目に見えないのは怖いこと
わたしは目が良い。
とはいっても、視力はそれほど良くない。数年前よりも確実に画面を見るようになったので、そろそろ行かねばならない免許更新がとても怖い。
わたしは様々なものに色が見える。人も、数字も、言葉も、漢字も、たいてい色がついて見える。このことを人に話したことは3ヶ月前まで一切なかった。
このことを初めて話したのは、彼。家族にも黙っていたこのことを、彼はすうっと引き出してくれた。
わたしにとって、今回のコロナウイルスは東日本大震災よりも怖い。それは、きっと目に見えないものに襲われているから。まわりの人が、そして世界中の人々が、見えないものに怯えている。見えないものに攻撃され、見えている、愛している周りの人々が見えなくなるから。
怖いのは、ウイルスだけではない。
わたしには色が見える他に、ひとよりも敏感であるという性質(Highly Sensitive Personと呼ぶことが多い)もあって、わたしはその中でも、人が疲れていたり、怒っていたり、そういう負の感情が目に見える。言葉として投げられたものはもちろん見えて、わたしの妹はダイレクトに負の感情を外に出す人種だが、彼女の言葉は先の尖った槍や矢のように見える。わたしの周りの多くの人々は、そのような負の感情を心にぐっと収めている(逆に収められない人とはうまくやれないことが多いし、妹ともうまくやれない)のだけど、それが透けて、なのか浮いて、なのか、目に映ることがある。
最近は、テレビからも、SNSからも、普段は穏やかな彼からも、疲れが見える。痛みや、苦しみや、怒りが、痛いほど見えて、心に刺さるのだ。
だから、わたしは仕事をしている。仕事をして、生徒と話して、「どうぶつの森」の幸せでのどかな世界だけに触れ、外の世界には触れないように、触れないように、テレビも観ないで、新聞も読まないで、生活をしている。
こうやって、常識の範囲内で逃げることも生きる術なのだと知れたのは、彼のまねをしていること、休職したこと、そして今別の職場で復職できたことが大きい。彼は興味外の情報を集めようとしないし、不安に思うようなことを自分の視界から排除しているように、わたしには見える。彼が視界の中に置いてくれているわたしが、彼のことを一番に愛しているわたしが、彼を困らせてどうするんだとも思う。彼をできるだけ困らせず、悲しい顔をさせないように、わたしもおだやかに生きたいと思う。
P.S.
彼にはわからない世界かもしれない。
彼とは限らず、他の誰にも。
でも、これを悲観するのではなく、理解してくれようとしてくれる人もいるやさしい世界にわたしは生きていると思う。だから、わたしは綴りつづけたい。