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お金を「手段」ではなく「目的」にしてもいい。むしろした方がいい。
「お金は目的ではなく手段だ」
そんな言葉は世の中にあふれかえっている。この言葉の意味するところは、「人間が作り出した概念であるお金に囚われてはならない。お金に囚われると大切なモノを見失う」そんなことなのだと思う。
私も以前の記事で自分に言い聞かせるようにこの言葉を使ったことがある。
「お金は目的ではなく手段だ」
この言葉を記事に書きながら頭のどこかで違和感を感じていた。
お金を目的にしなければお金は増えない
改めて考えてみると、別にお金が目的であっても大いに結構だと思う。私自身を振り返ると資産形成を始めてから6~7年ぐらいは完全にお金が目的だった。
というかお金を目的にしなければお金なんて増えるはずがない。世の中には3つの資本があると言われている。「人的資本」という自分が稼ぐ力、「金融資本」というお金、「社会資本」という家族や友人とのつながり。
「人生の時間は有限で、あちらを立てればこちらが立たないというトレードオフの関係なので、これら3つの資本を全て完全に育てることは難しい」と気づかせてくれたのは作家の橘玲さんだ。
※人生戦略を考えるうえでの名著なので未読の方は是非手に取ってほしい。
もう少し分かりやすく説明すると、時間は全人類に1日24時間を平等に与えられている。多くの人は会社員なので平日1日の内、睡眠8時間、仕事8時間、ご飯やお風呂などで2時間、通勤の往復や仕事の準備で2時間かかるとする。
8時間+8時間+2時間+2時間=20時間となる。そう考えると平日1日に使える自由時間は4時間となる。
この4時間をどう配分するのか?例えば人的資本を高める場合は残業やリスキリングをする。金融資本を高める場合は投資の勉強をしたりする。社会資本を高める場合は家族や友人とご飯に行ったりする。
4時間でこれらすべてをするのは不可能なので、何かを選んで何かを捨てるというトレードオフを常にし続けることになる。
そう考えると「お金は目的ではなく手段だ」という言葉は正論ではあるがズレていることが分かる。たぶんこれはお金を既に増やした人たちが吹聴している言葉だ。
結局お金はどれだけ増やしても不安は無くならないし、人が作り出した概念である以上、本質的な幸福をお金からは引き出せない。それに気づいた人たちが「やっぱりお金は目的ではなく手段だよね」と言ったのではないか。
私はお金を増やす段階ではお金について手段とか目的とか正直どうでもよかった。そんなことは些細な問題で意識していたのはどれだけ毎月お金を投資に回せるか、それだけだった。
違和感の正体は自分がゴミ情報を発信していること
だから世の中にあふれるここまで書いた「お金についての手段や目的」についてや、「FIREは後悔する」とか「若いうちには体験にお金を使うべき」とか「老後にお金を送っても意味がないとか」…。(ああ…書き始めたらキリがない)
こんな情報当時の私にとって正直ゴミでしかなかった。というか生ごみの方が畑の肥料になるのでまだ価値があった。
※これは主にニュース記事などについてです。この頃noteの存在すら知らなかったので、個人のクリエイターさんに向けてではありません。個人が何を発信しようが自由ですし。
私が感じた違和感は自分が過去にゴミと断罪した情報を自分が書いていることだったのだ。ここでゴミについて少し整理してみよう。
今回であれば資産形成をする過程で私が知り得なかったこと(「お金は目的ではなく手段だ」ということ)をある程度資産形成が完了してから、さも当然のように情報発信することだ。
この情報は今になって少しだけわかるが過去の私にはわからなかった。それにその情報は資産形成中の私にはゴミでしかなかったという点だ。
安全な場所から正論を言う人たち
そのように考えてみると世の中にはこんな情報が溢れかえっている。よくニュース記事や本などで元外資系金融マンやファンドマネージャーといった、社会的に成功している人たちがこんなことを言う。
「これからの投資は社会課題を解決できるようなことに投資をするべきです。投資とは社会課題を解決するための手段です。」
私は頭がおかしいのではないかと思う。いや、言っていることはまっとうなのだ。私も共感できる部分はある。一方でこんなことを思うのだ。
「あなたたち過去にそんなこと思ってなかったでしょ?というかむしろ全く逆の行動してきたでしょ?もっと言えばお金があるから言えることでしょ、それ。お金がなかった20代の時にそんなこと言えた?」
自分は安全なところに立ってから、もっともらしい情報を発信する人間が世の中には多くいる。私はそのやり口が非常に汚いと思うし、そんな情報を発信した自分自身に対しても嫌気がさした。
これは書き始めたらキリが無くて「FIRE」で検索すると私の好きな山崎元さんとホリエモンの対談記事が出てくる。
少しだけ抜粋。
ホリエモン「人はつまらない仕事をするために生まれてきたのではない。辛い労働に耐えるために生まれてきたのでもない。幸せな生き方とは「早期リタイアなんて御免だ!」と言える生き方だ。」
山崎さん「慎ましい暮らしをすることの喩えで「爪に火をともす」という言葉がある。FIREを目指すために、爪に火(FIRE)を灯すような生活をすると、人間としてつまらなく、そして小さくまとまってしまう危険性が大いにあるのではないか。」
言っていることはすごく分かるし正論だ。一方で私はゆがんだ価値観をしているのでこんなことを思う。
「あなたたちは良いよね。恵まれた知能があって行動する勇気があって社会的にもお金にも恵まれて。例えばあなたたちのIQが平均以下だったら同じこと言えた?」
結局彼らの理論は社会的な強者だからこそ言えるのだ。世の中には頑張っても頑張っても組織に馴染めない人がいるし、転職したくても行動する勇気がない人もいるし、働くこと自体が本当にイヤな人だっている。そんな人たちがFIREに希望を持ってもいいではないか。
それを自分たちは安全に地固めした上で「違うよね~」というのは自分の運を棚に上げ過ぎではないのか?遺伝的な要素を無視しすぎているのではないか?
安全な場所からもっともらしいことを言うのはさぞかし気持ちいいでしょうね。
※こんなことを書きながらも私山崎さん尊敬しています。ただFIREに対する考えだけは私とは違うなーと思っています。
今インフルエンザで頭が沸騰中なのです
ここまで書いてみて何とも攻撃的な記事だ。四方八方に噛みついている狂犬だ。今日はなぜこんなことになっているかというと、今インフルエンザ療養中なのです。
無職で病院に行く必要はないのでたぶんですがインフルエンザなのです。妻も高熱にうなされているので恐らく間違いなしです。
ここ数日39度近い熱にうなされておりまして意識がもうろうとしているのです。無職で早く治す必要はないので少し実験してみたくなったのです。
頭が熱で沸騰しているときに記事を書いたらどうなるんだろう?
結論。攻撃的になる🤣
余りにも攻撃的になったので今日はおとなしく療養いたします。駄文失礼いたしました!
この記事は自分自身に対する戒めですね。安全な場所から綺麗ごとを発信したところで何も面白くないですしね。それにそもそも私は安全な場所にいませんしね!これからは気を付けます!
(ああ…いちご食べたい。)
おしまい!
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