❝G❞から❝A❞までの道/番外編「Bは❝Birthday❞のBであれかし」#AKBDC
そのバーは唐突に視界に現れた。何もなかった荒野の只中に、まるで砂漠の蜃気楼のようにして。これは死に際に見る幻であろうか。懐中時計で時間を確かめる。最後に食事を摂ってから二時間が経過していた。気候の厳しさを加味しても、未だおれの活動限界には程遠い筈だ。街から此処に至るまで妨害らしい妨害も無かったところに、これだ。罠だと考えるのが妥当である。
「食欲が無いからって無理は良くない。❝鉄滓会❞の隠れ家に辿り着くのがゴールじゃなくて、連中の抱える殺し屋とヤり合うのがスタートなんだし。その前にビールとステーキで英気を養うのも悪くないんじゃないかな……」
おれの悪魔が耳元で何事か囁いた。悪魔というのは比喩ではない。これについて説明しようとすれば、それは世界で一番長い手紙になるだろう。おれは既に殺し屋を殺す力と引き換えに、悪魔との取り引きで多くのものを失っていた……。
「……少なくとも、連中の隠れ家に向かう前にトイレを借りた方がいいよ」
具体的には感情、欲求、情動といった生物の、人間としての部品の幾許かをおれは❝契約❞で失っている。尿意があっても危機感が湧いて来ないというのは、そういうことである。誰も居ない荒野だ。用を足すなら好きな時にすればいいと考えていたのだが、それは見通しが甘いというものだった。隣の悪魔がうるさいからだ。出会ったばかりの頃はこんな奴ではなかった。初対面での超然とした態度はおれとの❝契約❞の度に次第に失われ、今では十代の小娘のように口数が増え、感情の起伏めいた動きさえ見せるようになっていった。外骨格の全身鎧めいた外観の厳めしさも既に殆どが剥がれ落ちている。
「どうせ私は君にしか見えない。そして今の君には他者の外見に対する興味も無い……。家の中で裸になるようなものだよ。それより、中に入ろうよ」
……薄暗い店の中は快適そのものだった。やはり単なる酒場だったのだろうか。畢竟、地域密着型零細マフィアの❝鉄滓会❞が、おれ一人を罠に嵌める為に何も無い荒野(だからこそ連中の隠れ家があるのだろうが……)に一軒の家屋を出現させるなど普通では考えられぬことである。予算の問題だけではない。そもそも工事が間に合わないだろう。だが、こんな荒野にオアシスの如く存在している以上は、奴らの手の者が日常的に出入りしていても何の不思議もないということでもある。店内を見渡す。先客らしい先客と言えばカウンターに突っ伏してグラスを握ったままで高いびきの、酔客と思しき筋肉質の男が一名いるのみだった。辮髪。それから、見覚えのある民族衣装。
「これは……マーグアだね。馬に掛けると書いて、マーグア」
おれの悪魔は物知りだった。その知識に助けられたことなど今まで一度も無かったが。果たして彼は大陸の人間だろうか。観光客か、それともビジネスで来ているのか。「あの国の人間は世界中のどこにでも居て、時々メチャクチャなことを言う。しかし彼らの作る詩は美しい」……唐突に遠く離れた故郷の恩師の言葉が思い出された。それはともかく、薄い暗闇に目が慣れて来ると次第に周囲の様々なものが見えてきた。床には紙吹雪が散乱しているうえに、テーブル席には下げられないままの食器類、それから清涼飲料水やアルコール飲料の空き瓶が所狭しと並べられている。相当な人数によって何らかのパーティーが繰り広げられていたらしかった。それも、ついさっきまで。何とはなしに壁を見やれば「生日聚会」と力強く書かれた横断幕が極彩色の装飾を伴って張り付けられている。生まれた日。聚(あつ)まる会。
「……この店を貸し切っての誕生日会があったみたいだね。察するにパーティの主役はそこで潰れている彼だろうか。ま、どうでもいいけど。それよりマスターは出払っているのかな?買い出しにでも出たのかしら……」
どうやら片付いている席は辮髪の彼の隣の席しか無さそうだった。彼の閉ざされた双眸が開かれる。瞬き、呻吟。そして誰何された。おれは通りすがりの旅人で、パーティの出席者ではない。あなたとは初対面で、食糧さえ調達できれば出て行くつもりで、おれのことは気にしなくていいとだけ伝える。
