人波というグラデーションについて
僕は所属する界隈が多い。
仕事のつながり。
音楽のつながり。
オンラインサロンのつながり。
学生時代のつながり。
社会人になってからのつながり。
いろんなつながりがある。
全てが相乗効果でつながり、様々な出会いが生まれると感じる反面、あまり意味を感じない時間もある。
そう思いたくないと思いつつ、自分がそう思ってしまうことに嫌だなとも感じる。
人はグラデーションだとよく言う。
今日もこんなことをツイートした。
みんな居場所が欲しいのかなと最近よく思う。
仕事仲間でも、趣味の仲間でも、SNSでもポジショニングがとても大事にされる。
それ自体は悪いことじゃない。
その人が輝ける場所で輝くことはすばらしい。
みんな、自分に適した居場所があると思っている。
僕もそう思っている。
僕が生きやすい場所があるはずだ。
そう思うからこそ仕事を頑張れる。
先日、ある集まりでとても独りよがりだなと感じる方がいた。
その方は自分の話をすごく長くしていた。
周りにいる人も聞いてたり聞いてなかったりだったと思う。
話の中心が変わる度にその中心になった人に必ず質問をぶつけていた。
そこから自分の話にすり替える。
すごく整った話し方だった。
でもよくよく話を聞いているとその人は自分の話しかしていなかった。
これは良し悪しの話ではないと思う。
僕の好みの問題。
それを見て僕は不快だった。
なんでその人はそんな振る舞いをするのか考えた。
話の中で、その人はコンプレックスの話を多くしていた。
「こう言われて嫌で、黙ってしまった。」
「こういうことをされて、なにもできなくなった。」
他責なところが多いんだなと思った。
他責というのは結局自己防衛だと思う。
自分ではなく外に責任を求めることで自分を守る。
ただこれは長期的にみると自分の足場を自分で崩す行為だと思う。
周りはそれに気づかないほど馬鹿じゃない。
その人は他責を続けてきたから、今も居場所がないんだろうなと思った。
だから自分の話をして相手に認識させようとする。
帰りの電車の中でそんなことを考えていた。
たぶんその方は同世代だと思う。
僕はどうなんだろう。
フリーになってから確実に自分の話をする機会が増えた。
実績だったり、スキルだったり、経験だったり。
営業というやつだろう。
相手に自分を認知してもらうこと。
そこにお金も発生する。
そんな時は僕も必死に自分の話をして、相手の中に自分のポジションを作ろうとしているのだろう。
やっぱり僕も独りよがりなのかもな。と思った。
自分を責める必要もないし、他人を責める必要もない。
もちろん居場所は大事だ。
僕も欲しい。
でもそれは求めるものではないのかなって思う。
「置かれた場所で咲きなさい」
そんな本が流行った時期もあった。
この本を読んだときに意図は理解できたが共感はできなかった。
今はどうか。
相変わらず置かれた場所で咲けるほど人間はできていない。
1つだけ。1つだけ変わった点が思い浮かんだ。
居場所は変わっていいと思えるようになったこと。
必死にポジションをとってもそれは不変じゃない。
そう見えるだけ。
本来、変わらず大事にすべきは自分の軸だ。
ブレない軸。
場所じゃない。
大事なのは内側の話なんだと思う。
置かれた場所で咲くというのは場所のことではなく、
自分をどこに置くか自分で決めるという意味なのではないだろうか。
誰かに嫌われるとか、気に入られるとか。
この中で一番とか。
そういうことではなく、
自分がこうありたいと思う方向に向かって歩くこと。
その途中に居心地の良い場所に出会う。
そういうことなのではないだろうか。
人波はグラデーション。
東京という街を歩いているとそのグラデーションの色の激しさに目が回りそうになる。
だから自分をしっかり持とうと思った。
速度は重要じゃない。
ブレない明日を迎えられるように今日はもう休もう。
無理せずで。