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みんなが正しいと言うことは、大抵間違っている。あなたと私の正解は違う。
「それってほんとう?」
人から「こうした方がいいよ。これはやめた方がいいよ。」と言われると、頭の中にこんな言葉がこだまする。
「それって、ほんとう?」
投資を始めたときもそうだった
投資を始めたときなんかもそうだった。私は9年前、26歳の時に投資を始めたのだが、当時私の周りに投資をしている人なんておらず、会社の上司からこんなことを言われた。
「そんなギャンブルするぐらいなら、もっと仕事で成果出せるようにがんばれよ。」
その上司は退職前に挨拶に行くとこんなことを言っていた。
「この10年俺とお前で何が違ったんやろうな。俺はずっとこの会社で働くしかないわ。」
マネジメントもそうだった
マネジメントもそうだった。私は部下たちと友達みたいな関係を構築していた。みんな私が上司なのにタメ口で話すし、私の意見がズレているときは全力で否定してきた。
事務所で私と部下が喧嘩をしているのは日常茶飯事だった。そんな状態を見た上司はこんなことを言ってきた。
「部下と仲良くなりすぎるのはあかん。管理職の働き方として間違っている。お前のチーム崩壊しとるやないか。」
その上司は私のチームが仕事で成果を上げ始めるとこんなことをぼやいていた。
「なんでお前のチームが上手くいくか分からん。俺の考え方が違ったかもしれん。」
夫婦関係もそうだった
夫婦関係でもそうだった。私たち夫婦は良いか悪いかは別として「離婚」の可能性を常に頭の片隅に残している。夫婦は助け合いがもちろん大前提ではあるが、依存関係に陥ってしまうと関係が破綻しそうな気がするからだ。
依存関係とは妻が私がいなくては生活できない状態のことだ。もちろん人生は長いのでどちらかが大変なときはどちらかが助ける。妻が仕事が嫌になって辞めたいと言ったとき私はこんなことを妻に話した。
「いつでも辞めていいよ!その間、私が頑張って働くから!」
私が仕事を辞めたいと言ったとき、妻は悩みながらも最終的にはこう言ってくれた。
「いいよ!私の稼ぎ増えてきたから。自分と向き合う時間も大切だよ。それに私が辞めるときも自由にさせてくれたしね。」
私が絶対に作り出したくないのは、お互い離婚したときに路頭に迷ってしまう状態のことだ。その関係はフェアではないし仮に妻が私に依存しているのであれば、私がどれだけクソな人間に変わってしまったとしても妻は離婚のカードを切れない。
なぜなら妻が路頭に迷ってしまうからだ。でも妻が自分で稼げる状態であれば、妻は私がいなくても生きてはいけるのでどのような選択肢もとれる。
お互い対等だからこそ、私たち夫婦はそれなりに仲が良く過ごしている。そしてお互い大切だからこそ最悪のパターンも想定している。
こんなことを人に話すと結構引かれる。前職の先輩と飲んでいた時にポロっと離婚を常に頭に入れていることを話したらこんなことを言われた。
「お前なあ。普通に考えてそんなこと口にしたらあかんやろ。」
この話はそれ以降していないので後日談はないのだが、私は今でも間違っているとは思っていない。むしろ妻も私も毎日楽しく過ごしているので正しかったと思っている。
noteもそうだった
noteでも同じだった。私がnoteを始めたばかりの頃、クリエイターへのお問い合わせやXのDMでnoteの先輩たちからよくこんなことを言われた。
「noteは交流が大切ですよ。共同運営マガジンもおすすめです。みかんさんも交流を意識して頑張ってくださいね。」
最初は人の記事にコメントをしに行ったり交流を頑張ってみた。ただなんか疲れた。当時の私は妻や家族との交流が最優先、次に近しい友人や会社の同僚たちとの関係性を優先していた。noteについては記事を書くだけで精いっぱいでそれ以上のことをすると疲れてしまったのだ。
だから無理して交流をすることはやめた。そもそも人の記事にコメントをすることに対し、少し恥ずかしく感じる性格なので無理をしたら疲れるのは当たり前なのだ。一方で交流が得意な人は羨ましいなーなんて思ったりもしていた。
交流が大切と言われるnoteで本当に最低限しか交流をしないまま1年経過した。
フォロワーさんも0人から2500人に。年間460ビューから34万ビューに。有料記事は10日で40本売れるまでになった。人によっては大したことないと思われるかもしれないが、私にとっては本当に大きな大きな成果だ。
