某曲のラスサビサイリウム企画は何がまずいのか
あえて引用はしないが、今朝、蓮2ndで披露されるであろう某曲(万が一にも関係者のパブサに引っかかったら嫌なので曲名は伏せる)でのサイリウム企画を見かけて、久々にかなり腹が立った。
Twitterを見た感じそれなりに炎上してはいるようだが、散見される「色を変えたことで企画に賛同したことになる」「演出が成功した手柄が企画者のものになってしまう」といった意見は核心をついていないような気がする(その不快感自体は十分理解できるが)。
では、その核心とはなんなのか?自分なりに迫ってみようと思う。
まず、よく知らない人向けの前提知識として、この企画で促されている演出は、作中のライブシーンと同じものである。それも、初年度の集大成となるライブで初めて披露された、大切な先輩を送り出すために書き下ろされた曲という、非常に印象的なシーンでの演出だった。
きっとあのシーンを目にしたほとんどの人が、この演出を現実世界のライブでも再現したい、と考えたはずだ。言ってしまえば、作中であの演出が提示された時点で、「企画」は立ち上がったも同然だったように思う。
しかしそれは、もちろん明文化されない。あくまでも暗黙の了解のもとで、皆がひとりの小さくも偉大な先輩のことを想い、作中の演出が現実世界で再現されることにこそ、美しさがあるはずだった。作中であの演出を企画するにあたって、現実世界での再現まで意図されていたとしても、なんら不思議はない(考えすぎかもしれないが)。
そんな中で、「みんなでこれやろうぜ!」と吹いて回れば、誹りを受けて当然ではないだろうか。そこに企画者のエゴイズムが介在していようがいなかろうが、ここでは関係ない(これが通常のサイリウム企画とは根本的に異なる点)。今まさに生まれようとしていた、バーチャルと現実世界の目に見えない強い結びつきと、それによる彼女への、緑の光による愛情表現を、わざわざ明文化して喧伝するような行為は、無粋というほかない。
配信とストーリーの関係性然り、このコンテンツは風流に満ちている。そんなところが気に入って追いかけている側面も大いにある反面、風流を解さない、野暮な参加者が非常に目障りになってしまうのが難しいところである。
改めて自分の考えを整理してみると、これはこれで独善的な解釈だといわれても仕方ないかもしれない。ただ少なくとも、この企画に反感を持った人たちは、冒頭に記した「手柄の横取り」的な不快感の根底で、きっと同じようなことを考えてくれているのではないか、と願う。
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