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能動経済の誤謬‐シンギュラリティと経済学

私は常々、資本主義を超える思想が必要であるとnoteやYouTubeで発信している。現状を肯定しない思想のダイナミズムが必要であるという考え方に変わりはない。しかし、同時に資本主義が現在進行形で多くの人を苦しめており、資本主義的な痛みに対する対症療法も必要であると考える。資本主義は経済によって成り立っており、現実の経済活動を無視して思想のアップデートを語ることは机上の空論を唱えることと同義である。経済は多くの人を幸福にするが、同じ分だけ不幸にする。経済が人間性に与える影響を考え考察していくことが重要であるわけだが、経済に対しての問題提起を行う際に、『自由選択をしていこう』『マーケティングの誘惑を乗り越えよう』といった抽象的で自己啓発的なアドバイスは殆ど無意味である。経済市場で需要側は自由選択を行えないのはなぜか、またマーケティングやブランディングが強力なのは一体なぜかという根本的な問いに対する理解が必要である。この疑問を解決するのが行動経済学という経済学と心理学を掛け合わせた学問である。従来の経済学では、消費者は完全合理性の下に購買行動を行っている前提で経済が考えられてきた。完全合理性とは、複数の商品から最適な商品を、自身のニーズに照らし合わせて購入する合理性を持ち合わせているということである。しかし、我々がモノやサービスを買うときに市場にある全ての選択肢に目を通し、それらを吟味する商品知識を持ち合わせているなどということは有り得ない。モノやサービスを購入する際の合理性とはあくまでも主観でしかなく、マクロ的に物事を考えているわけでもない。経済学者のハーバート・サイモンはこれを『限定合理性』と名付けた。マクロ経済学を考える際に、マクロで物事を考えられない消費者の主観を信用するのでなく、人間の非合理的な心理を考慮に入れて経済の動向を考えていこうというわけである。行動経済学を応用することで、非合理な我々が納得感を持って経済活動するにはどうすれば良いかを考えていこうと思う。

FPもとこの間違い

陽キャ哲学という思想がある。これは私が考えたもので、個人の能動性の奪還を追求することに主眼が置かれている。詳しくは過去のnoteを読んで欲しい。この陽キャ哲学を経済に応用しようと試みた人物がいる。FPもとこである。FPもとこは陽キャ哲学の主張の上辺だけを使い、自身の経済学を創始した。彼女は自身の経済学を能動経済と名付けてnoteやYouTubeで発信活動を行っている。失礼を承知で言わせてもらえば、能動経済には中身が全くない。自身が嫌いなモノや考え方を能動経済という中身のない概念を使って批判しているに過ぎない。彼女のnoteには能動経済に関する記事が70以上もある。またYouTubeでも個別の事象や時事ネタ対しての批評を行っている。批評自体は一種のクリエイティブであり、推進するべき行為であると思うが如何せん内容がない。それらの全てをここで紹介することは出来ないがいくつかをピックアップして批評する。

上記2つの記事は、長々と文章が書かれているが最終的な結論は『お墓はただの置物』『マッチングアプリは要らない』という誰でも言えそうな意見である。私も正直お墓が欲しいと思ったことはないし、マッチングアプリも使っていない。感覚としては同意できるのだが、FPもとこは主張に対して根拠が薄いので、それを必要だと考える人を説得することは難しいだろう。ピラミッドや古墳にみられるように、墓とは権力と財力の象徴であった歴史がある。有史より墓が権力の象徴として重要視されてきた理由に、死後の世界が信じられていたということと、権力を示すために購買する商品が限定的だったことの2点が挙げられる。後者は特に重要で、現代では高級車やハイブランドのファッションアイテムなど財力や権力を示すためのアイテムが沢山ある。また核家族化が進んだ影響で家柄の重要性も薄れており、墓という一族の偉大さを象徴するアイテムの重要性は低減している。若者世代では、墓に対する憧れなどというものは皆無に近いが、それは事故顕示欲による消費が衰退していることを意味しない。上述したようにハイブランドや高級車の価値は未だに顕在であるし、ゲームの課金アバターや美容整形といった新しい自己顕示消費が、古い消費に取って代わっただけである。FPもとこはハイブランドや美容整形も同時に批判している。これではイタチごっこである。自己顕示消費を批判したいなら、個別の事象を各個撃破しようと考えるのではなく、なぜ自己顕示消費はあるのかという哲学的問いに立ち返らなければならない。本当の能動経済とは、能動性を如何に保つのかということを経済学の文脈で考えることであり、経済的搾取を攻撃することではないはずである。欲しがる人に『それを買うのをやめなさい!』と説教するのは北風と太陽で言えば、北風の行為である。私は陽キャ哲学(sunshine philosophy)、つまりは太陽である。説教おばさんとの格の違いを教えよう。

