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小説:遊撃サバイバル1_敵前逃亡

樫の元の藪にひざまづくと、帽子から汗が滴り落ちた。

荒くなる息を必死でこらえる。息遣いで、敵に居場所を知られてしまうこともある。

息を整えながらも耳を澄ましてあたりの気配を探った。寝不足がたたって、足がつりそうだ。畜生、なんだってこんな時に。頭の中で敵の数を確認する。いったい、あと何人だろう。おそらく5人前後のはずだ。腰を下ろしたいが、下ろしたら最後、立ち上がる自信がない。

楠田元はG3を抱えなおした。普段はそれほど重く感じにない自動小銃がやたら重く感じる。徹夜の上に、服がべったり張り付くほど湿気を伴った暑さが楠田の体力をますます奪う。

もう、あまりもちそうにないな。自分の体力を冷静に分析する。つりそうな足にくわえ、この暑さ、そして残りの弾数。こちらからしかけないと生き残る道はない。

覚悟を決めて、楠田はつりそうな足で地面を蹴った。

12時から15時までの3時間で着信が、8件。メールが5件。すべて同じ人物。藤井綾。留守電には入っていない。メールには折り返し電話をよこせと入っている。

他の人からだったら、何事かと思うが、彼女の場合はこれが普通だ。

駐車場で、楠田は、今度はなんだろうな、と思いながら、2リットルのペットボトルを片手で抱えて飲んだ。3時間で、3リットル。飲みすぎか?

「くっすーなに、そんなの飲んでんの?ビールがまずくなっちゃうよ。行くだろ、これから?」

福田が汗をぬぐいながら近寄ってきた。「俺はこれが楽しみで苦行に耐えてんだ!」というだけあって、福田は大酒のみだ。ニシシと満面の笑みだ。

楠田は、綾の不在通知と、折り返しの電話依頼メールを思い出しながら福田に軽く頭を下げた。

「あ~・・・福ちゃん、ごめん。今日はやめとくわ。ちょっと帰えらないかん、みたい」

福田は不満の悲鳴を上げた。「え~なんだよ。仕事!?こきつかわれてんなあ~」

陸自の福田も、警察官の楠田も仕事の関係上、お互いいつも参加できるとは限らない。会うのは3ヶ月に1度がせいぜいだ。特に久闊を叙するほど親しく踏み込んでいるわけではないが、たまに会って飲みながらバカ話をするのを結構楽しみにしていた。

知り合って3年だろうか。お互い、どこに勤めているかを話したわけではない。ただ、なんとなく似たような臭いがして、それとなく察している。

福田は帽子を脱いで五分刈りの頭をがしがし掻きながらちょっと考える様子を見せた。

「そうか~なんだよ~」まだ不満げだ。

「俺、今日が最後なんだわ」福田の言葉に楠田がふいに向き直った。

「移動、決まった。9月」

「どこ」

「留萌」

お互い何の仕事をしているか話しているわけではないが、なんとなくお互い察しているので、話は早い。楠田は片眉をあげて福田をみた。

「そりゃ、遠いな」

「ああ、さすがに、気軽く参加できん」福田は軽くため息をついた。

マメで、面倒見のいいリーダー格の福田が抜けるのは痛い。このチームも自然消滅かな。楠田がぼんやり考えていると、福田が頭に鉄拳を落とした。

175センチの楠田にくらべて、福田は190近くある。上から振り下ろされる鉄拳はそれだけで十分兵器だ。

「お前、今、このチームも自然消滅だな」とか考えただろう。

う、読まれてる。まだジンジンする頭をさすりながら楠田は苦笑した。

福田ほど面倒見のいいタイプはいない。福田と楠田以外は土日休みのサラリーマンや大学生なので、時間のあるヤツは多いが、指揮を取る様なリーダーはいない。

休みが不定期で、全てに参加できるわけではない福田は、自分が参加できない時でも、連絡や事前準備を怠らないので、リーダーとして大変すぐれていた。最も、非常にすぐれたリーダーにありがちな欠点「下が育たない」も持ち合わせていたが。遊びにおいては下が育つ必要はない。そのリーダーがいるかぎりは・・・

