細やかな子供の頃の夢

私は子供の頃,可愛い洋服を着てキラキラして歌っているアイドルになりたかった。それは、私が歌や音楽が好きだったからだった。とは言え,とっても恥ずかしがり屋だったので、もっぱら歌うのはお風呂でだったりした。だから家族は勿論、親戚の前でも歌うなんてしなかったので、私が歌や音楽を好きだった事は家族もあまり知らないと思う。

アイドルになるのを諦めたのは、早かった。なにせ、アイドルったら皆んな可愛いし、美人だからだ。私もなりたいとは思っても,鏡と相談すれば子供の私でも無理だとすぐ分かった。それに私は,幼少期からアレルギー性鼻炎を発症していて,いつも鼻が詰まっていた。だから,それが声にも影響しているし,呼吸にも影響していると思っていたから、この病気がある以上はアイドルにはなれないと諦めていた。

でも、歌や音楽が好きな気持ちはずっと持ち続けていて、思春期にはバンドブームが来たから、沢山のバンド音楽に触れたりした。その時バンドを組みたかったけれど、組まなかったのは、組めなかったからだった。なんで組めなかったか?

それは遡る事小学生の時、ピアノが習いたくて初めて母に本気でピアノを習いたいとねだったのだが、あっさり「習字や算盤なら人生に生きるから良いけど,ピアノは何もならないからダメ」と言われて傷付いた事が発端だった。

私の中でやりたい事をやれなかったショックは大きく、諦め癖がついてしまった事。そして、ピアノを習えば音符が読めるようになると思っていたのに、それが叶わなかったから、音符を読めないコンプレックスがずっと残ってしまったからだった。

だから中学生の時だって、吹奏楽部があったけれど、楽譜が読めないから楽器は演奏できないと思い、行く前から諦めてしまっていた。それに吹奏楽部は、楽譜を読める楽器経験者だけが行くものだと強く思ってしまっていたので、行く気にもなれなかったからだ。

高校生になり、バンドブームの中バンドを組みたいと思っていたけれど、楽譜が読めないから当然バンド活動なんかもあっさり諦めてしまっていた。それに私の住んでいた地元には、楽器店も無ければ練習スタジオも無い。楽器を教えてくれる教室も居ない。カラオケも,ブームが来てから数年後にカラオケ店が出来るレベルの超田舎だったから、たとえ私がバンドをやろうと周りに言っても、同志を集めるのさえ困難だったろうと思う。

そんなんで私は、夢を持ちながらも叶うわけ無いと思いを持って、普通に社会人になった。それでも音楽は好きだったから、色々なアーティストのライブに行ったりはしていた。そんな日々だったが、20代の頃に一度、友達に付き添ってもらってオーデションに行った事はあった。小さな部屋で、カラオケが流されマイクに向かって歌を歌っただけで終わった。そのオーディションは、プロデュースする側の人が歌を作るから、歌ってくれる人をオーディションすると言う、ちょっと怪しさを感じた内容だった。私はその方と会う事も無く、顔を見る事も無く、不合格を言い渡されて帰った。

不合格も、アレルギー性鼻炎があるからだと思ったり、怪しいオーディションだったから、何か違う目的の為だったのかも⁈と思ったりして、ガッカリした気持ちを色々紛らわそうとした。でも結局、次にまた別のオーディションに行こうとは思わなかったのは、自分の夢に1番ネックだと思っていたアレルギー性鼻炎が、当時根本的な治療方法が無かったからだった。ここでも,諦め癖が顔を出していた。

そうやって大人になっても、子供の頃からの細やかな夢を持っていたけれど、仕事で忙しくなったり、恋愛したり、そしてそのうち結婚して子供が産まれ,自分の時間が無くなると共にどんどん忘れられて行った。

そんな私が、また本気で音楽と向き合うキッカケになったのは、主人の突然の死だった。くも膜下出血、51歳の若さでこの世を去ってしまった。私は悲しみに暮れる間も無く、葬儀や沢山の死亡手続きに追われた。そして、その年大学に入れなかった娘と、その時高校3年で大学に行きたいと言う息子を、どうやったら大学まで行かせてあげられるだろうと、悩み考えていた。

私は長年勤めていた配送業のパートをやりながら、ハローワークに通い、履歴書を書き、職務経歴書を慣れないPCで作成し、担当者さんとやり取りして、応募先に郵送し続けた。事務職で正社員希望だったが、事務職やPC操作など相当な年月のブランクがあり、そもそもExcelがPCに無いし、私も全然分からずで本当に困った。でも、PCを買ってExcelを練習したり、何十件と言う履歴書を書き、職務経歴書を作成して地道な努力をして、やっと面接に応じてくれる所が現れた。言うまでも無く、私の年齢PC操作のブランクの為、20件近くの企業から採用を見送られた。