言語化能力と思考停止

自己顕示欲の強い人とは、言語化能力の低い人である。言語化とは行動理解であり、言語化能力の高い人は『私は何故それをするのか』ということを瞬時に言語化できる。我々は日々の行動をパターン化することで、思考に対するリソースを減らすようにプログラムされている。思考停止は決してネガティブなことばかりではなく、有用な場面も多い。その最たる例がスポーツである。世界的テニスプレイヤーのロジャー・フェデラーは平均時速190kmでサーブを放つ。如何に動体視力が優れたプレイヤーでも190kmを超えるサーブを肉眼で捉えることは出来ない。しかし、フェデラーのサーブをレシーブすることの出来るプロテニス選手は珍しくない。反復によるレシーブのパターン化により、動体視力で観測できないスピードのテニスボールの動きを予測して打ち返すことができるのである。思考停止は同じパターンの問題に素早く対応するためには有用なのである。暗記教育の利点は、問題文と解決策をセットでインプットすることによって個人の情報処理スピードを向上させることにある。現代を生きる我々は、日常において四平方の定理を証明する必要はないし、190kmのボールの動きを予測する必要もない。その代わりとしてひたすらの自己理解が必要である。自己理解というと、大学生が就職活動で行う自己分析を思い浮かべる人もいるかもしれないが、それとは似て非なるものである。就職活動の自己分析は、自分が就職したい業界を絞るための理由付けのために行う。そもそも新卒一括採用自体が社会のレールであるのだから、志望理由などあるわけがない。小学6年生が中学校に進学するのに志望理由が存在するだろうか。社会の要請に対して理由を後付けしているだけの就職活動という儀式で、そこに参加する明確な理由を持つのは難しい。儀式に参加する明確な理由がないのに、儀式の中でどの業界が一番自分に合っているかということを考えるのは噴飯ものである。しかし人間社会で生きる以上、儀式や慣習には一定従う必要がある。多かれ少なかれ不合理な儀式に従わなければならないのなら、どの儀式に従うかということを選び取る態度に価値が出てくる。これが自己分析を超えた自己理解である。再度、FPもとこの自己所有の墓地は必要か不要化論争を例に出して考えてみよう。冠婚葬祭は日本ではマジョリティが参加する儀式であり、モノ(墓地)やサービス(葬式)といった商品に付随する人間関係の安定を同時に購入している。当然、核家族の現代人は自身のお金や時間を冠婚葬祭につぎ込む必要性は薄れてはいるが、それは一族という価値の希薄化によるものにすぎない。その代わりとして、一人の時間を有意義に過ごすためにペットを飼ったり、Vtuberにスーパーチャットを投げるかもしれない。ここで問題なのは『なぜその儀式なのか』という問いである。商品を売買した先に何があるかということを具体的に言語化し、その未来を積み重ねていくことは楽しいし生産的だ。整形依存症や受験メモリー依存症の大きな問題点は、ゴールが言語化されていないところにある。容姿とはファッションのようなもので他人に好印象を与えるための道具である。しかし、どんな容姿であれ、万人に受け入れられるということはあり得ない。結果として、整形外科医に延々と金を払い続ける人生になる。目標が伝語化されることで、ノルマ達成時に次なる目標が生まれ、その目標を達成することで次の目標が生まれる。その際に環境や今までの経験をポジショントークとして取り入れる。これが、真の能動経済の姿である。この世の中に間違った経済は存在しない。停滞した消費者が存在するだけである。

セルフトーク

アルゴリズムによるレコメンデーションは人の思考を停滞させる。同時多発的に複数の商品情報を消費者に認知させることで、消費者の思考を麻痺状態に陥らせる。欲求を衝動と結びつけることで、欲求が言語化の段階にまで昇華するのを阻止する。実は、このような手法はアルゴリズムの専売特許ではない。古からの営業マンたちも即決営業という、顧客に考える時間を与えずに契約をクロージングする手法を多用している。インターネットでのレコメンデーションは何度も繰り返し行われるため単純接触効果の意味合いも強く、個人の正常な購買行動を阻害する。現時点ではAmazonやYouTubeのアルゴリズムはユーザーの閲覧履歴や視聴履歴をベースに商品同士、または動画同士の関連性から類似品を提示する比較的単純なプログラムである。上述の通り人間の購買行動は限定合理的でありAIだけでの分析は困難である。統計分析をレコメンデーションのアルゴリズムに組み込む段階はかなり遠いように感じる。それが可能になる地点が生成AIのシンギュラリティであり、営業、マーケティング、ブランディングといった全ての供給側の経済活動はAIに代替されるだろう。しかし現段階では市場分析1つ取ってみても生成AI単体では行えない。市場は超複雑系であり、意味付けをすることはできても単一の世界を探し当てることは不可能である。確かに購買行動をAIに支配される未来は恐怖だが、現在のアルゴリズムはデータアナリストの監視の下で戦略的に稼働している。動画サイトやECサイトは人間の作為を孕んでおり、まだ貴方のほうが貴方の欲求に詳しいと自負できる段階であるはずだ。哲学者ルネ・ジラールの言を借りれば、全ての欲望は誰かの欲望の模倣なのかもしれない。それでも、誰の欲望を自身の欲望にトレースしたいかということは実存的な問題である。自分は誰であり、何を目指しているのかということを常に問い続ける姿勢は哲学者および思想家の責務であるように感じる。