「俺が抜けたら、お前が指揮取れよ」福田は楠田に向き直った。

「向いてないよ」ガタイもよく、声もでかく存在感抜群の福田に比べると(あくまでも、福田と比べると、という意味だが)、楠田は線も細く、寡黙で、福田のように人を引っ張っていくリーダータイプではない。せいぜいナンバー2の参謀レベルだ。

ある程度の年になれば、自分がどういうタイプが見えてくる。決してトップには立たないタイプだな、とか、一兵卒で終わるな、とか。

「お前は逃げてるだけだよ。面倒くさいんだろう、そういう人間関係が」福田が切り捨てる。

「お前ほどマメでも人望があるわけでもないからな」楠田が肩をすくめる。

その肩を福田がつかんだ。「なあ、俺はお前に頼んでるんだ」痛い。190センチのガタイで体重かけてつかまれりゃ痛い。どう考えても頼んでる態度じゃない。

「俺はせっかく作ったチームがバラけるのはいやなんだよ」

このチームの創設者は福田だ。楠田はあちこちに顔を出すアウトローだったが、居心地が良くてなんとなくここへ居ついている。なくなればまたアウトローに戻るだけだ、という気もしている。なんとしてもこのチームを存続させる、という気概はない。

良くも悪くも、ぬるま湯思考なのだ。

「お前って、戦闘の時には熱いのにな。なんだって現実はそんなに冷めてんだよ」

「おや、こんなところで話したんですか」

宮さんこと、宮崎哲郎が福田に声をかけた。チーム最高齢の54歳。「いやあ妻はいい顔しないんですがねえ。こればっかりはやめられなくて」と、穏やかに微笑む様子はとても趣味がサバイバルゲームとは思わせない。

ゲーム中の紳士さもピカ一で、ついたあだ名は「ジェントル宮」

楠田は首をかしげた。福田の次のリーダーを選ぶとしたら、真っ先に候補にあがるのがこのジェントル宮だろうと思える。

「鶴亀で話すのかと思っていましたよ」鶴亀とは福田たちがゲームの後に行く飲み屋のことだ。

「くっすー、帰るそうなんで」福田が宮崎に応える。どうやら次のリーダーの話は福田と宮崎の間でついていたものらしい。

「そうなんですか。それは残念。今日は福田さんの送別会もかねてましたのに・・・」

そんな話は先に言っておいてくれ、と思うが、次期リーダーという話になったら楠田が出てこないかもしれないのを見越してのことだろう。

「楠田さん、とりあえず30分だけ来れませんかね。みんなに挨拶だけしたら抜けていただいて結構ですので」

「え、いや、そもそもまだ受けてないんで・・・ソモソモウケルツモリナインデ・・・・メンドウクサイシ」

何か言ったか、という福田の問いに「いや何も」としかいえない自分が、楠田は情けなかった。

いや誰だって、190センチのヤツに上から「何か言ったか」と言われたら「何も言ってません」としか言えないと思う。別に俺がヘタレなわけじゃない。楠田は自分に言い訳をしてみた。

鶴亀とはここらで唯一、とも言える居酒屋だ。小料理屋、のようなものならある。ただ10人以上が一度に入れる店となると、限られてくる。駅からそう遠くなく、10人以上が入れるアルコールが置いてある店、というのは意外と限られている。今時ファミリーレストランにだって、アルコールはある。ただ、ガタイのいい、しかも汗臭い男が10人も大声で騒いで飲める店、となると、候補から外れる。

「え~なんで、宮さんじゃないんですか!?」不満、というほどではない、が、疑問の声が上がった。

そりゃそうだろう。俺だって疑問だ。楠田は表情を変えずにビールをあおった。30分たったら抜ける約束だ。

宮崎は創設以来のメンバーの上、全ての回に出席している。穏やかな人柄にひかれて皆が色々な相談を持ちかける、なくてはならない存在だ。それに比べ楠田は休みが不定期の為、最低の出席率を誇り、その上、無口で自分からあまり話しかけないので、最低限の挨拶以外したことのない人もいる。どうやら黙っていると強面に拍車がかかる為、恐ろしくて話しかけられないメンバーも多いらしい。

