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人間関係もケア衣料も”自分から相手を分かろうとする”という姿勢が大切〜長嶋りかこさんインタビュー 第1回〜

さまざまなメンバーに参画していただいているケア衣料ブランドcarewillの、参画メンバーの想いを詳しくお伝えする取材シリーズ、今回はcarewillにアートディレクター/グラフィックデザイナーとして携わっていただいている長嶋りかこさんに、carewillに関わる以前に長嶋さんご自身が体験された服の不自由や、carewill参画のお話を伺いました。

長嶋りかこ氏
1980年生まれ。デザイン事務所village®代表、グラフィックデザイナー。アイデンティティデザイン、ウェブデザイン、ブックデザイン、空間構成、サイン計画など、グラフィックデザインを基軸とした活動を行う。 これまでの仕事に「札幌国際芸術祭”都市と自然”」(2014)、「東北ユースオーケストラ」(2016-)、「堂島ビエンナーレ」(2019)、ポーラ美術館のVI計画(2020)、廃棄生地のみを再利用した展示空間デザイン「DESCENTE BLANC exhibithion」(2018)、廃プラスチックボトルを再利用したテキスタイルデザイン「Scrap_CMYK」(2019)など。2021年度ヴェネチア・ビエンナーレでは国際建築展日本館にてデザインを担当。
https://www.rikako-nagashima.com


carewillに関わる以前に、ケア衣料について考えたり、関わられたことはありますか。 

長嶋さん:ケア衣料というものを考えたことは無く、関わったことも無かったです。ですが、それが必要であることはすぐに理解できました。というのも私の母は自分の親だけでなく父の両親も介護しながら、かつ福祉施設で働いていましたから、人を介助することがどれだけ大変なのかということは、病院で祖父母に泊まり込みで付き添う姿や、福祉施設から帰ってきた母から漂ってくる排泄物の匂いから感じていました。

ただ、私は本当の意味でその大変さを理解しているわけではなく、どれだけ想像してみたとしても母本人にはなり得ないことは紛れも無い事実です。だから実際に私が介護する立場にならないと分からないことだらけだと思います。例えば親の心子知らずと言いますけど、子どもを産んで育てるという事も、自分がその身になって初めて分かった、母の想いと大変さが沢山ありました。仕事との両立の過酷さ、育児のしんどさ、授乳の苦労、睡眠不足のつらさ、言い出せばきりが無いほどの全てが、予想外のことしかなく、母親の大変さを全く何もわかってなかったことが分かった、という感じでした。妊婦時代から始まり子供の成長に合わせて、都度新しい「知らなかった」が出てくるので、その都度自分の「母親」のことがやっと分かるのですから、きっと介護に関してもそうで、私は近くで母の大変さを感じていたと言えども、母の大変さを本当の意味では何も分かっていないんです。

ただその時に、「こっちだって色々大変だし本人になれるわけじゃ無いしそんな私を分かってよ」ではなく、いつでもどこでも”私から相手を分かろうとする”という姿勢が大切なんだと思います。これはすべての人間関係に言えることだと思っているし、ケア衣料というものも考える上でもその姿勢が必要だと思っています。


ご自身は、服の不自由を感じるご経験をされたことがありますか。どんなときでしょうか。そのとき、どう対応されましたか。

長嶋さん:産後1年ほど、授乳というものに本当に困っていました。まず産後すぐに赤ちゃんが乳頭混乱を起こし、その克服までに3ヶ月かかり、やっと普通の授乳ができるようになったのは4ヶ月目くらいだった、という想定外の困難がありました。(乳頭混乱のハードな日々は検索すると様々な人の体験記が出てくると思います笑)そしてやっと授乳が母子ともに板につき外出先での授乳が可能になってからは、息子の授乳の回数が超頻回だったため、とにかくいつでもどこでもすぐに授乳できるようにする必要がありました。赤ちゃんはいつどこで授乳したがるか分からないので、いちいち授乳室を探していたら大号泣が長引くのみ、だから何処にいてもさっと授乳が出来るよう、人に気付かれずに授乳できるような服が必要でした。授乳ケープの役割ができるくらいゆったりめの服を着れば、赤ちゃんをその服の中に入れてしまって授乳できるのですが、それが難なく(しかも恥ずかしげもなく)出来るようになったのはだいぶ慣れてきてからのことで、まだ慣れない時の私はいわゆる「授乳服」に随分助けられました。