自己の欲望を意識下で絶えず確認する実証的な方策として、セルフトークとリストアップという哲学トレーニングを推奨したい。セルフトークとは毎日自分と対話することである。要は独り言であるが、これはかなり画期的なトレーニングである。まず自分の欲望を自分に話してもらう。誰もいないところで本音を自分に向かって問いかける。本音が言い訳的であれば、次のターンで本音を論破するようなセルフトークを返す。本音がやる気に満ち溢れているのであれば、本音に対してなるべく本心に近い言い訳を返す。これを数回繰り返すことで、現実と理想の間には何が足りていないかということが明確になってくる。それが経済力であれば経済力を追求すればよいし、学歴であれば追求すればよい。勿論、巨大な墓地の購入も理想であるならば構わない。誰かに相談するということも時には重要であるが、あなたに商品を売り付けようとしているECサイトや動画サイトに相談することは控えたほうが良い。彼らは『私の商品/動画を消費することで解決してください』という胡散臭いメッセージを返すだろう。また、リストアップも強力な自己理解テクニックの一つである。配信者やVtuberがファンに乞食行為をするときに使われるAmazonの欲しいものリストであるが、これは使い方次第では思考の言語化にかなり役立つツールである。欲しいものは欲しいと思った瞬間に、仮想的な衝動買いをするべきである。つまり、欲しいものリストに入れるのである。欲しいものリスト的なシステムがないECサイトであればウェブブラウザのお気に入りでもよい。ノートに書き連ねるのでもよい。ある程度衝動買い履歴が溜まってからリストを見返すと、既に情熱が失われてそこまで欲しくないもので溢れかえっているはずだ。こうして溢れかえった衝動買いは短期的な欲望である。短期的な欲望は他者性が強い。他者の欲望を強く模倣しているか、そもそもアルゴリズムに報酬系を刺激されてドーパミンが一時的に出ていただけか。いずれにせよ、あなたの欲望に付きまとう他者性を分析することが出来る。必需品や当事者性の欲求が強いモノやサービスはすぐに購入し、そうでないものは経済的な余裕がなければ忘れられる。あぶく銭が湧いたときに、浪費してしまうのは自分の中の他者への理解が不十分だからではないだろうか。さらに言えば、私は人からレコメンドされたものを滅多に買わない。値段の問題ではない。Amazonプライムで無料視聴できたとしても、人からレコメンドされた映画やアニメは中々視聴しない。これは自分の判断を重要視しているということもあるが、一度消費してしまえば、コンテンツを堪能するための重圧が掛かるからという理由もある。購入する、もしくは時間を使う前にモノやサービスを吟味するのは大前提として、消費してしまった後では、それをどう正解にしようかということを考える。つまらなくても物語の思想性を考察したり、買ってみて微妙な服も意地でも自分なりのセンスで調和させる。ショート動画を長時間見てしまうこともあるが、観てしまった時間は取り返せない以上、それを自分のコンテンツに反映させようと躍起になる。この覚悟が陽キャ哲学者には求められるのではないだろうか。

まとめ

経済は戦争である。『私はお金持ちではないから搾取されることはない』ということを言っていられる段階にはない。可処分所得の奪い合いは当然のこと、可処分時間、人的資本の奪い合いはかなり前から始まっている。TikTokでは毎日多くの若者の時間が搾取されている。動画プラットフォームは、従来型のテレビバラエティのようなコンテンツクリエイターと視聴者の関係を前提としたものではない。コンテンツクリエイターの役割も、同じく若者に担わせているのだ。若者が作ったコンテンツで若者の時間を奪うという永久機関により、プラットフォーマーは財を得ている。能動性を奪い合う場を、資本家が用意している。これでは我々は闘犬用の土佐犬のように思える。コンテンツを消費するしかない脆弱な我々だが、我々は消費の中からでも思想を生むことができる。本記事で書いたような、無為な消費への対策、また消費から思想を得る方法を活用して、資本主義からベーシックインカムやベーシックソート以外の方法でも風穴を開けることができるということを証明しようではないか。FPもとこも本当の能動経済を理解し、資本主義と戦ってほしいものである。


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