「学歴」は「学校歴」でしかないという噺
故・立川談志師匠のある枕の一節です。
(枕とは、落語の本編前に話す導入みたいなもの)
(自分は)学歴がないんじゃない、
学校歴がねえだけなんだよ。
学歴は落語学っていうちゃんとしたもんがある。
あなたがたも、主婦学でありね、やれ経営学であり、よいしょ学であり、なんかひとつもってりゃそれで良いよ。
何年か前に聞いたとき、脳みそを背負い投げされたみたいな衝撃があって、何度も動画をリピートして一字一句メモした言葉。
それを急に思い出しました。世の中に伝えたくなりました。きっかけは何だろう。
一応リンクを。上記の話は3:30あたりです。
たしかに僕らが「学歴」といっているものは、「学校歴」でしかない。でも師匠がおっしゃるように、人生において学ぶ機会はなにも学校に限ったことじゃないですよね。
学校の勉強はからっきしでも、ファッションが好きで好きで、雑誌を読み込んで必死に勉強しているなら、それもひとつの「学歴」だと思います。
人見知りを克服しようとコミュニケーションの本なんかを読んでいるのなら、それも「学歴」です。
「学校歴」だけで安易に人を比べてしまうのは、それが楽だからでしょう。
人は「比較」をすることでしか何かの価値を測れません。
たぶん世界で初めてハンバーガーを買った人は、それが高いのか安いのかなんて分からなかったでしょう。マクドナルドが世界に広がったりしてハンバーガーの価値に基準が出来たから、モスバーガーが「ちょっと贅沢」だと思ったりできる。
僕らが何かの価値を考えるとき、常にどこかで比較をしているのです。
そして「学校歴」での比較は楽です。それぞれの学校に誰かが点数をつけて、上からきれいに並べてくれているから。
頭を使う必要のないイージーな「比較」。だからこそ安易に使われてしまう。便利だけどおそろしい。
僕らが誰かを見るとき、こういう安易な比較に頼りすぎてはいけないなと、切に思います。いろんな事実を集めて、様々な指標を引っ張り出して、丁寧に人を見ていきたいものです。
ややこしいこと言いますが、僕は学歴フィルターを否定はしません。学歴も頑張った成果であって、ちゃんと評価されるべき。ただあくまでひとつの指標でしかないので、そこに偏るのは良くないなぁとは思います。
「学校歴」以外の、師匠が言うような「学歴」を履歴書に書いてもいいような会社があると面白いですよね。それでちょっとだけ良い世の中になるかも。
どうですかね。