ただ、生地感やデザイン性は全く好みではなく、”着たい服を着られない”という状況は、自分の意思や自分の存在をどんどん消していくような育児の日々をさらに助長しました。全ては赤ちゃんを生かし守るために、赤ちゃん主導の時間を生きているから仕方がないと言えばそうなのだけど、そのストレスたるや。自分の選択や意思が最も優先度の低いものとなった、特に産後2年ほどは、透明な檻の中に閉じ込められているように感じるほど孤独でした。産後すぐに仕事を始めていたものの、事務所で育児をしながら仕事をしたので仕事をこなす時間はぐっと減り、スタッフと雑談をする暇もなく家と事務所の往復。「私」というものがどこにも放出できないストレスが常にありました。

それゆえか、会ったことの無い「母親たち」へ想いを馳せるように。授乳服の開発者の母親時代の苦悩のインタビューを読んだときは、育児への姿勢にも働く女性としての姿勢にも共感してまるで同志のような気持ちになりましたし、授乳服を必要としている母親たちが今この時も沢山いて、皆赤ちゃんを想いながらも過酷な時間を過ごしているんだよな、頑張れ私たち、、いや頑張りすぎないで私たち、、、つかなんで私たちだけこんな想いを、、、、なんてことを、頻回授乳の睡眠不足でヘロヘロになりつつ息子を抱えて、怒りと悲しみと息子への愛の混じった涙を流す日々なのでした。

ちなみに授乳服という存在がなかったときの母親達はそれこそ人目に晒されながら授乳をするか、ケープのような布で隠して授乳をするか、泣き続ける赤ちゃんをだきながら死角を探して隠れて授乳するか、そんなところだと思います。が、働く女性が増えていく事で”いつでもどこでも周囲に気付かれず”授乳を行うための機能を服にもたらす必要性を感じ、当事者本人の問題意識から授乳服ができたので、成り立ちはcarewillのケア衣料ととても近いですよね。


昨年10月に初めて笈沼さんと会い、そこから半年以上、carewillに伴走していただいています。印象的だったエピソードを教えてください。

長嶋さん:一番最初に笈沼さんから、事業の話よりも手前の、ご自身とご家族の体験とその後悔などのお話を伺ったときは、思わず涙が出ました。「両親の老い」は誰しも通る道であるがゆえに、自分のことのように話が入ってきましたし、自分の祖父母が病院や施設で痛ましい姿だった時のことが思い出され、その時に自分が何もできず本当に悔しかったことも重なりました。

笈沼さんがお父さんの死後にお母さんと初めたオーダーメイドの活動やcarewillの事業の展望の視野の広さからは、いかに笈沼さんが深く傷つき悔しい思いをしたのかを感じました。だから、家族による温かいプロジェクト、というよりも、根っこにはとても切迫した感情が詰まっているプロジェクトであると捉えています。

最初の頃に笈沼さんから見せていただいた手書きの”青図”が今もずっと頭の中にあります。その図では、笈沼さんの問題意識は服という物性にとどまっておらず、社会の仕組みそのものに向けられ、どうしたら高齢者やケアが必要な人々の尊厳を守り人々の人生をより良くする仕組みが作れるのかが描かれていました。半年以上経ち日々プロジェクトが進行していくなかで、目の前のカタチは大小目まぐるしく変化をしていきますが、その地図の存在は、現在地において志のブレがないかを確認できるような存在でもあります。


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インタビュー第1弾では、長嶋りかこさんご自身が以前感じられた服の不自由についてや、carewill代表の笈沼と出会った当初の印象的なエピソードを伺いました。第2回では、実際に伴走いただく中で、長嶋さんから見たcarewillの特色や、将来への期待についてお話を伺っていきます。そちらもどうぞご覧ください。



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