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【4日目】サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼ポルトガルの道 Marinhas→Viana do Castelo あなたの心お届けします

おことわり
2023年の5月に巡礼路を歩いた記録を1年後に同日付でアップしています。当時の記録に加筆して旅を振り返ります。


2023/05/21(日)

早起き? 成り行き?

タイトル「アンタたち巡礼者には何も見えてないんだね」
SIGMA dp3 Quattro ƒ/2.8 1/100 50 mm ISO 400

5:20
起床、6時出発。早起きは苦痛ではない。すこし肌寒いがやがて暖かくなるだろう。
だいたい50代という年齢からも早起き傾向なのだが、それを差し引いても、宿では疲れた体を横たえるだけで、遅くまで起きている理由もないので必然、早起きになる。

宿のゲートを出て歩き始める
前をゆく巡礼者につづく
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400

海岸コースをたどってきた巡礼の道は、ここでしばし内陸にその行く先を向けた。
6:00 Marinhas→7:00 Belinho→8:40Castelo do Neiva→10:40Anha。
集落と集落を山道が結びまた違った雰囲気を見せてくれる。行程にして22km。

愛用していた英語で書かれたガイドブック
Capela de São João do Monte
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 400
SIGMA dp3 Quattro ƒ/11 1/200 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/6.3 1/200 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/100 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/8 1/80 50 mm ISO 100

質素な食事

休むほどでもないが、食事を取るのに適当な場所がなく、歩きながらの食事。チーズとしょっぱい生ハムのサンドイッチをほおばった。先を急いでいるわけでも無いのだが、体は前に動きたがっている。そして今日はナシをかじってみる。だんだん質素になっていく食事のなかでデザートが加わり贅沢な気持ちさえした。

スーパーでバラ売りしているナシ
まだ朝日が眩しい
SIGMA dp3 Quattro ƒ/16 1/60 50 mm ISO 100
滝と石橋
SIGMA dp3 Quattro ƒ/4.5 1/60 50 mm ISO 100
集落と山道の繰り返し
SIGMA SIGMA dp3 Quattro ƒ/5 1/160 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5 1/160 50 mm ISO 100
矢印がさり気なく道を知らせる
SIGMA dp3 Quattro ƒ/11 1/100 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/14 1/100 50 mm ISO 100

賛美歌が響く日曜日

大西洋を望む高台の村々を北上してきた。日曜日なので教会ではミサをやっている。カステロ・ド・ネイバCastelo do Neivaの教会では自動車が60台以上も停まっていて、正直な話こんなにもたくさん人が集まるのかと驚いた。山道を歩いたせいで人の気配を感じずに来たせいもあるが、わんさか人がやってきていて、なんとも活気を感じた。

アーニャAnhaの村に入る
イエズス会のマークが見えるアーニャ教区教会
Igreja Matriz da Paróquia de São Tiago de Vila Nova de Anha
老若男女問わず後ろの席までいっぱい

Anhaアーニャの町でミサを覗いてみる。後ろの席までいっぱいだ。若者も子供もいたりする。自分も一部見学させてもらった。みんな身なりを整えて、オシャレして来ているのがわかる。飽きた子供が外に出てきちゃったり、それにお父さんが付き合わされていたりするのも微笑ましい。

SIGMA dp3 Quattro ƒ/10 1/250 50 mm ISO 100

中世以降、西ヨーロッパは世俗権力の影響力がローマ教皇のそれを上回るようになってきた。十八世紀、啓蒙思想の伝播で、人々の思考基準が宗教から自然科学に移ってきたことで、カトリックの力は先細る。その傾向は更に強まり、ナポレオンによる近代化がトドメを指した。
 そんな聞きかじりの知識だけで歩いて来た僕はアーニャの教会でビンタを張られた気分だった。
「ポルトガルの教会、集客力ある」
 自分が見ている教会をあらためて考えてみる。小さな村の隅々まで、小教区があり、教会やチャペルがあったりする。それ以前のカトリックに力があった頃に出来上がった構造やハードウェアが今も形をとどめている。教会を媒介とした人の顔の見える人間社会のユニットみたいなものは、案外強固なものなのかもしれない。いやむしろ、そっちのほうが本質で、どんな形態の社会であってもコミュニティそのものが持つ良さが下支えしていると考えるほうが自然なのか。
 そういや、巡礼にしてもそうだ。本来なら信仰心、魂の救済、罪の贖いであろうものが、今は非キリスト者も参加するカジュアルなものになっている。それでも続く巡礼という行為。そのへんになにか良いヒントがありそうだ。

