ヘルマンヘッセ『デミアン』を読む。俺たちは大衆ではない。
最近、ヘルマンヘッセのデミアンを再読した。現在の社会が抱える問題が如実に描かれていたのでシェアしたいと思う。デミアンという物語は、主人公のジンクレール青年の成長物語である。彼の幼年期から、その後成人し兵役に行くまでの過程が描かれている。内気な性格だったジンクレール少年は、地元の悪ガキであるフランツ・クローマーに虐められていた。それを救ったのが、この物語のキーパーソンであるマックス・デミアンである。デミアンはいじめっ子からジンクレールを救ったのみならず、批評する楽しさを教えたことによりジンクレールの人生に大きな影響を及ぼす。旧約聖書にはカインとアベルという兄弟殺しの物語がある。神であるエホバの依怙贔屓に嫉妬したカインが弟のアベルを殺すという神話である。神の咎めを受けたカインは額に紋章を与えられ世界を旅することになった。余談だがこの紋章が何を意味するのかは神学者の間でも諸説あり、肌の色を意味するとご都合解釈した人種差別主義者によって黒人差別の根拠となった歴史がある。デミアンはこの紋章を強者の証として定義した。ニーチェはキリスト教の道徳をルサンチマンとして激しく非難したが、ニーチェの著作はデミアンに出てくる多くの人物にとっての愛読書でもある。デミアンもご多分に漏れず、旧約聖書の兄弟殺しを正面から解釈することを拒否する。カインは嫉妬からではなく、自身の強さの証明のためにアベルを殺害したというのである。加害行為の究極である殺人を実の弟であるアベルに対して働いたことを正当化するというのは聊か無理がある議論だが、デミアンはそもそもカインとアベルは兄弟ではないという考察を追加する。単に歴史上で強いものが弱いものを殺したというだけの話を、キリスト教が自身の弱さを正当化するためにカインを悪人に仕立て上げたというのである。ジンクレールはその後の人生で、物事に解釈を加えることに楽しみを見出し、デミアンという存在に傾倒していくことになる。この物語は異端(批評する者)と大衆(批評をしない者)の対立であると解釈できる。彼が人生を通してどのように変化していくのだろうか。
悪魔崇拝
ジンクレールとデミアンが是とする宗教観は悪魔崇拝である。彼らはグノーシス主義の神であるアブラクサスを神であり悪魔であるものとして評価する。ある日、ジンクレールは自分の書物に紙片が挟まっていることに気が付く。その紙には『鳥は卵からむりに出ようとする。卵は世界だ。生まれようとするものはひとつの世界を破壊せねばならぬ。鳥は神のもとへ飛んでいく。名をアブラクサスという』と書いてある。これはデミアンが挟んだもので、今後のジンクレールの思想形成に大きな役割を果たす。卵の殻を破ることは神に至るために必須の行為であり、卵の中の世界を肯定するルサンチマンの神は本当の神ではないというのである。異端者に目覚めたジンクレールは、オルガン奏者のピストリウスや禁欲に悩む青年クナウエルとの対話を重ねて、彼らの思想に感化されるとともに彼らにも影響を与えていく。この物語の登場人物は多かれ少なかれキリスト教的な欺瞞と相容れずに異端者の烙印を押されている。『デミアン』は異端者の物語ではあるものの、常識を疑う存在≒悪魔崇拝が必ずしも良いものであると全肯定されているわけではない。オルガン奏者のピストリウスは自らの宗教観を説教する牧師になりたかったが、現実問題として需要がないためオルガン奏者という妥協に落ち着いている。また全体主義を疑う気持ちを持ち合わせていた存在であるマックス・デミアンも最終的には第一次世界大戦の勃発とともに、動員令に応じて軍に入隊して線上に向かった。この作品の最後では、線上の病床でジンクレールとデミアンが再開しお互いに口づけをした。しかし、一晩寝て目覚めると、横には全く見ず知らずの他人が寝ていたという一行でこの物語は終わっている。ジンクレールの追想の中に出てくるデミアンはどこまでが事実なのだろうか。『デミアン』の中では、ジンクレールに都合の良いタイミングでデミアンを始めとする登場人物が現れる。ジンクレールは所謂『信用のできない語り手』であり、真実と妄想が追想の中でごちゃ混ぜになっている。デミアンと幼少期に出会ったというのは事実のように思えるが、その後の人生でデミアンが与えてくれた助言や会話はジンクレールの妄想なのではないだろうか。ジンクレールは元々自己主張の弱い少年であり、デミアンと出会った衝撃から彼を神格化し、自身の異端部分をイマジナリーフレンドのデミアンに分け与えたのではないだろうか。