私にとっては交流を最低限にしたことが正解だったのだ。
みんなが正しいと言うことは大抵間違っているのかもしれない
私の人生こんなことばかりだった。私より経験豊富な人たちは私にいろいろなアドバイスをしてくれた。これは私を想ってのことなので素直に感謝している。
でもいつも「それってほんとう?」と疑問がわいたし、疑いながら違う道を進むと大抵うまくいった。もちろんうまくいかなかったこともたくさんあった。ただうまくいかなかったとしても自分で考えて選択した決断なので全く後悔はなかった。
そんな人生を送ってきた私はあることに気付いた。
みんなが正しいと言うことは、大抵間違っているのかもしれない。
何たる論理の飛躍!でも漠然とそんな気がしているのだ。会社を退職する時も会社の上司たちからめちゃくちゃ反対された。
「これからどうやって生活するんや。キャリアを捨てるんか?もう少し考えて決断しろよ。絶対後悔するぞ。」
でも辞めてみたらあくまで今の段階にはなるが何も問題なかった。というか正しかったと思っている。
あなたの正解と私の正解は違う
そう考えると私は他人に思考を預けるのが嫌いな人間なんだと思う。他人に思考を預けるとは他人のアドバイスを自分で咀嚼せずに全面的に受け入れるということだ。誰かがアドバイスをしてくれるのはありがたい。ただそのアドバイスはその人にとっての正解であって、私にとっての正解ではない。
私とその人は全くの別人格だし全く違う人生を歩んでいる。だから私は参考にはするがその通りにはしない。人のアドバイスに全面的に従うということは思考を放棄していることと同じだ。そして私の人生の責任は、その人が取ってくれるわけではなく私自身が取るしかない。
ここまで考えてみてあることに気付いた。私たちは人生で様々な決断をするが、決断自体が大切なのではなく、その決断を自分なりの正解にもっていく努力が大切なのではないか。
例えばFIREという経済的な自立をして早期に退職するムーブメントでも同じようなことが言える。よくFIREに対し否定的なことを言う人もいる。人の考えはそれぞれなので否定しようが肯定しようが正解だと思っている。
ひとつだけ気になるのはFIREをしていない人があれこれ想像力を駆使して否定的に語ることだけは違うと思っている。自分がやってみて違うのであればそれは正解だけど、やってもいない人が違うというのはおかしいし、これからやろうとしている人の足を引っ張るという点で無責任すぎる。
人が経験していないことを否定する時、たいてい妬みや嫉妬の感情が潜んでいる。
例えば私が起業をしたい若者に対して、スタートアップで上場まで果たし、その後転落人生を歩んだ若手社長を例に挙げ「起業なんてリスクがある。若くしてお金を手にすると人生が狂う。」なんて言っている姿と同じだ。滑稽でしかない。
心のどこかで羨ましいなと思っているのだが、それを直視することもせず、行動する勇気もなく、ゆがんだ解釈をしてしまう。そして本人はそれに気づかない。
話を戻すとFIREという決断自体に正解があるわけではない。結局のところ自分で選んだ道なので自分が正解にするしかないのだ。やってみた結果、違ったらまた次の道を探せばいいし、正しかったらそのまま進めばいい。
ただそれだけのことなのに、私たちはあーでもないこーでもないと頭の中だけで論理をこねくり回す。論理をこねくり回すことも大切だと思う。何かの決断をするときは常にリスクヘッジは意識した方がいいからだ。
ただ論理をこねくり回し続けたところで何も見えない。FIREの話だと私は会社を退職する前と今とでは全く違う景色が見えている。それはサラリーマンをしながら想像していたことが正しかった部分もあるが、多くは退職してみて初めて気づいた。
そしてこの気付いたことは、私なりの正解であって他の人の正解ではない。
さいごに
書きながら自分はなんて嫌なヤツなんだと少し引いてしまいました(笑)頑固者と言いますか天邪鬼と言いますか…。
妻によくこんなことを言われます。
「あなたは人から言われても絶対にしない頑固さがあるけど、自分でやろうと思ったことはやり切るよね。人間性としては30点ぐらいかな!」
どうしてこうなってしまったのかと考えてみると今回書いたようなことがあったからですね。なーんか人に言われてやるのが嫌な性格なのです(笑)
でも今のところぼちぼち上手くいっているし、まあいいか!
おしまい!
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