SIGMA dp3 Quattro ƒ/10 1/250 50 mm ISO 100

あなたの思い、お届けします

アーニャAnhaから歩き、山道を出ると川向うにヴィアナ・ド・カステロViana do Casteloの町が見えてきた。山の頂にはサンタ・ルシア教会が乗っていて、今回の旅の中でも屈指の景色を演出している。

標識、道路、ヴィアナ・ド・カステロ
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/400 50 mm ISO 100

二階の窓から道を見下ろす御婦人に挨拶をすると、巡礼者と見てオレンジをくれた。

テレーザさんのハートマーク
SIGMA dp3 Quattro ƒ/5.6 1/80 50 mm ISO 100

リマ川に架かる橋にほど近い街道沿いに住むテレーザさん。孫がサンティアゴにいるそうだ。
僕が「会ってきます」と言ったら、冗談と取られず、即答でノーと言われた。瞬発力ある。
「テレーザさんのコラソン(ハート)と共に行ってきます」と言って別れた。テレーザさんオレンジをありがとうございます。たいへん甘かったことを付け加えておきます。

テレーザさんにもらったオレンジ

12:00
リマ川を渡る。橋の歩道が狭くて結構怖い。

対岸の山の頂にはサンタ・ルシア教会
SIGMA dp3 Quattro ƒ/11 1/200 50 mm ISO 100
砂地に釣人
SIGMA dp3 Quattro ƒ/11 1/250 50 mm ISO 100
SIGMA dp3 Quattro ƒ/11 1/100 50 mm ISO 100

ヴィアナ・ド・カステロViana do Casteloには予定よりも早く着いたので、公園でハムチーズサンドイッチを頬張って時間を潰す。

エッフェル橋。
パリのエッフェル塔に名を残すあの有名なギュスターヴ・エッフェルの設計による鉄路自働車兼用の二層橋。
SIGMA dp3 Quattro ƒ/13 1/160 50 mm ISO 100
公園で昼食


巡礼宿では既に先着者たちが列をなす

来訪者をさばく部屋守の饒舌がはやくも巡礼者を五年来の知己にした

Albergue S. João da Cruz dos Caminhos
巡礼宿につくと、6組ほどの先客。レセプションが開くまでに旅人たちを飽きさせないようにと部屋守りのおじさんが語りかける。
「見上げてみてください、この建物は・・」と口上が始まる。
公式サイトには「このアルベルゲはただの地元の宿泊施設ではありません。寝泊まりの場所ではありますが、営利目的ではなく、巡礼者または宗教的な活動に限定されています。(中略)サンティアゴ/ファティマ巡礼者の信任状と身分証明書をお持ちの方はご利用いただけます。」と書いてある。

本来14時のところを13:30から受付が始まった。カウンターで一人ずつ登録と寄付金の支払いをしていき、部屋守りがやはり一人ずつ案内していくスタイルだった。部屋守りはその間も行列の巡礼者を楽しませようと一言二言かけて、案内を繰り返した。

僕の番が来て部屋に案内してもらうが、長い通路と部屋数の多さで迷いそうである。もとが修道院の宿なので作りが良い。ベッドも個人用で、配置も余裕がある。

長い長い通路。迷いそう。
二段ベッドじゃない。しかも個別の収納棚。
部屋についたらシーツを掛ける。サバナという言葉がなぜか覚えられない。

荷物を置いて、ベッドメイクをし、洗濯をしてから外に出た。

夕方、宿坊と同敷地内のノッサ・セニョーラ・ド・カルモ教会Igreja de Nossa Senhora do Carmoでは巡礼者向けのミサが執り行われる。それまで街を一回り散歩した。

エッフェル橋の下
SIGMA dp3 Quattro ƒ/16 1/100 50 mm ISO 100

カラベル船を抱える小粋なヴィアナ像

ヴィアナ像 Estátua de Viana
SIGMA dp3 Quattro ƒ/10 1/200 50 mm ISO 100

何気なく見ていたものも意味を探ると面白い。
港の公園に立つ女王ヴィアナの像。海洋都市ヴィアナを象徴するものとして、1774年に当時の政治家、ボバデラ伯爵の命で作られた。時期的には海洋貿易も衰退期だったが、誇りを表しているのだろう。日本では江戸時代だ。
 解説によると左手にカラベル船、右手には王権を象徴する笏を持つとある。でもこの像、笏杖を持ってないんじゃないかな?
 四隅の胸像がヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四つの大陸を意味し、かつてヴィアナの船乗りが世界の隅々に出かけていたことを象徴しているという。大航海時代を称えるスケールの大きい話だ。ポルトガル人は当然日本にも来ていた。ザビエルの最初の訪問はこの像が作られるさらに200年以上前だ。

