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【短編小説】校庭の犬


朝起きたら、犬になっていた。

小麦色の、痩せた柴犬になっていた。

しばらく困惑して、いったん諦めて、その後にあることを思いつく。


「そうだ、授業中の小学校の校庭に紛れ込んでみよう」


犬になる前の僕は、地味で目立たない三十路男だった。
地味な服を着て、地味な髪型をして、地味な表情を保った。両親と歯医者さん以外に、自分の身の上について語った記憶もない。

どこかで軌道修正しようと思ってはいたけれど、「行けたら行く」くらいの薄っぺらい決心が行動に移されることなんて当然なく、気づけば30歳になっていた。

だから、犬になったのはいい機会かもしれないと思った。自分を変える得難いチャンスだ。

いや、もしかしてもう人間には戻れず、ずっと犬のままかもしれない。それでも、犬になってまで地味な人生(犬生)を送るのは嫌だ。

ここで何かを変えるんだ。

ガラスに映った犬の姿を見ながら、僕はそう思った。

そして至った考えが、「小学校の校庭に行く」というもの。

授業中の校庭に紛れ込んだ犬は、小学生たちにとってはスーパースターだ。何十人、何百人という小学生が僕に注目する。ワンと吠えれば、歓声が上がる。

そこからだ。
そこから、僕の新しい人生を始めるんだ。

そうして僕は、小麦色のむくむくした体で、近くの小学校へ向かった。



しんと静まりかえった小学校の校庭。
その真ん中で僕は尻を下ろした。

時間的には4時間目。授業を受ける子供達の横顔が窓の向こうに見える。

小さくなった僕の心臓が激しく鳴っている。犬でもドキドキするのか。

二階の窓際に座るひとりの少年が、こちらに気づく。

あっ。

少年は、僕をじっと見る。

いいぞ、さあ、クラスのみんなに教えるんだ。
「校庭に犬がいるよ!」って、叫ぶんだ。授業を切り裂くんだ。


しかし彼は動かない。黙ってこちらを見ている。
僕も、じっと彼を見る。

どうしてみんなに言わないんだ?

ゆっくりと時間が過ぎる。


彼をじっと見ていて、ふと気づく。
犬になって、視力が格段に良くなっている。

数十メートル離れた少年の表情まで、しっかりと見える。
動物ってすごいな。彼の気持ちまで見透かせてしまいそうだ。

彼の表情、彼の気持ち……
大きな黒い目、少し悲しそうな、すごく脆そうな……


……そうか、
彼は、同じだ。僕と同じ。


「校庭に犬がいる」ってみんなに言わないんじゃない。
言えないんだ。言う勇気がないんだ。

クラスメイトに変な目で見られたらどうしようとか、授業の邪魔をするなと先生に怒られたらどうしようとか、そんなことを考えて、考えすぎて、結果、現状維持を選ぶしかない。

ああ、彼は僕だ。いつかの僕だ。


そう思うと、その少年が急に愛しくなってきた。
何か、力になってあげたいと思った。

僕は、足を動かしてみる。
慣れない四本足で、懸命にステップしてみる。

そうして、校庭の真ん中でぐるぐると円を描く。

速く。ハフハフ。もっと速く。

ほら、見て!ドーナツみたいでしょ!柴犬ドーナツ!

彼の目が大きく開く。顔を窓に近づける。

そう、もっと見て。


ぼくは、犬。
君のみかた。
君のともだちだよ。


ふと男の子の表情がほころぶ。あはっ。

あっ、いい笑顔だね。
ああ、前歯が二本もないじゃないか。

僕は思わず、ワフッと声を漏らす。

嬉しい。なんだろこれ、すごい嬉しい。



目を覚ますと、人間に戻っていた。

1DKアパートのベッドの上で、天井を見ていた。なぜか涙が出ていた。

むくりと起き上がり、部屋の隅の姿鏡を見る。いつもの僕だ。

カーテンを開ける。快晴。

思い詰めていたいろんなものが消えていて、人生が軽くなった気がした。

ぼくは、ぼく。
誰かのみかたになれるし、
きっとどこかに、みかたはいる。

だからもう少し頑張ろう、と思った。


ワフッ。




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