IMG_5554_originalのコピー

弱さ。

日本人の価値観の中に、「思いやり」とか「おもてなし」など、他者に対する配慮を持ちつつ、相手の喜びのために自分ができることを考える「利他」という概念が存在する。この「利他」は仏教的な価値観で、この世には2種類の仏教があるため、「利他」にも2種類の意味がある。

もしかすると相手の知っている利他と自分の知っている利他とはモノが違うのかもしれない。

いずれにしても、人は、生きていく上で他者と関わることが必須。
そのため、悩みは絶えない。


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欲しいもの

僕はいつも矢印が自分に向かっています。
自分が興味あること、自分が好きなことばかりに目がいってしまいます。
自分を満足させるための何か?をずっと求めてきてしまったので、とても自己中心的な生き方をしました。

当然、周囲の声に耳を傾けず、人の迷惑を顧みず、◯◯と思ったらその通りに押し通すようにやってしまいました。なので、失敗を重ねることも、恥ずかしいこともたくさんです。

「やめといた方がいいよ」とアドバイスをもらっても、失敗するまでその理由や意味が理解できないんです。

あまり深く考えられないというか、そもそも細やかな氣遣いや想像力に欠けているのでしょうね。

同じような間違いを繰り返すこともあります。
そして自分が求めるところが何なのかにひとつ氣づきました。

自分はただ納得したいだけ



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人が人らしく生きる意味

人と上手くいくときもあれば、当然、衝突することもあります。
どちらかといえば、上手くいかない時間の方が長かったかな。
自分の行動パターンや心のクセに氣づいていなかったんですね。

そんな自分の心のクセを取るきっかけとなったのは、自分にはないモノの見方であったり、誰かの人生ストーリーを聴きに行ったことでした。


母が闘病中だった頃、統合医療で多くの人たちの人生をサポートし続ける船戸クリニック(岐阜県養老)に、文化人類学の上田紀行先生が講演に来られると聞きつけ、話を聴きに行ったことがありました。

上田先生は、今でこそ当たり前になった「癒し」という言葉を社会に生み出した人。

この方の言葉が今でも心に残っています。

生物学的なヒトだけでは「人」にはならないんです。
そこがとても重要。人間という動物は、ただヒトだけでは人にはなれない。
アリストテレスって人が、人間は社会的動物だと言いました。
「人間」という字の「間」があるように、「人」と「人」の真ん中に「間」があるんです。私たちは「社会」の中に生きているので。
一人ぽつっといるのは「人間」ではないんです。


「間(ま)」は何も人と人との間に限らず、例えばこのノートに書かれた文字と文字の間だったり、行間、語間など至る所に存在していて、視界の全てにそれらが写っていながら意識することが難しいものでもあります。

だからこそなのかもしれませんが、見ながらにして見えていない大切なものの1つ「間」を先人たちは大事に考えてきたそうです。

結果、日本人は「察する」という特殊能力を身につけました。
日本人の個性と言ってもいいと思っています。

上手くいっている時は問題なく、これを分かりやすく「空気を読む」という言葉として日常的に使っているくらいなのに、今の社会問題、多くの人が人間関係で悩んでいる事実があります。



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つながりって

末の息子(5歳)が朝の食卓でこんな話をしてくれました。

「昨日、兄ちゃんと従兄弟と一緒にゲームやった。」

兄ちゃんは隣にいますが、従兄弟は遠く離れたところに住んでいます。

「ここにおらんけど一緒にゲームやって、オレ勝った。」
『そうか、勝てて嬉しかったね。ここにおらんのに一緒にゲームができるって楽しいね。なんで一緒にできるんだろうね。』
「つながっとるから。」

この子は「遊ぶ」と「つながる」という言葉の意味を、すでに体感覚で理解しているんだなぁと驚きました。


戦いごっこが好きな男の子。お友だちと遊んでいればケンカの1つや2つは毎日のことです。でもそれを知りながら無視はできないので質問してみました。

『お友だちとケンカしたら、どうすれば仲直りできる?』
すると即答、

「一緒に、泣いて、笑って、ケンカして、ごめんねすれば仲直りできるよ」

『そっか、一緒に遊んでたら、ちゃんとごめんねしたら仲直りできるんだね?』

「だって、つながっとるもん。」

ハッとしました。

彼の中での「つながり」とは物質的なものではなく、人と人が仲良くするために必要な「何か」だということを感覚で知っているということでした。



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言葉を超えたところに「在る」もの

誰かのために何かできること、誰かの喜びのためにできることを見つけられると、それは1つの生きがいとなって自分の人生がより豊かなものに感じられるようになります。

それはそれで素敵なことなのですが、「誰かのため」という考えにアレルギーを持っている人もいます。時には嫌悪感をあらわにする人や、それをおこがましい考えとして、

「結局それって全部自分のためでしょ。」と言い放つ人もいらっしゃいます。

僕も思考のスパイラルに陥りやすいタイプなので、小難しく考えるクセがいまだに抜けず、その氣持ちに共感するところがあります。

でも子どもを見ていて思うのですが、どうやら人はそこまで考えなくても理解する力をもともと持っているようなんですよね。

それでもやっぱり考えたい人のためにどうすればいいか?

今の僕が納得している答え
それは、

相手のためにと思うのではなく、この空間を、この時間をより良いものに感じられるようにするために何しよう?

です。


昔、ダライ・ラマが法話の中で話された、

自分が望む結果がすぐに得られないとしても、良き種を蒔きなさい。その種はあなたがこの世を去って後、咲く花かもしれません。しかし良き種を蒔き続ければこの世は必ず変わります。良き種からは良き花が咲くのです。

この言葉は、僕の心の中に蒔いてもらった種だと思っています。







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カミジョウ ヨシヒサ
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