理解はするけど共感はしない推し活の話
先日、同僚のOさんがこんな話をしていた。
Oさん「私の友達、推し活の達人なんです!韓国に好きなアイドルがいて韓国に行くたび40万円分のCDを買ってアイドルと写真を撮って、そのCDは全部ホテルに置いてくるんです。」
突っ込みたいところがたくさんあるが、面白いからいつも話を聞いている。
Oさんも某アイドルの全国ツアーは全て申し込んで、当たったら全て行く推し活上級者だ。
Oさん曰く「推しがいるから仕事を頑張ろうと思えるんです。もっと言えば推しがいるから生きられるんです。」と、もはや推しは神なのだ。
私の周りには若い女性も多いので、推し活にのめりこんでいる子が多い。
みんな声をそろえて言うのは「推しがいるからがんばれる。推しが生きがい。」そんなところだ。
そう考えると、推しのいない私は一体何なのだろうか?とも思う。
推しがいなくても頑張れるし(あまり頑張れていないかも。)、特に生きがいなんてなくても、人生それなりに楽しい。
推し活をがんばっているみんなの話を聞くのは、別世界の話を聞いているようで楽しい。
話を聞きながらも、頭をよぎるのはこんな言葉。
理解はするけど共感はしない。
推し活が仕事を頑張る原動力になっていいね!とは思うけど、私もそんな推しが欲しい!とは全く思わない。
推し活の話を聞いていると、境界線について考えてしまう。
これらの良し悪しを決める境界線はなんだろうか?
たぶん3つとも精神的に、ある対象に対してのめりこんでいる。
精神的にのめりこんで自分のお金を際限なく使う。
その過程で脳内の快楽物質がドバドバ出て、恐らく幸福が得られる。
推し活はよくて、某宗教とホストの掛け売りはダメ。
私が見えていないだけかもしれないけど、本質的な部分は同じように感じる。
書きながらこんなことも思う。
推しがいる人といない人の違いは何だろう?
同僚には推しがいないことを気にしているSさんがいる。
Sさんの周りは推し活に全力な子が多いらしい。
Sさん「みんな推しがいるのに私にはいないんですよね。私も推しがいた方が人生楽しいのかなって思っちゃいます。」
ここで本音を書きすぎると、推しがいる妻や同僚にぶん殴られそうなので、オブラートに包んで書こう。
私は推しがいなくてもそれなりに人生を楽しんでいるSさんは、そのままでいいんじゃない?と思う。
推しという対象が人である限り、人というものは常に変わるからだ。
冒頭のOさんに以前こんな質問をした。
私「Oさんはどこまで推しを推し続けられる?窃盗、性犯罪、殺人。」
Oさん曰く「性犯罪と殺人をしたなら推すことをやめますね。」
仮に推しが何かを起こした場合、ファンは何を感じるのだろうか?
今まで推してきた時間・お金と推しから得られた幸福を天秤にかけるのだろうか?
こんなことを書くと、妻や同僚からこう言われるに違いない。
「うざい!」
推しとはなんなのだろうか?
精神的支柱かもしれない。
歴史を遡ればそれは神なのだろうか?
戦前であれば天皇であり、一家の大黒柱の父であり、人生における師匠の存在なのだろうか?
いつの時代も人間は弱いから、何かすがるものが必要なのかもしれない。
たぶん私にも精神的支柱は何かあるのだと思う。
その対象が時代の移り変わりとともに変化しているだけなのかも。
推し活の本質について私は全く理解できていない。
これからも周りの推し活をしている人から、学ばせてもらう必要がある。
たぶん、いつになっても
理解はするけど共感はしないのかもしれない。
下書きを妻に見てもらったところ
妻「あなたは根本的に何も分かっていない!理解すらできていない!!」
一応私も推し活を理解するために頑張ったのである。
これまで読んだ本を見てほしい。
どれも自分と別世界に住んでいる人たちのことが書かれている。
推し活を理解するために役立ったと思っていたのだが、
理解すらできていない!!!
のでした(笑)