見出し画像

【文化資本論争】なぜ芸大は本当の天才を作れないのか?

現在、私の友人のバカデカい愛が匿名のアンチに粘着されている。粘着されている要因の一つはバカデカい愛の出身大学にある。彼女は京都市立芸術大学(以下、京都芸大)という芸大の出身でありながら、親からの教育資本の少なさを嘆く投稿をしたために反感を買ったようである。一般的な美大の受験倍率は4倍程度であり、京都芸大美術科の2024年度の倍率は4.1と一般的な美大の水準である。ちなみに浅田彰が大学院院長に就任した京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)は名前が似ているが別の大学である。芸大や美大は入試方法が特殊で浪人を前提とする受験生も多いため、現役の受験生には入学難易度が高く、浪人する時間的余裕と予備校に通う金銭的余裕が必要であるとされる。彼女に文化資本があるか否かの問いは難しい。文化資本は相対的な概念であり、数値化することができない。日本人の子供たちのリテラシーは発展途上国の子供たちよりも優位に高いが、我々が競っている仮想敵は日本及び日本よりも格上の文化資本を持つ先進国のインテリ層である。相対的な高さで満足するのであれば、京都芸大程度でも十分であると言えるが、バカデカい愛はそこに満足してはいない。

彼女の不満は、幼少期にアニメや映画などの娯楽を禁止されており、京都芸大を卒業しても肩書の割にレベルの高い創作が出来ていないということらしい。彼女の実存的不幸は彼女自身が抱えて生きてもらうとして、一点興味深いことがある。それはバカデカい愛がアニメや映画を「レベル1」の文化資本と発言したことである。私が大好きなゲームであるポケットモンスターでは、トレーナーのストーリー達成度を無視して、交換で高レベルのモンスターを譲り受けると、高レベルのモンスターが言うことを聞かず、サボったり自傷行為をするという仕様になっていた。バカデカい愛は大学時代に短歌のインスタレーションを作成したり、フェミニズムを勉強したりといきなり高レベルの技を習得してしまった。しかしポケモン宜しく、その技を使いこなすには「レベル1」からの積み上げが必要なのである。

私は加速主義や新実在論を数冊読んで利口ぶる大学生たちに伝えていることがある。それは基礎をすっ飛ばして応用から始めても、文化資本の欠乏感に陥るだけに終わるということである。バカデカい愛が文化資本の欠乏感に陥っているのは、美大や芸大では文化の基礎は何も学べないということの証明である。アカデミズムはサブカルチャーを下に見るが、大衆はサブカルチャーを通してしか文化に順応しないため、アカデミズム一本ではコミュニケーション不全を起こす。そこで大衆の思慮の浅さを嘆いてみても、基礎の積み上げを怠ったアカデミズムに非がある事実は避けようがない。バカデカい愛が大衆から乖離した逆張りを続けなければ自我を保てない悲劇は、日本の受験文化に共通の構造的な問題である。私の周りにも逆張りや不謹慎を生業にしている創作者が沢山いるが、多くは受験文化サバイバーである。『自分は頭が良いのだから、いつの日か頭の良い理解者が現れるはずだ』という発想は高学歴に多い。何事もピラミッドの頂点はその道のオタクの一軍である。熱狂が高じて、一軍になった彼ら彼女らは、ただ頭がよくなるために努力してきた秀才の理解者にはなり得ない。冷笑家の堀元見が酷評していた北野唯我の『天才を殺す凡人』というビジネス書がある。彼の天才、秀才、凡人の関係図はかなり的を得ている。

北野唯我『天才を殺す凡人』

天才は秀才には興味がなく、凡人は秀才と天才の解像度が低いため、秀才を天才と認識してしまう。本件のバカデカい愛の匿名アンチは、彼女の才能や幻想の天才性に嫉妬していたわけであるが、バカデカい愛(秀才)からすれば、彼女が本当に認められたいのは天才なのである。残酷な話だが、天才芸術家はバカデカい愛などは眼中になく、バカデカい愛のアンチのような匿名に認められたがっているという構造がある。

本当の天才は息を吐くように創作している。私の友人に洗面所で起立したまま、5時間ぶっ通しでYouTubeLiveをする主婦がいる。彼女は絵も描き、歌も歌い、街にある文字でアナグラムを作るためにフルマラソンの2倍の距離を歩く。常人には到底理解できない領域だが、凡人に憧れ凡人の旦那と結婚して岐阜県に住んでいる。アカデミズムが真似のできない領域は『日の当たらない田舎』にあるのかもしれない。世間の文化資本論争はくだらない。そんな秀才のマウント合戦に私は興味がない。私が求めるのは本物の天才だけだ。自分に文化資本があるか気にしている内は秀才にすぎないのだ。


いいなと思ったら応援しよう!