連載版「十束神剣百鬼夜行千本塚」 #8
どうしたものだろう。家来に背中を押されて、僕の視界は姉上の乳房で塞がれている。姉上の全身からは良い香りがする。しかし侍の男子は誰の乳房に対しても思うところは何も無い。母親や乳母の乳房を吸うまでもなく、生まれながらにして揃った歯で米を噛んで食べて大きく育つからだ。
「若様? 今生の別れに押し黙ったままでは、あまりにも無慈悲というものではありませんか? それとも明日の朝には売りに出される畜生にかける情けは持ち合わせていないということですか? その支配者としての冷徹さは尊く、そして得難い素養であるとは思いますが……」
振り向けば血も涙もない忍者が口に手を当てて驚いたような素振りを見せている。目が笑っているから、きっと演技だ。少し真剣に頼み込んで席を外してもらうことにした。僕の忍者は「そう言うと思っていましたよ」とでも言いたそうな表情だった。僕が何か言うまでもなく、彼女は何らかの術で姿を消してしまっていた。きっと残された時間は半刻と無いだろう。僕は正面に向き直って姉上を縛る荒縄を解かせてもらうことにした。姉上は大人しくしている。早く姉上を安心させて差し上げたい。まずは猿轡から外すことにした。
「こうなってしまった後に言っても信じて貰えるかどうかは判りませんが」
訥々と姉上は語り出した。
「皆無殿の帰りが遅いのは、きっと返り討ちにあった所為であろうと、心の何処かでは判っていました。しかし我らには悲しんでいる暇はありません。お前の父君が正気を失って自らの子に討たれるべき怪物に成り果てたのと同じように、私の両親にも愈々『その時』が近づいているのです」
その話は他の機会にして欲しい。今は姉上が無事に帰ることだけを、と言いかけた口を塞がれた。
「いいえ。私が、お前の家を訪れた本当の理由を今こそ語らねばなりません。落ち着いて聞きなさい。私は、お前に兄君の代わりを担わせる為に来たのです」(続く)
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