「私はそういうのには向いてないんでね」宮崎が穏やかに諭す。

「俺の方がよっぽどむいてない」楠田が小声でつぶやく。

「寡黙だからってリーダーに向いてないとは限らないですよ。楠田さんは周りに対する配慮がすばらしいし、強面からは分からないとても繊細な心をお持ちですよ」

ビールいっぱいしか飲んでいないのに耳が赤くなる。「俺って繊細だから」と笑い話で主張することは出来ても人から「あの方は繊細で」と言われて、羞恥心が湧き上がらないほど図太くはない。

やめてくれ~と叫びたい。

「それに」楠田の気持ちも知らず、宮崎が続ける。

「やっぱり実力主義でしょ。腕の立つものがトップに立つのがいいと思いますけどね」

今日のゲームは珍しくバトルロワイヤルだった。最後に生き残ったものが勝ち。

楠田と福田の実力は拮抗しているはずだが、今日は楠田に軍配が上がった。

「まあ、そういうこと」それまで黙っていた福田が声を上げた。

「メールで連絡してただろ。今日のバトルロワイヤルの勝者には、特典があります、って」

『特典』って普通、いいものじゃないのか。なんだよ、それ。楠田はますます押し黙った。

「このメンバーの中じゃ、くっすーが一番相応しいって。シャイだけど、責任感強いし、実は面倒見もいいし、おまけに実力もピカ一だし。あ、知らない人もいるかもしれないけど、くっすーが無口なのは、シャイなだけ、だから。実は、結構しゃべるよ」福田がとっととまとめに入る。34の男を捕まえて「シャイ」はやめてくれ、と楠田は憮然とした。

「仕事の関係で全参加は難しいけど、そこらへんは宮さんがフォローしてくれるし、みんなも勿論協力してくれるだろう?」

絶妙に人を乗せる。福田はこうして人を納得させることが抜群に上手い。

「いいんじゃね?おれ、くっすーのこと結構すきだし」他人ごとだからかお気軽に同意するのは、タケこと、武内修。1浪1留の大学4年生だ。頭は悪くない。ただ興味がないことにはまったく労力を割かない徹底した性格で、それゆえ未だ、一般教養で取れない単位がある。去年ドイツ語のレポートを楠田が手伝ったことに恩を感じているが故の発言だろうが、ホントに恩を感じているなら、反論してくれよ、まったく。楠田は苦虫を噛み潰したようなに眉をしかめた。

「お前、その顔、デフォルトにするのやめれば、あっという間に人気者なのにな」

楠田の眉間のしわをつつきながら福田が笑った。

メールやチャットのみの幽霊部員も合わせて、全部で15名のうち、今日参加が9名。うち楠田が名前と顔が一致しているのは、福田、宮崎、武内をのぞけば、2、3人だ。とてもリーダーに向いているとは思えない。

しかし、民主主義において多数決は従わざるを得ない。

畜生、やっぱり最大多数の最大幸福なんて、マイノリティに対しての不利益が大きすぎる。

だれだっけ、ベンサムか。楠田はもう10年以上前になる哲学の授業のカケラをふいに思い出した。

30分だけ、という飲み会を解放されたのは、45分後だった。来た電車に飛び乗ったところで、楠田の胸ポケットで携帯が震えた。バイブから、メールではなく、着信だと分かる。見ると、綾からだ。16時までにもう3回着信があったから、痺れを切らしたのだろう。

本当は電車に乗る前にかけようと思ったが、ちょうど電車が着たので乗ってしまったのだ。

楠田は軽く舌打ちをして小声で電話にでた。

「遅いよ、ゲン!なにやってんの」悲鳴に近い。

「悪かったよ。電話、取れなくてさ」

「ひどいよ、もう。今から30分以内に迎えにきて」ここは茨城だ。30分で都内にたどり着けるわけがない。

「あ~おごるからさ、2時間後に新宿、ってことで」一度ヒステリックになった綾をなだめるのは骨が折れる。

宿直明けで、朝から炎天下でサバゲーを興じ、汗だく、リュックは銃器と汗だくの着替えと飲み残したペットボトルでめちゃくちゃ重い。うちに帰ってシャワーを浴びて眠りたいのが本心だが、そんなことは言ってられない。

