エンタメ文化の転換期
やす子さんとフワちゃんの件を見てエンタメ文化における型が転換したことを感じました。
※この件を良いとか悪いとか言うつもりはありません。
他者をおとしめて笑いを取るというエンタメにおける笑いの型が長年正統とされてきた時代がありました。
そのはじまりはビートたけしさんであり、ダウンタウン松本人志さんだったように思います。
これこそがお笑い、これこそがエンタメ、と言われた時代は何十年も続きました。
やられた側からすれば「イジメ」にしか思えないそれを「イジリ」と表し、それに対してうまく対応できないと、ノリ悪い、ダサい、と言われる風潮は長く続きました。
私はそれが嫌さにTVをやめ25年TVない生活をしていました。
M‐1なるお笑いコンテストが始まったことも、嵐の存在も知らないまま25年過ごしました。
他者をおとしめて笑いを取る時代の前に、自分をおとしめて笑いを取る、の時代がありました。代表格は志村けんさんではないかと思います。
フワちゃんにお笑いの技術があったとは思いません。
ただ「他者をおとしめて笑いを取る」という型を先人達が作り、当たり前のようにそれを容認する社会を作ってきた人達の集大成がフワちゃんなのではないかと思うのです。ナチュラルに人をバカにしておとしめる。そういう型こそ最高のエンタメコミュニケーションだ、という時代を作った人達がいます。そういう人達にとって、フワちゃんのようなタイプは使い勝手の面白い毒・スパイスだったと思うのです。
面白いことにお笑いの歴史と嵐の歴史は重なります。
嵐のデビューは1999年。M‐1のはじまりは2001年。M-1がはじまる前にはお笑いの土壌はできていたので、お笑い文化醸成後に嵐はデビューした形になります。
嵐は最初の数年鳴かず飛ばすだったそうです。もちろんコアファンにはすでに絶大な人気があったかと思いますが。
映画やドラマを切っ掛けに認知された嵐は、お笑いエンタメ全盛期に命綱ともいえる、一服の清涼剤の役割を担っていたように思います。
嵐という誰もバカにせず誰も蹴落とさないという新しいアイドル像は、誰かをおとしめてその他大勢で笑う、というエンタメコミュニケーションの型に対して大きなアンチテーゼとしての地位を確立しました。
お笑い的他者おとしめ型
と
嵐的皆仲良し型
という2つの大きなエンタメ文化の型は時間と共にゆるやかにつながっていったようです。
お笑いの中に嵐的皆仲良し型が芽吹いていったように見えます。
嵐休止後のここ数年、嵐がゆるやかに担っていた他者おとしめ型への抑止を大衆が担い始めたのかもしれません。
大衆の、他者おとしめ型への目が厳しくなったように感じます。
嵐がいたことでうまい具合に中和され毒素が薄まり、スパイスとして機能していたお笑い的他者おとしめ型は、嵐が不在になったことでただの毒として目につくようになったのかもしれません。
ある一定のラインを越えたと誰かが感じられるコメントに対して、大衆が攻撃を仕掛けるようになりました。誰かが攻撃しているのを目にすると我も我もと攻撃が開始され、気づけば一斉攻撃。
SNSはそれを行いやすい場を提供しました。
やす子さんが呟いた「とっても悲しい」は今までのお笑いの型をぶち壊す新しい返しになりました。
ご本人は誰かを攻撃する気はまったくなかったと思います。
自分の感情を表現しただけです。ただ多くの大衆を自分の側につけることになりました。おそらく誰かに味方してもらおうという意図すらなかったと思います。
エンタメに「毒」の要素は必要なのかもしれません。
物語に「事件」がないと刺激がなくツマラナイ、という考え方はたしかにあります。
ただ毒が勝ち過ぎても良くないのでしょう。
昨今の言葉狩りにも思える誰かの失言に対する攻撃・炎上は、その浄化作用のひとつなのだと思います。
エンタメ文化は毒(スパイス)至上主義から潮目が変わったようです。
嵐的存在がまだ確立していないので、今は潮止まり状態かもしれませんが。
これから台頭してくる存在でこれから数十年のエンタメ文化の方向性が決まるのかもしれません。
そう思うとしばらく目が離せません。
日本人はこれから数十年、エンタメ文化でどの方向を目指すのでしょうか。
私たちがこれからどういうエンタメフィールドで生きていきたいのか、にかかっています。
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