【🇹🇼クウェート大学留学#8】始まる!
今日も暑いです。
前回
9月24日
ヤウムルアハド。週で第一の日、すなわち日曜。
クウェートでは、学校や会社は日曜から始まる。
今日は主日礼拝の日でもある。
教会の週もまた、日曜から始まる。クウェートにいるクリスチャンは、いつどのように礼拝をするのだろうか?
今度リサーチに行こうと思う。
朝から靴がない。
しばらくして、靴箱に入れられているのを見つけた。
私が勝手に「ラウンジ」と名付けた空間からも、小汚い木製の机が撤去されていた。
無秩序状態の寮に秩序が生まれようとしている。新時代の始まりを感じる。
初級クラスも上級クラスも、寮のあるシュエイフキャンパスで授業を受けることになる。
寮から教室まではおよそ徒歩10分の距離。
授業開始は8時30分なので、8時に出れば余裕を持って間に合う。
ただ、外は朝から30℃越え。たかが10分の通学とは言え、なかなか大変だ。
途中でマレーシアの2人組と出会った。
2人とも非常に勉強熱心。本来は上級クラスだが、初級も聴講するという。
マレーシアのムハンマド(この名前はムスリムにとって最もポピュラー。私の電話帳には既に4人のムハンマドがいる!)は日本語が堪能。
「サブウェイはホットドッグじゃないよ。
サンドイッチの店だよ。」
と流暢な日本語で言われたことがある。
留学して驚かされるのは、複数の言語を当たり前のように使いこなす人が非常に多いということだ。
一般的に、日本の教育は文法やリーディング偏重だと言われる。英語にせよ他の言語にせよ。
そのため、全体的に他の国に比べてスピーキングやリスニング能力で劣りがちである。
私も例外では無い。
授業は簡単な自己紹介から始まった。
クラスは20人ほど。
30分もしないうちに授業は打ち切られてしまった。
教科書を購入について購買の本屋と話し合うため、全員で外に出ることになった。
もともと、教師が全員分のテキストを購入し、学生が教師に費用を支払う方式でやると聞いていた。
しかし、だれかが
「今から買いに行けないものか?」
と聞きいたところ、出かけることになった。
15分ほど歩く。
本屋で働く友人を見かけた。私は少々驚かされた。
「マクタバで働いているんだ。」
友人はそう言っていた。それを聞き、私は図書館で働いているものだと勘違いしていた。
しかし、アラビア語の「マクタバ」には図書館という意味の他、書店や文房具店の意味もあるということを知った。(そのため、この友人はしばしば本屋を刺して「ライブラリー」と言い間違えるとのことだ。)
結局、教科書を買うことはできなかった。
(追記:結局第一週は教科書が配布されなかった!!)
交渉すれば何かを始めてもらうことはできる。
しかし、実りある結果が生まれるとは限らない。
それがクウェートの面白いところだ。
教室に戻り、授業を再開する。
文法や役にたつ言い回しなどを習った。正直、先週までに比べてかなり易しい。
ただ、他国からの学生でアルファベットすら覚えていない者がいた。
教師は困惑しているようだった。イブラーヒーム教授は言った。
「ここはレベル1クラスかもしれないが、レベル0ではない。走る必要はないが、歩くクラスではあるのだ。」
しかし、彼女は言い返した。
「みなさんに追いつくために、私は飛んでみせます。」
「確かに、時として飛ぶことは必要かもしれない。……しかし、ここの空は飛ぶにはいささか暑過ぎる。
君は明日から30分早く来なさい。私がアルファベットから教えよう。」
ウィットに富んだ会話だなぁと思う。
また熱意さえあれば、新しくクラスを始めてもらえる点も、アラブ圏のフレキシブルさを表していると思う。
帰り際、台湾からの学生と話した。
彼も日本語に堪能で、日本語と英語を混ぜて話をした。
彼は台湾諸語の現状に危機感を抱いているようだった。
現状では、中国語以外の言語が、公的な場面でも、教育の場面でもワイプアウトされている。
彼はそう語った。
「教育はゴミ」
という言葉が印象的だった。
これらの言葉は独自の文字を持たない。そのためローマ字を使って表記する。
とは言え、これらの言葉は話されることによって守り継がれる。
彼のお婆さんが話す言語は中国語より「トーン」が多く、彼は上手く話せないという。
お風呂場のことは、日本語からの借用語を使い「ふろげん」というらしい。「ふろげん」という言葉も、このままでは無くなってしまうかもしれない。
言葉の継承という問題は、台湾だけの問題では無いように思う。
たしかに、「日本語」を学ぶ人は世界中にいる。クウェートでも何人も出会った。
しかし、豊かな方言の文化はそうではない。私も、祖父母の話す方言を十分に理解できないし、話すことも難しい。
その点、私はアラビア語とイスラーム教徒の歴史に敬意を払っている。
預言者ムハンマドの時代のアラビア語を「フスハー」として懸命に守り続けてきたからだ。
アラビア語文法学や辞書の歴史は1000年を超えるものだ。
また、私たちが懸命にフスハーを勉強しているのは、その営みに参加しているということでもある。
もっとも、その代償として異常に難しい文法や暗記事項に苦しめられることになっているのだが。
さて、日記は既に8回目を迎えた。
一週間分書き切ったことになる。
そろそろみなさんは、私の日記の「構成」にお気づきではないかと思う。
タイトルやその日の出来事の中に「伏線」を仕込み、最後にそのキーワードに関連する「教訓」をまとめるのだ。
書き方にはコツがある。
寝る前に、その日で最も象徴的だった経験を思い出す。その後、経験を抽象化する。抽象化したキーワードをもとにその日の出来事を語り直し、最後にオチをつけるのだ。
今日のキーワードは「始める」。
しかしどういうわけか、全くオチが思い浮かばない。非常に苦しい。
もっとも、私はただの学生である。毎日毎日オチのある文章を書けるわけがない。
というわけで、これからはオチがなくても日記を投稿しようと思う。
今日をもって新しいスタイルの「始まり」とする。
お後がよろしいようで。