SIGMA dp3 Quattro ƒ/13 1/125 50 mm ISO 100

日曜日の食料難民

日曜で店はやっていない。レセプションでアメリカ人のアリソンがどこかやっていないか? と尋ねているのに出くわし、僕も話に加わる。レセプションの年配女性は夜にならないと営業しないと教えてくれた。やはり日曜なので選択肢はないようだ。

SIGMA dp3 Quattro ƒ/13 1/160 50 mm ISO 100

早めの食事をして、早く寝るというスタイルが出来つつあったが、食事のできるレストランは19:00からだ。予定を変えて、明朝ゆっくり出ることにした。そう決めてしまうと気が楽になった。のんびり楽しむことも旅の目的であるはずだ。

オランダ人卓で食事を囲む。大勢で食べたほうが食事はおいしい。

レストランに出かける。アデガ・ド・パドリーニョAdega do Padrinho。
店名を機械翻訳にかけると"ゴッドファーザーズ・ワイナリー"とものものしい感じになった。実際は”オヤジの酒蔵”くらいの意味だろう。
店先のテーブルに一人腰掛けたところ、中から同宿のイボンヌとメフメトがいて食卓に招いてくれた。宿の受付け待ちのときに僕の前に並んでいた自転車旅の二人だ。もうひとり年配のシルビアさんはキャンプカーひとり旅。オランダ人どうしで、卓を囲もうとなったところに僕も居たので、入れてもらった形だ。
イボンヌが言うには、自転車はアスファルトの街道を長く走るので、あんまりおすすめできないそうだ。シルビアさんはキャンプカーで街に滞在中。そう言えば、街の入口でキャンピングカーサイトがあって、ちょうどそういう旅もあるのだなと思っていたところだった。
しかし、こうも訳ありそうな人たちばかりに囲まれると、悔しいので、自分もヒモであると嘯いておいた。
豚の脂身揚げミーニョ風(Rojões à minhota)を食べる。豚肉がゴロリとしている。

町の名前の由来

「お城のアナを見た」

むかしむかし、城に住んでいたアナという恥ずかしがり屋の姫が、対岸の男と恋に落ちた。男の方は窓に彼女を見つける度に、
「Vi(見た)+Ana(アナ)+do(の)+Castelo(城)」
と繰り返すものだから​人々はその場所を「ヴィアナ・ド・カステロ」と呼ぶようになった。

という伝説があるそうだ。

フィリグラーナのなぞ

フィリグラーナの代表的なデザインとしてよく見られるヴィアナのハート

もう一つ、伝説と同じように語られていて、こちらは多分事実という話。
ポルトガル旅行をした人なら、フィリグラーナという伝統工芸を目にしたことがあるはずだ。その代表的なデザインにコラソン・デ・ヴィアナCoração de Vianaがある。

コラソン・デ・ヴィアナ
繊細で上品なジュエリーだが、値段もお手頃で小品であれば50€未満、200€も出せばちゃんとしたものも買える。なので、プレゼントやお土産にも人気がある。

コラソン・デ・ヴィアナというくらいだからここが名産で、上記の伝説と関係あるのだろうくらいに思っていたが、違った。時代も新しくて、18世紀末のこと。西洋史的にはナポレオンの時代、日本では江戸時代末だ。

Portrait of Maria I of Portugal (1734-1816)
マリア1世

このジュエリー、ポルトガル女王マリア1世(1734-1816)が息子の誕生を記念して、作らせたというのが定説となっている。王室由来という出自の良いデザインだ。ヴィアナのハートという名前からして、前述の街の名の由来とも相まってコケティッシュでキュートな愛の証しみたいなものかと思っているとこれもまた違った。

キリスト御本人登場

その謂れを知るには、まずは女王の立場や置かれていた時代を考えて見る必要があるようだ。まず、このハートとはキリストのハート、キリストの心臓である。日本語では「聖心」と訳される。磔刑に処され、傷ついてなお光を放つこの心臓のイメージは11世紀ころに発生して、ヨーロッパに広まった。逆に言うとキリスト教初期1000年はこの発想はなかったとも言える。

キリストが現れたエピソード

ここでマリア1世とは別の人の話をするが、今ひとつお付き合い願いたい。

カトリックには11世紀頃から、聖心の考えが現れ根付いてきたが、それを決定づけたのは17世紀のフランスの修道女、マルグリット・マリー・アラコクに起こった出来事であった。
彼女が幻視したイエスによって、聖心への信仰が奨励され、金曜の聖体拝領などの儀式としてカトリックに取り入れられている。