「……んんん?いや、君のことが気になるのだが?気になって仕方がないんだが?素晴らしいイマジナリーフレンドを連れているようじゃないか?」
イマジナリーフレンドとは空想の友人のことだろうか。おれの隣にいるのはおれにしか見えない、悪夢じみた現実の悪魔なのだが。酒の魔力にやられていると見えないものが見えてしまうということだろうか。それにしては妙だ。辮髪の視線はおれではなく、おれの隣に立つおれの悪魔のいる辺りを凝視し続けている。まるで、本当に何かが見えているかのように。おれの悪魔は怪訝そうに手を振ってみるなどしている。すると辮髪の視線が、悪魔の手の動きに合わせるようにして右、左、右、左に忙しなく動いている。
「ヤギの角。体のシルエットを隠さない黒いドレスに黒い腕甲。まるで逆さまにした薔薇を思わせる意匠の赤いスカート。黒塗りの板金で保護された刺々しいブーツ。……アクセサリ、トップス、ボトムス、シューズが高いレベルで纏められている。嗚呼、もしや君は名の通った剣闘士なのかい?」
辮髪の酔客は、余人には見えざる我が悪魔の外見的な特徴をぴたりと的中させて見せた。彼も俺と同じ悪魔憑きなのだろうか。ならば近くに彼の悪魔が潜んでいる。……何の為に?おれを始末する為に相違ない。
「ちょっと落ち着いて。確かに悪魔憑きは、その、少しおかしい人ばかりなのは間違いないけれど!何というか……彼は違うような気がする……!」
躊躇している暇は無い。かつて悪魔はおれに言った。「人間の努力は未来を変えられる。悪魔の力は今、この瞬間を変えられる」剣闘士がどうのこうの言っていたのは悪魔との❝契約❞で自らの正気を悪魔に売り渡してしまったことの何よりの証拠であろう。つまり、おれが次に瞬きを終える頃には辮髪の男が何らかの問答無用で致命的な神話めいた武器を呼び出しているかもしれないのだ。一騎打ちで必ず勝利する剣、持ち主の手から放たれたならば、過たず敵の心臓を貫く槍、死の落雷をもたらす鉄槌、はたまた……。
「……Are you a guest?」
その時だった。胸元のはだけたシャツを着て、切り詰めた散弾銃を油断なく構えし、乱れ髪の屈強な男がカウンターの向こうから上半身を現したのは。こいつは何だ?まさか店主か?こいつも悪魔憑きか?それともおれが追う殺し屋の一味なのか?そこの辮髪と❝ぐる❞なのか?
「Order……」
おれに何か注文しろと言っているのか?なぜ片言なんだ?おれが何を言っても、お出しされるのはスラッグ(※鉄滓)弾なんじゃないのか?
「アー……。先生、彼は僕の友人さ。真夏にキャメルのコートを着ているからって怪しい男じゃないよ。パーティには一足遅れて来ただけで……」
悪魔の見える辮髪が、こちらに向けて目配せしながらカウンターの向こうの男を宥めている。先生と呼ばれた男は銃を片付け、顎をしゃくって空いている席を指し示した。幻視野郎の隣に座れということらしい。それからは、おれに一切の興味を失くしたように黙々とグラスを磨き始めた。それはまるで「俺は、このバーのマスターだ。わかったか」と全身で表現しているかのようだった。隣に座る男が小声で、何やらおれに耳打ちを始めた。この異常事態に至る経緯を説明してくれるとでもいうのだろうか。
「本当に何も知らない通りすがりの旅人だったのかい?勘違いしてしまって申し訳ない。ここはね、逆噴射小説大賞の二次選考を通過した自分の作品の主人公をイマジナリーフレンドとして召喚できるバーなのさ……」
そういって指を鳴らす。真夏の白昼夢のように、熟練者の風格を備えたナース服の若い女性と、油断ならぬ眼光の幼き旅装の狩人が店内に現れていた。
(お誕生日おめでとうございます。ここまで書いて作者は力尽きて倒れました。この続きは誰かにお願いしたいです)
何かの形で再利用したかった拙作
作中でアクズメ=サンの情報源となった太古の記事
結論
誰かを祝いたいと思ったら、まず相手のことを知ることから始めよう。
(劇終)