事実、デミアンという名前の語源はデーモン(悪魔)から来ている。デミアンというきっかけはジンクレールを本当の悪魔に変えてしまったのである。著者のヘッセも晩年キリスト教への懐疑から仏教的な作品であるシッダールタを執筆する。ある宗教の信者は自身の持つ宗教と他の宗教を比較するということを基本的にしない。比較があると主張する者もいるかもしれないが、宗教が持つ排他性を批評として受け入れていることを比較や批評としてごまかしているに過ぎない。人間は自由意志を信じなければ、ロボットやAIと大差がない。与えられた命令を無批判にこなすことが重要な場面は確かに存在するが、それは人間としての何かを押し殺している。状況的に仕方ないことと、共同体や集団に一切の疑問を持たないということは別問題である。行動は世界の合理性を追求してもよいが、思想は自身の合理性を追求する他ない。それが比較宗教学の萌芽であり、実存主義の誕生につながった。ニーチェは不可能に近い脱宗教の教条主義を掲げているが、不可能と分かりつつも挑むことが重要である。デミアン(悪魔)とジンクレールのキスという理想と、戦場にデミアンは存在しないという現実の対比は世界の合理性と自身の合理性の矛盾を表しているのではないだろうか。そのことは後述する天職という概念にも深く関係する。
天職と加速主義批判
オルガン奏者のピストリウスとジンクレールは親友だったが、あるときを境に二人の考え方に大きな溝ができる。二人が書斎で宗教についての話し合いをしている折、ピストリウスが因習的な信仰形式の寄せ集めのような詰まらないことを喋っていることに疑問を持ったジンクレールが論争を始める。悪魔崇拝仲間であったはずのピストリウスがキリスト教の因習を鵜吞みにしているなど、おかしな話であると指摘すると、ピストリウスはあっさりと負けを認めた。言葉として発してはいないが、ジンクレールはモノローグでこのように述べる。
これは実存主義の哲学者キルケゴールも同じようなことを言っている。自分を殺せば、人の前で自分を曝け出せない孤独を感じる(絶望して自分自身で在りたがる絶望)。逆に自分を曝け出せば、分かり合える人の絶対数が減る(絶望して自分自身で在りたがらない絶望)。人間はこの矛盾により常に孤独を強いられる。人間は生まれてから死ぬまで常に絶望しているというのである。キルケゴールの考えでは神という超越的概念を信じることで絶望を緩和させ続けることに救いを見出した。しかし、ジンクレールは絶望の克服のために新しい神々を欲するのは間違っていると喝破する。孤独であることの絶望は乗り越えることではなく、天職を生きている≒自分自身に達そうとしていることの証であり、生きている限り永劫続く成長痛であるというのだ。物語終盤で、デミアンとデミアンの母であるエヴァ夫人の家に菜食主義者、占星術師、ヘブライ神秘主義者のようなカインの紋章を持った人間たち(異端者)が集まる描写がある。ジンクレールが異端の印を持っているからこそ、彼の周りに他の紋章保持者が集まったのだと考察できるが、彼ら彼女らは誰一人指導者や政治家になることがなく、社会に対する何の変化も生じさせなかった。この物語が第一次世界大戦の開始とともに終わっていることは、そのことを象徴している。ジンクレールは『戦争は表層上の営みにすぎない』と否定し、原始的な感情とは敵を害するためではなく、内から起こる内部分裂の放出の結果であると述べている。戦争や政治では社会を変えることはできない。ジンクレールの信念では、鳥が卵から出る際の殻の破壊においてしか世界は変わらないのである。戦争は無論政治的なお遊びにすぎない。これは現代最後の希望として語られる加速主義に対する批判のようにも思われる。加速主義とはテクノロジーと資本主義の拡大により、現状既得権益が得ている利権の崩壊を加速させるという消極的革命思想である。しかし、資本主義という人間の欲望を画一化することで成り立つイデオロギーを拡大させたところで、人間は経済至上主義という欺瞞を生き続けるだけにすぎない。『デミアン』で語られる天職は職業のことではない。お金を稼ぐ手段としての職業を個人最適化、または社会最適化したとしても、それはAIという知能によって粉砕されるだろう。お金を稼ぐことを無意識に社会的人間の使命と考える欺瞞はいくら拡大しても社会を変えることはできない。漫画コブラのコラ画像を思い出す。メンテナンスが終わったら、またメンテナンスが始まる。制度を変えても、人間の意識は変わらない。変える必要もない。人間の内なる意識は眠っているだけだ。我々は皆カインの末裔なのだから。