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文化と情動
電車の中で大声で泣く子供。泣き喚く子供に注目する大人たち。恥を感じながら、必死に泣き止まそうとする母親…
日本では集団から目立つことを否定的に捉えることがあるため、このように子供が公共の場で感情を表現すると、その感情を抑えるように諭されます。どこまで共通化できるかわからないですが、公共の場では規範となる行動は決まっているみたいです。また授業の最後に先生が質問がないか聞くときに、一切手が上がらない光景も、皆が集団の和を乱したくないがゆえに見られる現象でしょう。個々人が社会の規範を守り、集団の調和を実現しようと駆り立てられます。
それゆえに場面によって持つべき情動があり、望ましい情動を持つようにチューニングしなければいけません。素直に自分の気持ちを打ち明けるのは、否定的に捉えられることが多いです。このような情動はours型と呼ばれています。ours型の情動は人間関係的で、社会的な規範に合わせた情動の生成が求められます。その時の状況に合わせて、表出する感情をチューニングしないといけません。
例えばスパルタな部活では、部員は常に練習に対して意欲的で勤勉であることが求められます。そこでは「常に高いやる気を持つこと」が理想とされます。そんな中でどんなにやる気がなくても、「ダルい」とか「モチベがわかない」などと顧問に言うのは許されません。これは自分の内面より集団の規範を優先させないといけない一例です。
他にも私たちは怒りを表現することも否定的に捉えられます。なぜなら怒りは集団の調和を乱すためです。だからどんなにイライラしていても、怒りの表出は抑えないといけません。どこの場面でもそうですが、よく怒る人は周りから肯定的に見えづらいです。私も子供の時は、喧嘩をすることが悪いことかのように教わりました。
また場の空気を乱さないようにするために、「申し訳ない」という謝罪の気持ちを言葉にすることが多いです。仕事でメールを送る際に、「大変申し訳ありません」や「恐縮ですが」などと言葉を添えるのがその一例でしょう。すぐに謝罪することによって、自分の非を認めることになるので、対立が少なくなるのです。集団の調和が日本文化で美徳とされているので、謝罪の言葉の使用がマナーになっているのだと考えられます。
このようにours型の情動は自分の内面よりも人間関係が優先されます。また個人の感情よりも、外部から見える行為が評価されます。例えば昭和の奥さんの規範として、笑顔で旦那を出迎えることが規範とされてきました。ここに奥さんの感情は全く考慮されていません。つまりoursの文化圏では、集団の規範を取り込み、望ましいとされる情動を育むことが求められるのです。情動は内から湧き出てくるものでなく、外部から吸収していくものという捉え方です。
このような情動の捉え方は、団結力を育むうえで相性がとても良いのでしょう。個々人が集団の規範や価値観を積極的に内面化していくわけです。そうすると同じ状況であれば、皆が同じような感情を持つようになっていきます。
mine型の情動
一方でours型と異なったmine型という情動もあります。これは情動が自分の内面から表出されるというものです。このような情動の捉え方をする文化圏は、個々人の感情が尊重され、自分の持つ感情をありのままに表現することが価値に置かれます。
例えば個人主義を象徴するアメリカでは、喜びを興奮気味に表現する人が見られます。大声をあげ、両手でガッツポーズをするような光景です。これは喜ばしい気持ちを他人に伝わるように表現しているのでしょう。調和を重んじる日本では、こういった表現は、和を乱すものとして否定的にも見られます。日本には勝ったときのガッツポーズを禁止するスポーツがあるくらいで
す。
文化圏での怒りの違い
他にもmine型の文化圏では、怒りの感情が有用な使われ方をします。怒りは自分の名誉を軽んじられないようにするのに効果的なのです。日本でも自分が傷ついたときや軽んじられたときに怒りを表現すれば、周りから都合よく使われることは減っていくと思われます。だから怒ることが悪いと安直に結論付けることはできません。
個人化が進む現在
この2つの情動の捉え方は二項対立するものではありません。集団主義の文化圏がmine型で情動を捉えることも往々にしてあります。日本も個人化が進んでいて、だんだんと個人の心が重んじられるようになってきました。昔は上司が飲み会に誘ったら、部下は笑顔で「行きたいです」と言うことが求められたはすです。この時に部下の気持ちは全く尊重されません。部下は上司の指示を守るという規範に則るしかなかったのです。
ただし今は部下が行きたくないなら、上司からの誘いを断ることができます。さらに上司がその誘いを強制しようとするものなら、それをパワハラとして訴えることも出来るわけです。つまり部下の気持ちが尊重されるようになってきました。
他にも「自己肯定感」という自分の内面を表現する言葉が流行ったり、MBTIなどの自分の性格を計測するツールが流行っているのも、mine型の情動の捉え方が普及していることを示しています。
日本も集団の親密性がだんだん薄くなってきています。家族や学校、企業などの集団が、厳しいルールで個人を縛ったり、明確な価値観を示して行動を動機づけることがなくなっていきました。閉鎖的な集団に属することの息苦しさからは解放されたと言えるでしょう。
このように情動には2つの種類があり、日本ではours型からmine型に比重が高まっていると考えられます。そうなると他人を理解するために、共通基盤がなくなってきたので、対話が必要となってきます。さらに異文化交流の機会が増加しているので、対話の必要性は増しているでしょう。
異文化の人との交流する際、きっと私たちが違和感を持つ部分はきっと出てくると思います。例えばはっきりと反対意見を言うことや怒りを示すことは、日本の文化では否定的に見られます。しかし他の文化圏では肯定的にも見られるのです。もしこのような場面に直面したら、他者の合理性に耳を傾けることが大切です。耳を傾けずにその人に対して、「空気が読めない」と否定的な評価を下すと、溝が埋まなくなってしまいます。
そのため他者の感情表現に違和感を持ったら、その表現の背景に耳を傾ける必要があります。そして背景を自分の中で理解しなければいけません。この過程は手間がかかります。ただ自分の見える世界に彩りを持たせるため、文化的な謙虚さを持ち、「なぜこの人はこう感じたのだろう?」という問いを心のなかに宿すことは大切だと痛感しました。
【参考書籍】
※下記の本から2種類の情動の考え方を引用しています。
文化はいかに情動をつくるのか―人と人のあいだの心理学