やっと採用になった企業には、試用期間3ヶ月経過後に正社員採用と伝えられ、新しい部署を作るからそこに配属と当初は聞かされていた。ところが、行くと話がちょっとずつ変わって来て、商品企画室配属なのに、工場の横のスペースにお店を建てるから、パートやバイトの管理をして欲しいと言われて,管理職の研修を受けたり、工場の事を知らないとダメだからと、本社工場で1週間作業する事になったり。別の県にある工場で、商品の試作を手伝えと言われて出張したり、ネット通販するから通販サイトの研修に出ろと言われたり、その間ずっとExcelの練習や電話応対をしたり。大きくやる事がコロコロ変わり,対峙する相手も上司だったと思えば、先輩社員、本社工場内の人達、他県の工場の人達やそこでの社員さん等、情報量が多くて参ったし、日帰り出張先の工場から帰ると遅い時間なのに、翌日は早く行かなければならなかったりで,生活リズムもボロボロになり、先輩社員からのパワハラや、常務のパワハラもありで、大きなストレスから私は耳が聞こえにくくなってしまった。


特に常務は、夫の社長と一緒に社長室にいる事が多く、となりの事務所での私の電話応対を聞き耳立てていて、なってないと別室に呼び出し、他の事もそれに乗じて注意して来た。それを更に私の先輩社員が、常務と同じ様に別室に呼び出し、誰も聴いていないところで、以前クレーム処理会社にいたから、あなたの対応がとんでもなくなってないのが分かると、私の以前働いていた運送会社の社員さんの電話応対をバカにしたり、私をけなしたりした。

それで耳が聞こえにくくなってから、数日病院に通って少しは聴力が戻ったタイミングで、私はそれを辞める理由に出来ると思い、辞める意思を上司に告げた。その頃、急に喉にも違和感を持っていて,急に食べ物飲み物が飲み込みにくくなったりしていた。辞める意思を告げ、数日後退職願を書きに職場まで行き、手続きし終わると翌日、私は声が出無くなった。

声が出せない。仕事が出来ない。収入も無い。治るかも分からない。これに心配した母が,生活費の資金援助をするから,暫く仕事のことは考えず体を休めなさいと言ってくれたので、初めの1ヶ月は病院に通いながら仕事の事を忘れた。声の事も、耳鼻咽喉科や心療内科を受けたが、原因もハッキリ断定できないし、治療方法も無いと言われたが、耳鼻科の先生が良い先生で、効くかどうかは分からないが、ストレスでの喉の違和感に効く様だからと、漢方を処方して下さり、ダメもとで飲んでいた。

それが徐々に効いて、1ヶ月後には声が出る様になり本当に安堵した。すぐ仕事を探そうとしたが,母がもっとゆっくり休めと言うので,そこから2ヶ月体と心を休め、ようやく仕事を探そうと言う気になったら、ハローワークでは無い所で正社員の事務職が見つかり、試験に行くと合格して採用される事になった。

ところが今度は,そこで先輩社員のイジメにあった。パワハラと言うより,陰湿なイジメで、皆んなが分からない所で嫌味を言ったり、事務文具の扱いも自分優先しろとか、そこに置けとか、その人が私と同じ係になったら、自分の仕事を私に大量に回して来て、自分は早々に帰るとか、自分の都合の良い様に仕事の仕方を変えると言う事をしてきたので、また声が出なくなったらたまらないと思い、有給を貰えるまであと1月だったが辞めると申し出た。

他の部署の方が私の辞める事を聞きつけて,話を聞いて下さった。するとどうやら私にイジメをしていた先輩社員は、今まで何人もそうやって同僚を辞めさせてきた事が判明した。私は辞める理由を、内勤の方には話さないで辞めようと思っていたが、何人も犠牲者がいたとなったら話は別だった。内勤トップの女の方が、私に事情聴取しに来たので、その人が一番の理由だと述べて辞めた。

それから私は、同じ事が2度起こった事について考えた。なんで、パワハラやイジメにあったのだろうと。その理由はすぐ分かった。それは私が初めてやる事ばかりで、心配や不安が大きく萎縮していたからだったと思った。それに天から、『事務職をやるな』と言われている様な気持ちになった。
それで私は、自分のやりたい事だけをやると決めて、お花や土いじりが好きだったから,農業をやろうと決めた。そしてその頃から、主人が生きていた頃に3ヶ月で挫折したアコギを,もう一度挑戦してみようと思い,少しずつやり始めたり、これまでの自分の人生を変えたいと思い,量子力学のセミナーに通う事に決めたりした。

