである。
お宮参りにしてもそうだし、その後に控える七五三の際には、なんと地域の住民を招いてのお祝いをする習わしがあったという。
親戚一同ならばまだしも、地域の人々を招くとなればその規模も違ってくる。鈴木家ではざっと見積もっても100万円の費用が掛かることになっていたという。
章弘と淳子さんは、まるで当たり前のようにそれをしようとする両親に反発し、七五三の祝いはしない、と宣言した。
驚いたのは両親だった。近所のどの家も、子供が生まれれば地域の人々を招いて盛大に七五三のお祝いをする、鈴木家の人々もこれまで欠かさず招かれていたし、施主は家の、もっというと先祖代々の威信がかかっているわけで、その七五三の行事を成功させなければならなかった。
もしも規模が小さければそれは家にとっての恥であり、ましてやお祝いの席をもうけないなどということになろうものならこの先恥ずかしくて近所を歩けないというのも大げさな話ではなかった、少なくとも章弘の両親の世代にとっては。
両親はなんとか息子夫婦を説得しようと試みたが、息子夫婦はいつまでたっても準備に取り掛かる様子はなかった。
七五三と言えば11月の行事ごとだが、夏ころから準備しなければ間に合わないというからその規模の大きさがうかがえる。
ちなみに、だが、この地域での七五三の祝いは、親戚や地域(おそらく組内の人々)を呼び、ホテルなどで行うのが「普通」だという。
諦めきれない両親は、ある時ふらっと台所に入ってきた章弘と淳子さんに、七五三についての話をもちかけた。
しかしふたりとも「お金がないからしない」というばかりで、次第にその口調も強くなった。
この件以降、章弘の母親と淳子さんは口もきかない状態になってしまった。
本当の矛先
裁判では動機について不明、となったが、たしかに両親との軋轢があって、章弘自身も対立していたにもかかわらず、その両親ではなく愛する妻子を殺害するというのはどういうことなのか。
しかも事件当時解離状態になっていたという父親の記憶はほとんどなく、裁判でも調書をもとに、「そう書いてあるならそうだと思う」と述べる、そういった状態だった。
ちなみに精神障害についても検討されたようだが、精神障害だったとすればその犯行様態に合理性が見られないという。章弘の場合は合理性があった。
一方で、事件後通報していることから、その時点では意識が戻っていた可能性が高いという。が、搬送時に章弘は大やけどを負っているにもかかわらず痛みを一切訴えなかったのだという。
重度の火傷の場合、痛みを訴えないケースは多い。章弘の場合、右足の全部を切断したわけなので相当な重傷だったはずだ。
したがって、この時の状態から解離状態だったと導き出されたのだとすると非常に危険である、と指摘する向きもあった。
裁判において、章弘はどこか他人事というか、その言葉には重みが感じられなかった。覚えていないのだから仕方ないかもしれないが、それは最後の言葉にも表れた。
最終陳述で発言を促された章弘は、
……。はぁ?
裁判を傍聴した人によると、章弘は異様なほど「ハイ」な印象を受けたという。そこには、どこか芝居じみたというか、そういった印象も受けるわけだが、のちにこのケースの検討会を開いた専門家によれば、むしろ明るい演説風に言葉をつなぐ章弘のこの態度は「ガチ」だという。
芝居でないとすれば、このまるで他人事、ずれまくった最後の発言からは物事への認識というか、受け止め方のずれが見えるような気もする。
この事件は確かに家庭内で起きたものである。が、彼らを知る人が家族以外に職場の人々、友人ら結構多くの人がいるにもかかわらず、動機が解明されていないというある意味不思議な事件でもある。
ちなみに仕事のトラブルは裁判で否定されているし、弁護側も最初からそれはないとしている。もちろん、父親や仕事関係の人らの証言からも、それはない。
ではやはり両親との軋轢が要因なのか。いやそれ以外なさそうなのだが、そこで両親を殺害したならばなるほどとなるが、今回は自身を含めての無理心中であり、なんでそっち?となってしまうのも分かる。
章弘は特に父親に対して批判的だった。裁判では、事件を起こして父親に対して思うことはあるかと問われ、「何もない」と答えた。特にない、ではない、何もない、のだ。
通常は冷静になり、真に反省したならば、いや、そう見せかける意味でも嘘でも「申し訳なかった」などというもんだが、それすらない。
それほどまでに、父親へのもはや憎悪と言っていい感情は峻烈だった。
考えてみれば、父の跡を継ぎ大工となった章弘。仕事場は実家の敷地内にあり、結婚しても実家に顔を出す毎日。しがらみの強い地域で跡取りとして育てられた章弘は、両親の思惑通り、跡取りとしての意識を強く持っていた。
台所騒動の際、新居を探すという話が出ていたのにそれを実行に移そうとしなかったことについて、章弘は
「跡取りという意識があった。出ていくことには躊躇した」
と話していた。
ケース討論で有識者から出たことに興味深い点があった。
章弘にとって、父親は「主人」だった、というのだ。幼いころから章弘は父親という主人に仕えてきた。しかし、性格なのか何なのか、結婚したことでもう一人の「主人」が出来た。淳子さんである。
淳子さんはさばさばした性格という一方で、ズバッとものを言う性格でもあった。
七五三の件で章弘の母親と話し合った際、出ていくときに淳子さんは
「クソばばぁ」
と吐き捨てたという。それを、章弘の父親が聞き淳子さんに詰め寄る場面もあった。
「クソばばぁとは何だ!!」
章弘の父親に咎められた淳子さんは、「いずれこの家は出ていきますから」と言い返した。
この件について、章弘と淳子さんの間で会話がもたれたかどうかはわからないが、おそらく章弘は淳子さんの肩を持ったのではないかと思われる。
しかしその一方で、家を出ていくこともせず、台所を作ることにも踏み切れず、毎日父親と同じ職場で働いた。
章弘の本心はどこにあったのか。
幼いころから慣れ親しんだお宮参りや七五三の祝い事など、本当は章弘は「やるのが当たり前」と思っていたのではないか。大地君が生まれ、いずれ自分もしてもらったようなお祝いをする気でいたのではないか。
しかし淳子さんはそういった田舎の派手な習わしに戸惑っていたとしたら。
そこでなぜ章弘は淳子さんの肩を持ったのか。父親と対立したら仕事がやりにくくなる可能性はなかったのか。
実はこの頃、家業の工務店の実権は父親から章弘に移っていた。それまで給料をもらう立場だった章弘は、父親とその弟に給料を払う立場になっていたのだ。
父親としても、章弘がいなければ仕事にならない、という思いもあったろうし、そこはやはり親子である。
もっと言うと、対立していたのは章弘ではなく淳子さんのほうだ。章弘のもう一人の「主人」は、それよりも長く仕えてきた本来の「主人」と相容れなかった。
前日まで何の変わったところもなかった章弘がなぜあの朝、妻子を刺し火を放たなければならなかったのか。
裁判ではそのきっかけとなる出来事すら、判明しなかった。それは、関係者である章弘の両親も淳子さんの父も、周辺の友人や同僚らも思い当たらなかったからだ。
そのきっかけを知っているのは、思い当たる人がいるとすればきっと、話を聞けなかった「淳子さんだけ」なのだろう。
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参考文献
読売新聞社 平成22年12月2日、12月31日、平成23年7月22日東京朝刊
中日新聞社 平成22年12月1日夕刊、12月31日朝刊千葉房総版
NHKニュース 平成22年12月1日
千葉日報社 平成24年4月28日
虐待「親子心中」―事例から考える子ども虐待死
川崎 二三彦/編著 福村出版
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