見出し画像

治療の始まり

前回からの続きです。

術後は、いよいよ抗がん剤のスタートです。
※術後の経過を見て10日くらいだったと思いますが、安定してから始まり
息子は翌日から動き回っていました。痛いはずなのに、起き上がったりベットから降りようとしたりと大変でした。
このときの付き合い
平日/妻、週末/ぼく(父)


①抗がん剤(合計6クール)

最初の抗がん剤は、1クール3週間のサイクルを計6回行いました。
抗がん剤は、サムネにも貼ってある写真の胸当たりに留置してあるCVポートからルートを接続して薬を入れていきます。
2本のうち1本は薬、残りが輸液になっていています。

抗がん剤中の輸液は通常の3倍以上とか入れるので、トイレが間に合わなかったのが当たり前でした。
当時3歳なったばかりですが、オムツをまだはいており、トイトレの欠片もありませんでした。
むしろ、オムツでも間に合わなかったし、毎日おねしょどころか日中でもお漏らし、オムツ替えている最中でもそのまま排尿するときもあった。

そして気になるのが「副作用」ですね。
投与したそのときすぐにくるのかとおもったら、翌日とか少し時間が経ってから到来でした。
「吐き気」が出てきて、吐いて食べての繰り返し。
「脱毛」もありましたが、吐き気より来るのが遅かったのを記憶してます。

脱毛も最初は、「ベットに髪が落ちているな」くらいの程度から始まり、
髪を触ったら抜けてきて、最終的には寝て翌朝起きたら抜けていた。
※恐らく寝返りで抜け落ちて、ベットに髪が溜まったりもあった

そして「副作用」が始まり、「骨髄抑制状態」にもなった。
そしてここから「クリーン期間」といって、自室から息子は出禁です。
ごくわずかな菌でも感染症になりやすく危険になるからです。
そしてこの「骨髄抑制」が回復してくるつまり、血中の数値が回復してきて、状態がよかったら退院となります。

②大量化学療法+自家造血管細胞移植

読んでのごとく「強力な抗がん剤」です。
「自家造血管細胞移植」は、①で抗がん剤治療の途中にきれいな癌細胞のなないキレイな細胞(自分の)をあらかじめ採取していました。

その「自分の「きれいな細胞」を移植(戻す)作業になります。

このときの部屋は個室なんですが、「無菌室」です。
完全に部屋も管理され、使用ルールも特別厳しかった。
※前使ってた個室より広い(トイレ・喚起ファン・電子レンジあり)

・息子は喚起ファンのある所からの移動禁止
・付き添いとの添い寝も極力禁止(完全に一人で寝れないから配慮)
・付き添い交代の回数を今まで以上に制限
・食事のスペースも完全に隔離(付き合いは患者と並んで食べれない)

そして、この無菌室での生活は1ヶ月。
付き合いは僕がまるまる缶詰で生活しました。

「大量化学療法」
この時は、今まで投与した抗がん剤より遥かに強力で、体内にある細胞を全て破壊してしまいます。
なので、無菌室・衛生管理最上級での管理、食事も管理の徹底ぶり。

ここでも副作用で吐いたりするかと思いました。
脱毛は予想どおりに到来し、生えてきてた産毛もまたサヨウナラ
「吐き気」が思った以上にこず、ここは今までと違うところ。

骨髄抑制が始まったら「自家造血管細胞移植」に入る。
全くのクリーン状態(細胞ない状態)であらかじめ採取しているきれいな細胞を、点滴パックの中から点滴を落とすみたいに、投与します。

この移植自体多く扱わないらしく、医師や看護師の出入りが激しい。
投与自体は朝から始まりその日のうちに終わりました。

ここからは、副作用で「食欲不振」が特に酷かった。
口内炎みたいなのがひどく、口に接触するのが特に嫌だったみたい。
食事量がだんだんと減ってきて、最終的に固形が食べれない、水も少量口を湿らせる程度ふくめただけで、あとは点滴(高カロリー輸液使用)のみ。

ここからは、投与した細胞をいかに「生着」=自分の体に馴染ませるかが勝負だった。
毎日採血で血中数値の確認で好中球を見る。
これが基準値を超えないと、無菌室から出れない。ということは、一般の個室にも移れないし、退院もできない。

結果、移植後2週間以上かかり生着しました。
生着したときは、ほんとうにうれしく涙が止まらなかった。
合計無菌室での生活は1ヶ月を超えていました。


この無菌室生活は、特に交代もなく付き合いもメンタルどん底でした。
それだけ管理も厳しく、シビアな治療だったのだと今になって感じます。

神経芽腫治療だけでなく、小児がん治療というのは、常に何かの恐怖と隣り合わせで行っている。
キレイごとだけではおわらないことも多々ありました。

付き添い入院する方はほんとうに気を付けてと言っても、無理です。
なので「生きてればいい」という感覚です。
それが乗り切るコツなのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!