農地取得には、金銭的な事、金銭的な支援を受けるには年齢の事、私が住んでいる市が新規就農に力を入れていない事、精神疾患があった息子を置いて,私が農地取得のために他県に移住できない事等、超えられないものが沢山出てきて、新規就農は諦めざるを得なかった。

でも、ご縁があった農業委員会の方から、遠回りの様だけれど、パートなどで収入も得て農家さんと繋がり、そこから更に違う農家さんとご縁が出来て農地取得が出来るかも知れないから,そうしてみたらどうか?と提案があった。そこから私は、今雇って頂いている農家さんのパート募集に応募して、ご縁が出来たのだ。その農家さんでは本当に皆さんから良くして頂いて,楽しく幸せに農業やお野菜の販売をさせて頂いている。

その頃から私は、アレルギー性鼻炎の治療にも励み出した。たまたま息子の診察で行った大学病院で、耳鼻科がある事を目にし、慢性アレルギー性鼻炎の根本治療は舌下免疫療法がある事を知っていたから、その大学病院では舌下免疫療法を行っているのか?聞いてみた。すると、来月から開始予定だと言う。凄いタイミングだと思い、私は翌月から舌下免疫療法をその大学病院で受ける事にした。最低でも2年行う。長いと思ったが、この病気のせいで諦めた事が大きすぎたから、そんな自分の諦め癖を直すためにもこの治療は必要だと思った。

そして私は子供が小学生ぐらいの頃に、声帯に小さなポリープが出来て、完治するには1ヶ月程あまり喋らないと言われていたのを、どうしてもやんちゃな子供達を前に大きな声で制したりしていまい、完治させられなくしてしまっていた。それが原因で、ファルセット(裏声)が出なくなってしまっていた。調べると、その声帯にできたポリープは『声帯結節』と言う名前だと分かった。

私は、アレルギー性鼻炎を治療して頂いている先生に、『歌いたい』と恥ずかしながらも申告し、見て欲しいとお願いすると,薬を処方して頂き、3ヶ月程すると声帯結節は小さくなった。でも、また歌ったりすると声帯結節が大きくなってしまい、やはり治らないのかもと治療を諦めた。

アコギの方は,前回挫折した事とは違う方法でやって行こうと決めて、前回はひたすらコードを覚えて、押さえ弾くと言う事の繰り返しで、私的に本当につまらなかった。今回は、1秒でも触ればその日のノルマは良しとし、コードを覚えるのでは無く、曲を弾く事に重きを置いた。だからか、少し弾けてくると楽しくて,私はどんどん上手くなりたい欲求が高まって行って、誰かに習いたいと思う様になった。けれども自分に自信がなくて,どうしてもギタークスールに通う勇気が持てないでいた。

そんな時、量子力学のセミナーが最終ステージを迎え、終わると言うタイミングだった。そこで私は、同期や先生、事務局の皆さんの前で、アコギを披露して歌う機会を頂いた。それはそれは緊張もあり、未熟さもありで、ギターも歌もド下手だったけれども、昔の夢だったアイドルやバンドに一歩近づけた様な気持ちになった。そして聞いて下さった皆さんから、温かい応援や拍手を貰って、大きな勇気を頂けた事で、ギタースクールの門を叩く事が出来た。

私はギタースクールの先生との出会いもあって、アコギの楽しさにハマって行き、もっと上達したくなった。そこで先生にどうしたら,更に腕が上がるのか?を聞くと、サークルやバンドに入れば良いと言われた。

でも,自分の年齢や音楽経験の浅さなどで、どうしてもバンドを組む勇気が持てなかった。そしてやるならサークルでは無く,私が夢見ていたバンドだと思っていた。あるレッスンの日に,先生にどうしてもバンドメンバーを募集したり,応募したりする勇気が出ない事を打ち明けた。すると先生は「出来ないなら無理にやらなくても良いと思いますよ」と言うので,私の恐れを肯定してくれたのだと思った。ところが続けて、『僕なら明日死ぬとしたら、これをやらなかったら後悔すると思った事は、やる様にしています』と言うでは無いか?

