折り合いをつけて生きていく
わたしの息子は563gで生まれ
生死の境を彷徨い、半年間入院しました。
現在は死にかけたのが嘘のように
体は健康そのもので元気いっぱいで
なんの心配もないのですが、
”知的な遅れ”があり、特別支援学校に通っています。
***
先日、
タブレット学習をしていた時のこと。
”1年生から6年生がいて
教室や体育館があるのはどこ?”
という問題が出てきて
答えのところに
”し〇〇が〇〇う”
と、あったため
息子は意気揚々と
”しえんがっこう”
と入力した。
が、
タブレットからは”ブッブー”と
不正解を告げる音がして
息子は
「えー!?なんでー!?」
と声をあげた。
わたしが
「ああ、そうやね。しえんがっこうも
間違いじゃないね。合ってるよ。でも、
もう1個答えがあるんよ。
〇〇くん(息子のデイでのお友達)が
行ってる学校はどこやったけ?」
と、聞くと
「〇〇しょうがっこう!」
と元気よく答えた。
「そう。だから答えは
”しょうがっこう”なんやよ。」
と言うと、こくこくと頷き、
入力し直して
”ピンポーン”
という
正解の音を聞いた息子は
満足げに次の問題へと進んでいったけれど
わたしは、
何とも言えない気持ちになった。
しえんがっこう だって正解じゃないか。
「障害も個性だよ」
「算数ができない子もいるよ」
「その子の得意なことを伸ばしてあげないと」
「授業中じっと座っていられない子は
障害児じゃなくたっているよ」
そんな言葉を放つ人たちの
心の源にあるエネルギーが
善意という名であることはわかっている。
でも、そういうことじゃないんだよ
(↑120Pくらいにできないですか?)
慰めてほしいわけじゃない。
わかってほしいわけじゃない。
どうにかしてほしいわけじゃない。
ただ、こんなふうな小さなズレと
折り合いをつけながら生きている。
そして時々、この小さなズレが
折り合わなくて崩れ落ちそうになる。
もっと大きなものと
戦いながら抗いながら
生きている人もいるんだよ、と
体が元気だからいいじゃない、
少しでも勉強できるんだからいいじゃない、と
言われることもたくさんあるし
自分でもわかっているけれど
でも、
そういうことじゃないんだよな、と。
答えなんかない道を
今日も息子と一緒に
わたしは生きていく。
Stay strong
(がんばろうね)