「悪い、今電車だから切るぞ。新宿についたら連絡するから」周りの目を気にしながら楠田は電話を切った。

綾がバランスを崩したのはいつのことだっただろうか。大学時代から多少神経質だとは思っていたが、入院が必要なほど病気が重くなって初めて、ああ、そういえば、あの時から・・・と思っただけだ。

入院したのは社会人生活がそれぞれ板についたころだっただろうか。面会謝絶を身内だと偽って見舞いに行った。

大学時代のふっくらとした丸顔は頬がこけ、驚くほど細くなった手首には点滴の管と無数の赤い線があった。

「なんだ、元気そうじゃん」セリフはありえないほど陳腐に響いた。

元気そうなわけがない。目は落ち窪み、頬はコケ、皮膚はガサガサで、生気がない、とはこういう状態だ、という見本のようだった。

それでも彼女は笑った。

「あ、ゲン。来てくれたんだ~他のヤツ薄情でさあ、誰も見舞いに来やしないんだよね・・・あ、林檎食べる?プリンもあるよ。ゲン、甘党だったよね。確かロールケーキもあるんだ。そういやさ~」

彼女は弾丸のようにしゃべり続けた。どうやら面会謝絶になっていることを知らないようだった。

楠田は笑わなきゃ、とただそれだけを考えていた。

彼女に入院を勧めたのは、その時付き合っていた男で、この男のおかげで彼女は立ち直ったと言って過言ではない。仕事をやめて、彼女を付きっ切りで世話し、彼女の退院を待って、結婚した。

今でも思う。俺が支えてやることはできなかっただろうか。仕事をやめて?あの時の俺に仕事をやめて人を支えられるほどの貯蓄はなかったし、やめる勇気があっただろうか。

結局、彼女は自分を支えてくれた男を選んだ。正しい。ただ、何度となく思うのだ、俺が支えてやれたら、と。

一度バランスを崩したら、どうやら完治は難しいのか、時々心が悲鳴をあげる様だ。

そして、今は旦那となった男がいつもそばにいてやれるとは限らない。彼女はそのたびにあちこちにSOSのサインを出す。きっと俺以外にも連絡していることだろう。あのヒステリックな悲鳴からどうやら今回連絡が取れたのは俺だけのようだ。少し考えて旦那に彼女と新宿で食事をする旨のメールを送る。旦那とけんかをしているのか、旦那の外出中に彼女がバランスをくずしたのか不明だが、旦那の外出中に彼女から連絡があって会う際には、旦那に連絡するのが友人間の不文律になっている。新宿に行きつけの中華があるので、きっとそこになるだろう。ここ10日ばかり連絡がなかったから落ち着いているものとばかり思っていたが・・・

物思いにふけりかけ、あわてて綾に到着時刻をメールした。

「遅い!」綾は腕組みをして怒鳴った。

電車の到着予定時刻は17時34分。改札までの時間を考えて17時40分で連絡し、今は17時38分。遅れてはいない。ただこういう時は反論しても無駄だと楠田は経験上わかっているので、謝る。