出来事はこうであった。
1671年12月のある夜半、枕元にイエスが現れた。イエスは自分の心臓に彼女の頭をもたせかけ

「俺の心臓。分かるだろ? この愛」

と言うのである。そして、

「全人類のため、この愛を知らせてくれるよね? そのためにキミを選んだんだよ」

という。
イエスによる、信者の一本釣り。その後、マルグリットは人に相談しながらも、イエスのメッセージを伝える活動に邁進する。その要諦は「聖心を敬え」ということであった。
のぼせ上がったマルグリットが「イエス様が現れてね、こんなことしてくれたのよ」と言ってもなかなか受け入れてもらえなかった。しまいには自分の正しさを示そうと、胸をはだけ心臓の上にナイフでイエスの名を刻み、流れた血で遺言状に署名することまでしている。

ところで、これはキリストが少しずるいだろう。ファンの女の子の前に現れて、胸に抱きとめて、「やってくれるね?」と迫る。彼女は死の間際まで「天にあるもの、地上で望むものは、おお、わが神よ、あなただけです」と繰り返し、最後はイエスの名を唱えながら死んだと言われている。

Catholic holy card depicting the Sacred Heart of Jesus, circa 1880. Auguste Martin collection, University of Dayton Libraries.

思えば、傷つく心臓からあふれる愛の炎というイメージはキリストの受難を表現するにはピッタリのサイズ感でシンボルとしても人に意味を伝えやすいだろう。"聖心"はこうしてその図案を固定化していき、ポルトガルのある女王の記憶にも留められることになった。

話は19世紀のポルトガルに戻る。

ハートの理由

1761年、女王マリア1世は長男ジョゼ誕生の際に、信仰心からフィリグラーナ(金線細工)でこの文様を作ることを思い立った。ニックネームに「敬虔女王」”Dona Maria a Piedosa” と呼ばれるほどに信仰心の熱い人だったようだ。

ところでこのフィリグラーナ自体はポルトガルに限ったものではない。古い歴史があり、紀元前に中東で生まれ、イベリア半島にも伝わっていたものだ。ハートのデザインもひょっとしたら既にあったのかもしれない。

ともかく、マリア1世の注文のせいもあり、ようやく世に形をなしたのがキリストのハート。聖心のフィリグラーナ。

ハートという割には縦長なのは、いま述べたように、聖心を描いた絵画をもとにデザインされているからだろう。磔刑の際に傷つけられたキリストの心臓、その上に炎を象徴する王冠が載っている。

なぜヴィアナなのか?

さて、コラソンの理由がわかったところで、ではなぜ、"デ・ヴィアナ"なのか? それにはもうひとりの女王の登場を待つことになる。D.マリア2世(1819~1853年) 。彼女の治世にコラソンのデザインは爆発的な人気を獲得した。女王マリア2世が1852年にヴィアナ・ド・カステロを訪問し、その際にコラソンのイヤリングを身に着けており、これが貴族のご婦人方の憧れとなり、ここで初めてコラソンとヴィアナが結びついた。ということらしい。
https://filigranapt.pt/articles/portugalskaya-filigran/Coracao-de-viana/

調べてもみても、多くの記述で「なぜヴィアナなのか」という部分が曖昧であった。ここまで調べても通説ではという前置きは外せないと思う。

それでもまとめてみると、マリア1世が息子の誕生を記念してフィリグラーナを作らせた。意匠は聖心(キリストの心臓)。人気のデザインとなり、マリア2世が身につけてヴィアナ・ド・カステロを訪問したため、土地の名、ヴィアナが名称としてセットになった。

理解の手助けになったろうか。

ここからは蛇足となる。
このマリア1世はさきほど”a Piedosa”「敬虔女王」と紹介した。しかし、ブラジルでは彼女に別のあだ名があり、狂女マリア(Dona Maria, a Louca)
という。

不名誉極まりないこのあだ名は彼女が後半生を極度の精神疾患を患っていたためにつけられたものだ。

彼女の人生を調べてみると、王室に生まれる辛さとポルトガルの近現代の転換点を垣間見ることになる。彼女は26才のときに、16才年上の父の弟と結婚をする。そしてポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国女王となった。
 6人の子を授かるが、1777年の即位後、短期間のうちに母、夫、3人の子を相次いで失う。さらに、ナポレオンがポルトガルに攻め込んでくるのに備え、王室がブラジルに移転するという一大事が起きる。この頃のポルトガルと言えば、大航海時代の栄光は既に昔のことで、海軍国イギリスの影響下にあった。ナポレオン憎しでイギリスは頼れる関係ではあった。ブラジルに王室ごと移住し、彼女は後年発狂し、リオ・デ・ジャネイロで崩御している。

時代のど真ん中で、自分ではどうすることもできないのに、女王として大きな責任をそのハートに託されていた姿が想像できやしまいか。

キリストの心臓が献身の象徴であるのと同様に、彼女自身の献身をなぞらえて見てしまうのはこじつけに過ぎるだろうか。

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