1992年ウラジオストックの思い出(1)
ども、か~まいんです。
前回のnoteを書きながら、久しぶりにソ連のことを思い出しました。
余りにも古い話なので、記憶違いや固有名詞が思い出せないことも多いのですが、これ以上記憶が揮発する前に、覚えていることだけでも書き留めておきたいと思います。
私が旧ソ連を訪ねたのはソ連崩壊後、1992年(平成4年)の秋だったと思います。
船でウラジオストックに向かったのですが、台風の影響で海が荒れて、船員さんが船酔いで倒れるという、とんでもない旅立ちだったことを覚えています。
私は、ウラジオストックにある病院と老人ホームに相当する施設に、日本から中古の医療機器(内視鏡だったと思います)と医療物資をもって、国際交流を兼ねてロシアを訪問するという事業に参加していました。(このあたり大人の事情で表現をぼかしています。)
本当は別の方が行く予定だったのですが、諸事情で急遽参加できなくなり、ビザ等手続きの関係で、有効な旅券をもっている者の中から替わりの人員を即座に決めなければいけませんでした。
お前行くか?という問いに、二つ返事で行きます!と答え、私のソ連行きが決まりました。
当然家族には事後報告です。
この頃、両親も自分も子供の性質をよく理解して(あきらめて)くれていたようで、仕事から戻るなり、「来週からソ連に行ってくる!」という私の話に、あきらめた顔で「金はあるんか?」と答えてくれた父の姿が嬉しくもあり、申し訳なくもありました。
さておき、当時のソ連国内は物資不足で、食料品や生活用品をはじめ、行列を作らないと何一つ手に入らないと言われていました。
「行列があったらとりあえず並べ」というジョークが流行るほど、当時ソ連では深刻な物資不足に悩まされていたのですが、それに追い打ちをかけるように体制の崩壊が起こり、市民生活は混乱を極めていました。
一定の年齢の方で、ソ連崩壊のニュースとともに、レーニン像が引き倒される様子を連日TVでご覧になった方もいらっしゃると思います。
この時私は、不謹慎ながら社会主義の崩壊の現場を見ることができる、歴史が動いている瞬間にソ連を訪ねることができるという期待でいっぱいでした。
そんな期待と船酔いによるむかつきを胸いっぱいに抱いたまま、船は金閣湾にある港に到着しました。
最初の難関は入国手続きです。
いまでは考えられませんが、当時の共産圏では、管理官の気分ひとつで1日以上入国を待たされることが当たり前のようにありました。
果たしてどれくらい待つことになるのだろうか、とある程度覚悟をしていたのですが、優秀なスタッフが彼らのために賄賂を準備してくれていたので、彼らの休憩時間分だけの待ち時間で入国することができました。
彼らに賄賂として何を渡したのかこっそり聞いてみたのですが、日本のカップラーメンを箱単位で渡したとのこと。
食料不足が深刻なので、お湯だけですぐに食べられる日本のカップラーメンはとても人気が高い。自分たちが食べるだけでなく、闇市でも高値で捌けるので、現金以外の賄賂としては最適なのだそうです。
それ以外にも、たまたま手にもっていた日本の雑誌もよこせと言われて取り上げられたそうなのですが、入管のお姉さんに、次はファッション雑誌をもってくるように、と言われたそうですw
さて、入国後は現地のガイドと用意されたバスで、ウラジオストック総合病院(正確な名称ではないかもしれません。当時のウラジオストック最大の病院と教えていただいたことは覚えています)に向うことになります。
病院内にある大きなホールに、ソ連側の医療スタッフと我々の訪問団が集まり、簡単ですが医療機器の贈呈式が行われました。
病院側のスタッフは式典が終わると我々の所にかけより、実はこんな医薬材料が足りない、あんな機器も足りないと、次々に訴えてこられました。
通訳の方が色々と書き留めていらっしゃいましたが、特に印象に残っているのは、縫合用の糸がない!!どんなものでもいいから送ってほしい!と、切実に話していたドクターの姿です。
この後、病院内を見学させていただけることになり、なるべく通訳の方の近くのポジションをキープしながら院内を見て回りました。
驚いたのは医薬材料庫のあまりにも閑散とした様子です。
白いペンキ塗りの医材戸棚にはいっているのは、消耗品ではわずかなガーゼ、包帯と点滴だけ。
包帯はおそらく何度も洗って再利用しているのでしょう。所々変色しているものもありました。
点滴にいたっては、溶液の入ったガラス瓶の口をゴム膜とパラフィン紙で覆ったもので、いくら当時とはいえバイアル瓶ですらありませんでした。
また、そのガラス瓶ですが、厚みが一定ではない。
大正ガラスのような趣があるといえば聞こえは良いですが、工業製品としての精度が著しく低い。
これが共産主義国の技術水準なのか、と、知識では知っていたことを目のあたりにして、技術格差という言葉の意味を肌で理解しました。
病院の施設は古く、空調設備等もありませんでしたが、それでも院内は清潔で、衛生的な印象を受けました。
特に、煮沸など可能な限りの衛生管理はしっかり行われており、人の力で技術の遅れをカバーしている様を感じました。
この表現が適正かどうかわかりませんが、この時私は、ベレンコ中尉のミグを解体したとき、基盤を繋ぐ銅線の長さでエンジン噴射のタイミングを調整していたという話に通じるものを感じていました。
次にバスで移動した先は、残念ながら老人ホームとしか記憶にありません。
正確な位置や、施設名等の説明は受けなかったと思います。
さて、少しばかり長くなってきました。
続きはまたの機会とさせていただきますね。
※写真は旧ソ連時代のルーブル紙幣です。
写っている中で一番新しい5ルーブル紙幣が1991年(ソ連崩壊年)発行のものです。
これだけ印刷がずれていますが、エラー紙幣がそのまま流通してることも当時のソ連の様子を表していて面白いですね。