好きな人と好きだった人
きのうのお仕事終わり、学校で一緒に働いていたひととご飯に行った。年は4つも年上だし――20代の4の年の差は果てしなく大きい――、同じ大学を出ているけれど「知識は学歴では測れない」を体現するように広くて深い知識を持っていて、知的好奇心も旺盛な人だから、軽々しく同僚とは呼べない。co-workerのニュアンスだったら、仕事柄、ギリギリ呼べるのかな。
彼はとてもとてもすごいひとで、教えている科目はぜんぜん違うし、わたしは彼が教える科目が大の苦手だったはず(高校選びの時それをできるだけ避けられる進路を選んだくらい)なのに、彼が話すその科目の話はすっと心に落ちていくようだった。生徒と話すときも、わたしたちと話すときも、顔色や声色を変えず、いつもどこか柔らかいふわりとした雰囲気を持った人だった。教員というのは仕事柄大きな声を出すことも多いし、彼も例外ではないのに、大きな声を出しても、なにか優しいのだ――彼を「怖い」という生徒もいたが、わたしはどこかそれは信じられないでいた――。
同じ学校の教員同士だったけれど、わたしたちは時々――本当に毎回間隔が2ヶ月とか普通に空いてしまう――映画を見たりご飯を食べたり、デートを楽しんでいた。わたしは常に彼の「報告」を聞いていたように思う。「ここで○○をしました。」、「〇〇って生徒がこんなことしてね。」。さすが関西人だけあって話は面白いし、彼が楽しそうに嬉々と話すその顔を見ているのが楽しかった。間にあいた2ヶ月間を埋めるように話して、解散して、またなんだかんだ2ヶ月間、同じ校舎の端と端で、違うコースの違うクラスを教え、学校のお仕事(分掌という)も全く別々のことをして一生懸命働いていた――学校の誰から見てもワークホリックな彼にしてみれば、働いているという感覚はないのかもしれないけれど――。
わたしは、ファッションになんの興味もない、15分で2着のスーツを選んでしまう、そんな彼のことが好きだった。半年以上も前のことだけれど、確実にそうだった。昨晩は、彼が「好きだった人」になった夜だった。
昨晩は互いに別々の職場から集まる以外は、いつもと何も変わらなかった。前回会ったのは年明けだったので、ちょうど2ヶ月のときが経って、またその2ヶ月の話を聞いた。大学受験の勝負の時期だったので、話にも熱が入って、「〇〇は△△大学に受かったんですよ!」とか、「〇〇の指導はまじでしんどかったです。」とか、知っている名前もちらほら飛び出した。互いに3年生の担任団にいたので、卒業式を終えた今待ちゆくは、配置換え。「あの先生は次は担任でしょうね。」とか、そんな話もした。
だけど、今生まれてきたのは、憧れ、ただひとつだった。わたしがあんなに苦しんだ仕事を、こんなにも楽しげにやってしまうこの人が、心からすごいと思うし、心の底から尊敬している。だからこそ、彼と話しているときの自分は普段よりも余計にちっぽけに見えて、それが少しだけれど悲しくもあった。
彼と改めて会って、しっかりとお話をしてみて、わかったことがある。わたしの「好きな人」は、2ヶ月に一度結果報告を時々する、紺色のような、寒色がかった彼ではなくて、毎日経過や過程を見届けてくれる、あの、きみどり色と橙色の彼だって。彼は同い年だし、東京なんていう大きくて遠い街にいるし、仕事が大変で「づがれだ〜」なんてLINEを送ってくるし(実際はもっと爽やかだけど雰囲気はこれ)、職種ごと違うけれど、背伸びせず等身大でいつもそのままの彼でいてくれるし、誰よりもわたしをわかろうとしてくれる。だからこそ、わたしはわたしらしくていいんだと思えるし、ありのままの自分を認めてもらえているからこそ、そして毎日見ててもらえているからこそ、自己肯定感を感じて成長したいとも思える、心の伸びしろが生まれるのだ。時々出てくる大人なわたしは、見ててもらわないと成長できないなんて、なんてこどもなんだ、と思ってしまうけれど。これを読む彼もきっとそう思うのだろうけれど。でも、前に進んでいくには元気がいるし、やる気だっている。今のわたしにとってその源は彼なのだと、つくづく感じる。過去を振り返っても、忙しい毎日がこれほど安らかでほのぼのとして、相手のことを愛せてもこんなにも自分を大事に思うことはなかった。
好きだった人に憧れたきらきらした日々も、好きな人に包まれているほんわかした日々も、今のわたしをつくってくれている。職場でも人に恵まれ、ひとつひとつ認めてもらえて、生きていてよかったと心から思える。これからもこの日々を大切に、変化も含めて愛おしく思える余裕を持って生きていきたいという希望と、そのために頑張るという決意を込めて。憧れをくれた彼、安心をくれる彼、本当に、本当に、ありがとう。
P.S. 標題の上の写真はかわいい食器を眺めるわたしを、彼が遠くから見守ってくれている図です。ほんと、ありがたい限りですね。