先生は私よりも一回り以上も若い。その若さで,そんな思いを持って行動出来ている事に私は感心して、素直に先生の考えは素晴らしいと伝えた。すると先生は、『僕は全然すごく無いですよ。ただ人より多く失敗しているだけです』と言われた。
その言葉を聞いて私は『ああ、私は失敗するのが怖かったんだ』と自分が動けない理由を理解した。そして、『今の私に何か失う物があるのかな?』と思った時に,何も無いと思った。それで私は、誰かのバンド募集に応募するのでは無く,私がやりたいバンドの形を私がやる!と決めて、バンドメンバー募集に踏み切った。それも,私が大好きなスピッツのコピーバンドで。

すると、ダメ元で出した募集にも関わらず、2週目に応募してくださる方が現れて、それから何人か?スタジオ練習が始まる前に、出たり入ったりがあったが、募集開始3ヶ月目でやっとアコギの私とペースさん、ドラムさんでスタジオ練習が出来た。そして、翌月にはエレキさんが入り、スピッツの正規パートが揃い2回目のスタジオ入りが出来た。そして次の月にもスタジオ入りの日も決まり、バンド活動が加速してきた。

ところがバンド活動が進んで来ると、私がやりたい曲や他のメンバーがやりたい曲が,私が歌えない事で選曲できない事に気付いた。それは、これからのバンド活動に支障が出ると思ったので、私はやはり喉の治療を諦めずに、どうにか出来ないものかと頭を捻った。

すると、以前ボイスセミナーに行った際に、講師の先生が都内のボイスクリニックの話をされていたのを思い出し、声の専門病院ならなんとかなるかも⁈と考え、そこに行ってみようと思った。行った事ない病院の、治るかも分からない私の症状、原因も分からない自分の喉状態。私は怖がりなので,行った事のない病院、会ったことの無い先生、どんな事をするかわからない治療、と、とにかく不安はあった。でも、行くだけ行って見てもらおうと受診する事にした。

色々検査をして、先生との質問にも答え、聞いた結果は上咽頭炎だと言う事だった。でも、病名が分かり,治療方法があると言う事で,私にはとても希望が持てた。治療はめちゃくちゃ痛くて、喉をグリグリと専用の器具で掻き回され?血が出るのだけれど、ちゃんと歌いたい思いと、メンバーがやりたい曲をやって貰いたい思いで、我慢出来ている。その治療を毎週行い、長い人で半年。短ければ2週間程度で、7割の方が完治すると先生がお話しされた。

2025年の年が明けて3週間目頃に、私がバンド募集を掲載しているサイトに、メッセージが寄せられた。キーボード希望の方のメッセージだった。バンドメンバーからは、キーボードはなかやか見つからない、来ないと言う話を聞いていたのだが、私は2024年の12月には来るだろうと、意図していた。でも来なかったから、『まぁそのうち来る』と天に委ね、ただただアコギや歌を楽しんでいた。そして,少し遅れて2025年の1月第3週目に、キーボードの方が現れて加入の意思を示して下さった。それは飛び上がるほど嬉しくて、皆んなで奏でる音楽がどんな音色を紡いでいくのだろうと、ワクワクしかなかった。これで、バンドの全パートが揃った。

こうして私の夢は叶った様に見えるかも知れないが、いやいや違う。私の夢は,バンドでステージに立つ事だからだ。それもちゃんとお金が発生して、私達のバンドを観たい,聞きたいと思って下さる方々が,沢山来て下さる事だ。私のこの夢は,きっと大の大人が本気でそんな事を言って、馬鹿だなぁとか、叶う訳無いじゃん!と思う人がいて,笑う人もいるかも知れないと思う。

けれど、子供の頃に描いたささやかな夢が,本気で追い掛けようと思った時に、自分をどれだけ動かすのか?そしてどんなに楽しくて、どんなに自分を解放して行くのか?それを,今の若者達や子供達に見せたいのだ。

だって,夢を追いかける事は本当に楽しいから。そして掴んだあとはきっと,もっと楽しい事が待っていると思う。私の夢を,叶う訳ないのにって笑う人が居ても,バカにする人が居ても良い。でも、そんな風に思われてしまう様な事も,大真面目にやってる大人がいて、とっても楽しそうにしていたら、その姿は凄く輝いて見えるだろうし、若い子や子供達も何か感じてくれたりすると思う。そんな大人が居たら、この世の中少しは面白くなる様な気がするし、そんな大人が増えたら、この世の中オモロくて楽しくて生きやすい世界になると思う♪

貢献とか奉仕とかそんな大きな事は,私は一個も思って無い。ただ,ただ,自分の夢を、好きな事を夢中でやるだけ。歳とかは関係ない。子供の頃からのささやかな夢を、周りがどう思おうと、ただ追って行く。その先に、きっと私が作る軽やかで優しく楽しい世界があると思うから♪
その世界には沢山の笑顔があって、私はその笑顔をだだ見たいだけなんだと♪





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