「ごめん」

「なんだよ、すごい汗。その上何、その荷物」

どうやら楠田の風貌がお気に召さないらしい。綾は眉をしかめた。

「あ~宿直明けでちょっと茨城に・・・」楠田がちょっと言いよどむと綾はピンときたらしい。

「またぁ。ゲンも相変わらず、すきだねえ。いい加減大人になったら?結婚したいんでしょ」

軽口を叩く綾に、先ほどの電話やメールほどの緊迫感はない。思ったよりも調子がいいんだろうか、楠田は結構楽天的な性格だ。

「俺、中華、食いたい」先手必勝。説明しづらい店に変えられては困るので、ここは中華を主張する。旦那には80%の確率でいつもの中華だとメールしてある。

ええ!?またぁと文句を言いつつも、元々綾のお気に入りの店なのであまり異論はないらしい。それ以上反論しなかった。

「あたし、決めた」

ビールとザーサイがきて、まず乾杯~と飲んで人心地ついて、さて、話でも聞くかと身構えようとしたところで綾が切り出した。

「何を」楠田はザーサイを口に放り込みながら聞いた。

「うち、出る」

「は?」

「うち、出る、って言ってんの。別れる」

「なな、な、何言ってんだよ」まだ酔うほど飲んでいないと言うのに、楠田の思考回路は緊急停止状態だ。

「何、どもってんのよ」綾は冷静そうに見える、一見。

あの人、浮気してんのよ。綾がぼそっとつぶやいた。

「だから、別れる」

浮気してんだから、別れて、当然でしょ。綾は他人ごとのように言った。

「いや、いや、待て。旦那が浮気してるって、なんで、そう思うんだ!ただの誤解かもしれないだろ」

楠田はあせって上手く回らない頭と舌に思わず舌打ちしたくなった。

「誤解じゃないよ。間違いないの」綾は楠田を睨みつけた。

「なんか証拠があるのかよ」

「夫婦だもん。わかるよ」

こういう時、なんと言っていいのか分からない。楠田は自分の経験値のなさを呪った。こういうスキルってどこで磨くんだ。

「いや、夫婦だから分かるって・・・そんなもんか?」

ゲンには分かんないよ!結婚したことないくせに。

こういわれては反論するのは難しい。いやいや取り調べの基本を思い出せ。楠田は頭を振った。

「なんで孝之さんが浮気してるって思ったんだ」孝之さんってのは綾の旦那だ。

「思ったんじゃないってば!」切れ掛かる綾を楠田はなだめた。

「浮気しているとなんで気が付いた」最初からこういえばよかった。どうも俺は口がへただな。楠田は苦った。

だって、毎晩帰りが遅いし。それに電話しても直ぐ出ない。ほらみろ、決定的だ、と言わんばかりに綾は楠田を睨みつけた。

ちょっと待て。

「いや、毎晩遅いのは、仕事だろうよ。最近忙しいってこの間綾も言ってたじゃん」

「それがうそなの。仕事なんかじゃないのよ。絶対女のところに行ってるの」

なんで、女のところに行っていると思うんだ。と言った後で自分の口を楠田は呪った。

「思うんじゃないってば!」

「いや、ごめんって。俺が、口下手なのは知ってるだろ。なんで女のところへ行っていると気がついた、と言いたかったんだって」

綾のヒステリーは楠田には悲鳴のように聞こえる。彼女の心は一度折れて以来、薬なしには安定を保てない。

そして時々薬を飲んでも、こうして不安定になる。

楠田と綾は大学時代のゼミの仲間だった。とても仲の良いゼミで、よく全員つるんでどこかへ出かけた。卒業してからもみんなで何度も集まっていたが、綾のすがるような不安定さに耐えられず、離れていった者も多い。

最後には綾がくるならやめとく、という者までいた。

30代になれば、結婚して手のかかる子供のいる者もいれば、責任ある仕事を任されている者もいる。皆自分のことで精一杯で、脈絡のない長電話や長話に付き合う余裕はない。

しかも綾は自分が病気だからだろうか、人のことを思いやる余裕がなく、自分の話ばかりになってしまう。

朋美に電話して旦那の愚痴を2時間も話し、朋美が耐えられず電話を切ると、今度は香織に電話して朋美の付き合いの悪さを愚痴る、という感じでゼミのほぼ全員に電話をしまくり、女子が先に根を上げた。

女性の方が話を親身に聞くのだろう。だからこそ、余計につかれるのだ。愚痴や悪口ばかり聞かされる時間が。

綾に対して面と向かって言ったのはゼミのリーダー格だった朋美だった。綾は学生時代から朋美を慕っていたため、朋美に電話する回数が断然多く、働きながら小さい子供もいる朋美には負担だったのだろう。

面倒見の良い朋美が綾に向かって言った。

「あんたが病気になったのは気の毒だと思う。自分のことでいっぱいいっぱいで人のことを気遣う余裕がないんだとは思う。でも友達をなくしたくないんだったら、いい加減にしな。自分の孤独に甘えるな。誰だって『だれも自分をわかってくれない』という気持ちはあるって。でもさあ、それを口に出せるほど、あんたは人のことを分かっているの。自分が出来ないことを人に求めるのはやめな。誰しも皆、自分で精一杯よ。自分の足で立ちな。あんたを理解しないからって、その子の悪口を他の子に言うのはやめな。あんたを貶めるだけよ」

