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偽善の構造

ガザのパレスチナ人は可哀想だ。なぜ国際社会の皆が一丸となって彼ら彼女らを助けないのだろうか。小学校の社会科の授業で『ハゲワシと少女』の写真を見たときにも同じことを思った。この写真が公開された当時、この写真を撮影した写真家のケビンカーターは『なぜこの少女を助けないのか』という批判にさらされた。確かに目の前の困っている人に手を差し伸べるという小さな善は、積み重なれば世界すら動かす力になるだろう。実際にケビンカーターはこの写真を撮影した後に、ハゲワシを追い払い、この少女は国連の食糧配給センターに向かって歩き出したのだという。報道写真は事実を切り出す報道媒体であると同時に、受け手に何を感じさせるかを委ねる芸術でもある。カーターは自身の芸術を世に問うた結果、批判の的にされてしまったのである。

ハゲワシと少女

しかもケビンカーターは元々、うつ病気味な性格の持ち主であり、ドラッグを日常的に服用しており、享年三十三歳で引き込み自殺をしている。彼もまた人生の一部を切り抜けば不幸な人間だったのかもしれない。カーターの人生にもスーダンの現状に対しても圧倒的大多数が無関心であるという人間の本質を再考する必要がある。我々が興味を感じるニュースはスマホやテレビを介して誰かから与えられた虚構にすぎない。『やらない善よりやる偽善』という鋼の錬金術師の名言があるが、我々は多かれ少なかれ善を行っている。その善の矛先とキャパシティの大小が異なるだけで、善を行わない人間など誰がいるだろうか。反戦や改憲、労働問題などさまざまな社会問題及び国際問題に対してのデモが毎日行われていると聞く。路上に立ち、大声で『(我々が関心のある)社会問題について興味を持ってください!!』と叫んでも無意味だ。道行く彼ら彼女らは別の正義をただ遂行しているのだから。例えば、反戦思想は誰にまで伝播したらゴールなのだろうか。グローバルな視点で見れば地球上の人類すべてである。少なくとも過半数が支持しなければ、残った人間が戦争を続けるだろう。つまり、期間と拡大は無限に設定されなくてはならないのだ。思想の伝播により自身の信じる善の分配を思い通りにしたいのならば、政治は『結果=過程』である。生きることそれ自体が思想だとはよく言ったものだが、まさに思想は拡大しなければ、即死を意味する。思想は政治性が強ければ強いほど不利になる。政治は派閥を生み、排他性の温床になる。かつて偉大な哲学者ソクラテスはアテナイの町で道行く全ての者たちに論争を仕掛けた。誰かの家でオリーブの実でも摘まみながら哲学を語っていた。哲学は望む全ての者に与えられていたのである。そこから暫くして神学の時代が始まった。旧約聖書には聖職者と一般人を隔てるような文章は存在しないが、活版印刷もなく紙も高価だった中世では、神学は特権階級に有利なシステムとして発展した。その流れを汲むことになる近代哲学もまた、アカデミズムとキリスト教の知識を前提とする大衆度外視の既得権益となり、現代までその伝統を守っている。政治による結果が過程そのものである以上、排他性は拡大の邪魔である。しかし大きな政治は小さな権利を包摂することが難しい。

国際社会?そんなものは無視でよい。

あえて強めの断言をすることであなた方の目を覚まさせよう。

グローバルな社会問題は存在しない。

もっと正確に言うならば『対処すべきグローバルな社会問題は存在しない』のである。大きい問題に対処するには、大きな組織や共同体が必要であり、そこに参加者の自我は存在できない。無私の心で全に励む修行僧のような構成員を大規模な共同体に繋ぎとめる方法はない。ポストモダン以前には宗教が曲がりなりにもその役目を負っていたが現在では神は死んでいる。左翼運動に代表される内ゲバと呼ばれる仲間割れは、大きな問題の対処を遂行する参加者たちの余りにも矮小すぎるキャラクターが故である。最初の問いに戻ろう。なぜ国際社会の皆が一丸となってガザのパレスチナ人を助けないのだろうか。答えは、ガザのパレスチナ人よりも悲惨な日本人が多すぎるからだ。ガザに対して無関心なのは、大きな物語崩壊後の世界的病である。神々の怒りに触れた人類が連帯できぬようにバベルの塔を破壊され、言語を分断されたように、現代人はスマートフォンとインターネットによって分断されている。もう世界は一つではないのだから、そこに連帯は生まれない。我々が設定出来る最高の努力目標は、あぶれている野良の思想を回収して小規模な思想を伝播させるという過程=結果を繰り返すことだけである。物理的に悲惨なガザのパレスチナ人を救うという偽善でしか連帯できない人たちがいるように、既存メディアの既得権益を批判する偽善でしか連帯できぬ人たちもいる。ただ思想は伝播自体が意味であるのだから、様々な媒体をハックして拡張拡大を続けることが第一優先である。ここで初めて偽善を破壊して露悪が生まれる。パレスチナ人を救うために、誰かの所有物を不当に破壊しなければならないとすれば、偽善をなすために露悪が必要だと認めたことになる。私には最新の仮説がある。政治というのは全て現代アートなのではないかということだ。他人を物理的もしくは精神的に加害して問題提起を行うことが政治であり、それは限られた思想を奪い合うこと。能動性の奪い合いは人間が思想を持つ上での必須事項であり、陽キャ哲学の根本原理でもある。なればこそ、人に役割を与えない大企業的な政治活動は本当に無意味である。一つの思想を広めるために大多数の個性が使い捨てられるとするならば、駅前で赤旗新聞や顕正会新聞を配る高齢女性たちと何も変わらない。役割を与えるには俗的な言葉で言うと『有名さを勝ち取る』ことが一番手っ取り早い。社会的動物であるホモサピエンスは、DNAを次の世代に伝える競争をしていると同時に、生きている間で如何に多くの他者に影響を与えるかということにおいても競争している。ミームとは文化的遺伝子のことであり、今ネット上のバズコンテンツは全てミームとして消費される。コンテンツ作成は個人の思想がベースとなっており、コンテンツがバズるということは文化とセックスしているようなものである。勿論、一瞬の流行を勝ち取れれば思想的勝利かと問われれば、答えはNOだ。継続的に文化に影響を与え続けなければ、別の何かに能動性を奪われるだろう。反戦、労働問題、改憲問題、反対側ではナショナリズム、反グローバル、多様性の抑制、これらはもうすでに何十年も議論され続けている老人のテーマである。これらに問題意識を持ち続ける『現代政治』が陳腐に感じるのも、同じテーマに社会が飽きているからではないだろうか。

スマートフォンによって全人類から何千億時間という途方もない可処分時間が奪われている。日本人も例外ではなく、能動性は枯渇している。ガザ地区の人々の為に自ら立ち上がるパレスチナ人よりも、思想なき幸せな日本人の方が余程不幸に感じるが、それでも彼ら彼女らを救う偽善を負け組の皆様が続けるというのであれば、あえて言おう『私は止めません』。私は透明化された自覚無き天才を拾い上げ、結果的に全世界と全民族を救うことだろう。


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