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自称弱者についての考察

日本を代表する現役の『才能』と言ったら誰を思い浮かべるだろうか。大谷翔平や藤井聡太、一昔前なら本田圭佑やイチローなどがそれに当たるかもしれない。よく語られる題材に成功者になるには『才能か努力か』という問題がある。私も多くの論者が述べるように才能と努力には掛け算的な相乗効果があり、才能のあるものの努力が人材として結実するという意見に賛同する。勿論、才能は比較優位的なものであり、貴方や私にも何らかの才能は存在すると考えてよいだろう。私が今回の記事で語りたい問題はその先で、『努力によって結実した成功』は誰のものかということである。能力は個人が持つ性質であり、各々に帰属することは間違いがないだろう。しかし、それはあくまで才能という限定された個性についての話に過ぎない。自分の才能と努力で成功したのだから、成功は個人のみに帰属するという考えは典型的なメリトクラシーの誤謬ではないだろうか。能力の方程式が才能×努力だとしても、成功の方程式が才能×努力とは限らない。大谷翔平は確かに素晴らしい選手だが、彼の評価を日本という国が野球大国であるという前提を無視して語ることは出来ない。日本において野球の興行収益は他のスポーツの追随を許さない。井上尚弥がWBC&WBO世界スーパーバンタム級王者スティーブン・フルトンにKO勝ちした翌朝のスポーツ新聞の一面は、大谷翔平の怪我を心配するニュースだった。スポーツやビジネスでは需要によって得られる名声や金銭が左右されるのは仕方ないと当然のように受け入れられている。資本主義社会を前提とする我々が、そこに異を唱えるのは難しい。しかし、需要が供給を決めているのであれば、大きな需要には大きな責任が伴うというノブレス・オブリージュが機能していないのは何故だろうか。何に対して才能があるかという問題と、その才能に需要があるという問題は運の要素が強い。フィンランドの伝説的スナイパーシモ・ヘイヘが現代に蘇ったとしてもクレー射撃の選手として小金を稼ぐぐらいが関の山だろう。需要は市場の偶然と時代が作った産物に過ぎない。勘違いしないで欲しいのだが、『成功は運だから、成功していない人たちに成功の恩恵を分配しろ!!』などと主張することが目的の記事ではない。むしろ逆で、我々は才能や努力、その他さまざまな要素で手に入れた偶然の産物を、独り占めしているというエゴイズムを認識するべきであるという主張である。殺生をしなければ、生きることが出来ないという事実と、殺生を全て止めて餓死するべきだという主張は同一ではない。我々は加害者であると同時に被害者でもある。昨今、頻りに行われているSNSでの弱者マウントには、加害者の認識が圧倒的に欠けている。一人ひとりにはそれぞれ才能があるという激励の言葉の裏には、貴方にも比較優位性があり、誰かを傷付けているという事実がセットで存在するのである。

弱者男性は資本主義の奴隷

私は『弱者男性』という言葉が嫌いなのだが、世間ではかなり受け入れられている。まず男性である時点で絶対的弱者ではない。この言葉は女性の持っている性質を羨む目的以外で使われてるところを見たことがない。国民を年齢と性別の四象限で分割すれば、老若と男女である。若い男性であれば、老人に対して様々な面で比較優位を認識できる。SNSでも老人への過剰分配を非難する意見はあるが、老人の持つ性質自体を羨む人はあまりいない。逆に子供に対しても、自身も幼年時代があったことから平等性が担保されているという認識は多くの人が持っている。上下の軸が老若だとすれば、左右の軸で女性に対して男性が弱者であると主張するためのバズワードとして弱者男性が使われていることが殆どである。先日、ゲーム配信者のたぬかなが弱者男性合コンなるイベントを企画して炎上していた。炎上の理由は、合コン配信に参加していた男性が、比較的容姿やコミュ力ともに一般水準に近かったためであるという。私も気になって切り抜き動画を複数視聴してみたのだが、確かに噴飯物の茶番だった。動画では知的障害2級の手帳を持つ男性が、たぬかな氏に紹介されており、彼は合コンのために初めて美容室に行き、眉毛も初めて整えたと紹介されていた。まず、知的障害であることと美容室に頻繁に通う美意識には全く関連性がない。前者は性別に関係なく国に認定されている弱者性であり、お墨付きを持っているという強者性をグレーゾーンや境界性知能の人たちに対して持っていると考えられます。後者は、金を使って容姿を整えただけの話であり性質ではないので論外である。他にも上司に毎日怒られて会社を辞めた無職の男性も合コンに参加していたが、その男性の年齢は24歳だという。これのどこに弱者性があるのだろうか。おまけに彼は配信の前日に会社を辞めたらしく、そのことを清々しく語っており全く悲壮感がない。私も仕事が出来る方ではないので、ビジネスの場でヒーローになることができない辛さを感じていた時期はあるが、全体の収益は上位2割が8割を稼ぐというパレートの法則を知ってから何も感じなくなった。会社で役に立っていない人間の方が圧倒的にマジョリティなのである。たぬかな氏は以前も『身長170㎝未満の男に人権はない』という発言で一世を風靡していたが、弱者の定義がカジュアルすぎるきらいがある。私が最近評価しているYoutuberのベーシックインカムちゃんねる氏も主張しているが、資本主義においては強者の座を奪い合う競争が発生するとともに、底辺では弱者性を主張し合う競争が発生して中間層が解体されていく一面がある。弱者性を主張し合う自称弱者たちも、権力や金でマウントを取り合う似非成功者も等しく資本主義的価値観の奴隷なのである。