綾はうなり声を上げて泣き、次の日からまた入院した。

朋美が綾の旦那に連絡を取り謝罪し、数ヶ月前からの綾の現状を話して病院に連れて行くよう言ったらしかった。

退院してから綾は女友達ではなく、男友達にばかり連絡を取るようになった。女性陣は電話に出ないようにしていると楠田はうわさで聞いた。

朋美は心配して時々楠田に連絡をよこす。心配なら直接綾に連絡すればどうかと思うが、さすがに取りづらいものらしい。

あんたもあんまり無理はせず、適当にかわしなよ。と面倒見の良い朋美は楠田の心配までして電話を切る。

綾はあれから朋美を記憶から抹消してしまったかのように、まったく話題に乗せない。最初のころは、朋美がどんなにいい子かを、最後は朋美がどんなに冷たいかを話していたのに、今はまったく口にしない。

というかゼミのメンバーの誰かの話をまったくしない。そもそも大学時代など存在しなかったかのような口ぶりなのだ。「自分を理解しないからと言ってその子の悪口を人に言うな」がよっぽど堪えたのだろうか、その部分に関してはかたくなに心を閉ざしたように見える。

「私が忙しさにかまけて、綾をおろそかにしてしまい、お友達にも随分ご迷惑をおかけしました」はご主人が朋美にした謝罪だ。ご主人は朋美に連絡をもらわなければ、そこまで悪化しているとは気がつかなかった、と反省していたそうだ。もう、3年前になるだろうか。

「ちょっと、ゲン!ゲンってば!人の話聞いてんの!」

綾に怒鳴られて、楠田はふいに物思いから覚めた。悪い悪い、昨日徹夜だからさあ。と言い訳する。

このヒステリックさに、強迫観念じみた妄想、これは悪化しているんだろうか。それとも旦那が本当に浮気しているんだろうか。医者でもないのに、判断がつくはずもない。

ただなんとなく、物事が一方向からしか見えなくなっている感じが、危うい気がする。

楠田が長年の経験で分かったことは、こういう時には、下手なアドバイスよりも、話を、言い分を良く聞く、ということだ。途中でさえぎって主張を否定してもだめだし、こうした方がいい、というアドバイスもあまり役に立たない。

話を聞き、彼女の心が悲鳴をあげている原因は何なのかを突き止めることが一番良いようだ。

綾の悲鳴は分かりやすかった。要は「旦那が自分に嫌気がさしている。別れようと言われるくらいなら先に自分から別れる」だ。

綾にとって、旦那の孝之さんが全てだ。他の人間はあくまでも代打にすぎないと、思い知らされる。

俺じゃだめか、という言葉は、結局いつも、出てこない。言う余地がないのだ。

「綾」

ヒーローはいつもタイミングよく現れるもんだな。楠田は少し感心した。綾の旦那、藤井孝之は、どうやら残業をほっぽりだして駆けつけたらしい。新宿駅から歩いて10分のこの店まで走ったのだろう、息を切らしながら綾の肩に手をかけた。

「なによ、何しに来たの」強がろうとしても綾の言葉の語尾は震えている。

あんた、なんでしゃべるのよ。楠田を睨みつけるが、目いっぱいに涙をためながら睨まれても、怖くもなんともない。というかむしろ、胸が痛い。

じゃ、俺、帰るわ。テーブルに金を置いて帰ろうとした楠田を藤井が止めた。あ、ここは私がもちます。

自分の分は払います、と無理強いしても良かったが、大人気ないので、じゃご馳走になります、と引いた。

これ以上、二人を見ていたくない、というのが本音だった。

綾がどんな風に、藤井に支えられているのか見て、冷静でいる自信がない。

ヘタレだな、俺。楠田は自嘲した。

徹夜明けで汗だくで、泥まみれで、荷物は重い。その上、楠田は電車の天井を見上げて嘆息した、心まで重たかった。

201109



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