題目は婚活パーティーらしいが、結婚=非弱者というのも時代錯誤的である。

さらに言えば、モテる男とモテない男という二項対立を作り、モテない側の男たちがモテる側の男たちの競争に参加するという構図にしているのもおかしな話である。恋愛のような人間関係の営みはゼロサムゲームではない。さらに『モテない=弱者』であり、合コンで彼女を作れば弱者を脱せるという考え方も輪をかけて意味不明である。男女ともに交際経験が一切ないという割合が増加傾向であるという事実に目を向けるべきである。これは経済不安や恋愛以外の娯楽が増加していること、個人主義の浸透による恋愛の陳腐化など色々な要因があり、モテる男とモテない男の恋愛リソースの奪い合いという単純な話ではない。モテない男の敵はNetflixであり、円安であり、自由主義経済であるかもしれない。皮肉なことにたぬかな氏のようなゲーム配信者の配信が恋愛という娯楽の代替物になっているのである。たぬかな氏が弱者男性を救いたいのならば、弱者男性が画面に嚙り付いて可処分時間を無駄にしないために配信活動を今すぐ止めるべきなのだ。勿論、そんなことはする必要がない。上述した通り加害性は弱者男性にもたぬかな氏にもある。そこに現象として存在することを意識したうえで、変わらず生きていく以外に道はないのである。

陽キャ哲学 vs AI哲学

私の提唱する陽キャ哲学体系においても、能動性と受動性の関係は陰と陽であり、加害性と被害性を孕む概念であることを説明している。生きるということは思想である。個人が思想を提示するということは他の個人を加害するということであり、避けることが出来ない。故に私は、万人が陽キャになることは不可能であると述べた。誰かが陽キャであるときは、誰かが陰キャにならなくてはいけない。人間であれば、個人差はあれ各々が持つ思想は違えど、その広がりや奥行きにはさほど違いはない。故にソクラテスはディアレクティーク(対話による弁証法)は成立すると考えた。人と人は親密になれば、相手が正反対の意見を持っていても、それを受け入れることが容易であるのは人間関係の妙である。しかし、人間同士の対話をAIによる価値判断が乗り越えようとしている。あなたはこの一週間、他人におすすめされた動画とアルゴリズムにおすすめされた動画のどちらを多く視聴しただろうか。あなたが受け止めた意見は、周囲の人間のものだろうか。それともX(旧Twitter)があなたにレコメンドしたものだろうか。あなたは自身に思想があると自認しているかもしれないが、あなたが主体的に抱く思想というものはテクノロジーによって切り崩されているのかもしれない。

強固な思想を持ち続けるためには、絶えず単純化や確証バイアスと戦う必要がある。それは複数のジャンルの書物を横断的に読むことであったり、ポジショントークのためのレスバトルをしないことだったり、さらには安易な否定意見や現状の社会構造を肯定することに帰結するような意見で相手を封殺しないことであったりする。弱者男性界隈を始めとして、マイノリティを自称する人たちには言論では仮想敵より優勢である姿勢を崩さない人が多い。なぜ、少数派であるのに言論では論理性でマジョリティを撃破できると考えるのだろうか。弱者性というのは、あくまで勝ち取るためのポジションであり、正当性は自身に帰属していると考えるのである。簡単に言えば、弱者であるという強者性を手に入れて他の弱者をぶん殴りたいという加害性を論理性や思想のようなもので包んだだけのエンタメに過ぎないということである。私は対話そのものに意味があるということを忘れないために、無名発信者との議論を積極的に行うようにしている。インフルエンサーとの議論は、確かに自信の意見に対する注目を集めることが出来るかもしれないが、対話の目的は自身の意見を不特定多数に納得させることではない。対話はそれ自体にあるのだから、無名だからと小規模な対話をさせるのは陽キャ哲学の理念に反する。また金持ちになりたい、モテたい、コンプレックスを解消したいという悩みは自己啓発の領域であり、最大多数が能動性を獲得するために思想を語っていけば副産物的に解決する問題であるため、大した問題ではないと考える。もちろん、そうした実存的問題の解決は人生においての最優先事項であるが、得てして行動と過程が解決方法であることも多い。対話とは目的なく自由自在に広がりゆくものであり、出口のない悩みを話していることと状態は似ているが満足感は後者を遥かに凌ぐ。この記事で伝えたかったことは強者や弱者のポジション取りよりも、時代や社会をどう変えていくかという壮大な問題を語る楽しさを知って欲しいということだ。それではまた別の記事でお会いしよう。さようなら。



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