善逸について語るときに我々の語ること①善逸が壱ノ型しか使えない理由
(9/21日21;47分、追記修正しました。)
村上春樹風の、キザなタイトルにしてみました。
こんにちは!
9月の4連休ということで休日1日につき1つはnote更新したいな!という目標を掲げまして、これで3つ目でございます。
(表紙画像はTwitter鬼滅の刃公式からいただきました。)
善逸についてはもうすでにたくさんの人に考察されていると思うので今さら語るべきことなんか何一つ残っていないと思うのですが、俺は俺が語りたいことを語る!!というスタンスでやらさせていただきます。
よろしくお願いします。
今回は「善逸が雷の呼吸壱ノ型しか使えない理由」について考察したいと思います。
これについてはまず最初に、逆説について考えておきましょう。
逆説1;善逸はなぜ壱ノ型だけ習得できたのか
そもそも「壱ノ型 霹靂一閃」とはどんな技なのか。
漫画やアニメでみる限り「居合」であると思われます。
(余談;「居合」で個人的に真っ先に思い浮かんだのが「座頭市」でした。しかも盲目の剣士で、見えない(眠っている)状態で戦う善逸ともカブります。)
「居合」についてはこちらをご覧ください。↓
引用①https://日本の歴史.com/2018/01/居合/
引用①から一部抜粋させていただきます。
居合の基本的な戦術は、初撃で先制あるいは防御、二撃目または三撃目でとどめという構成になっています。
そのためには相手の敵意や攻撃態勢を察知し、抜くと同時に斬り付ける「抜き付け」という技法が居合の根幹となります。
「防御」には「躱す」も含まれていると思います。初撃、二撃、三撃全てがとどめの斬撃ということでしょうか…?しかし「「抜き付け」という技法が居合の根幹」でもあることから、初撃でとどめを刺すことが基本だと思われます。
「壱ノ型しか使えない」というのは言い換えれば「とどめしか刺せない剣士」ともいえるかもしれません。
では、獪岳に出来なかった事が、なぜ善逸には出来たのでしょうか?
4巻で育手の桑島さん(以下、爺ちゃんと呼ばせていただきます)が言いかけていましたが「才能が」あるからでしょうか?
しかし才能があるなら善逸は全ての型を習得しているはずです。
善逸自身は全く気づいていないようですが…。
とりあえずここでひとつ仮説を立てておきます。
仮説1;「善逸は壱ノ型しか使いたくなかった」
17巻を読んでいて、この仮説を立てるに至りました。善逸が爺ちゃんの最期を獪岳に伝える場面です。
「腹を切った時 誰かに首を落として貰えなきゃ長い時間苦しんで死ぬことになる 爺ちゃんは自分で喉も心臓も突かず死んだ
雷の呼吸から鬼を出したからだぞ!!」
鬼になったせいで爺ちゃんは死んだ、と善逸は獪岳を責めます。それと同時に爺ちゃんが「長い時間苦しんだ」ことを涙を流して悲しんでいます。
善逸は爺ちゃんがどれだけ苦しい思いをしたか、ということに思いを巡らせて悲しむことが出来るとても優しい少年なのです。
爺ちゃんだけでなく、もしかしたら善逸は鬼に対しても「長い時間苦しむのは可哀想だ」という概念を持っているのではないでしょうか。
これは炭治郎の話ですが、1巻で炭治郎が初めて鬼を殺そうとしたとき、こう言っています。
「頭骨を砕いて完全に潰すにはやっぱり何度か頭を打ち付けないと……苦しむだろうな 一撃で絶命させられるようなものはないのか…」
以前書いたnote「善逸はなぜ箱を庇ったのか」でも書いていますが、善逸はもうひとりの炭治郎だとぼくは思っています。
善逸にも「鬼を殺すなら一撃で」という気持ちはあるのではないか、と推察しています。
さらに、「善逸はなぜ箱を庇ったのか」でも書きましたが、善逸は「生殺与奪の権」を放棄しています。これは暴力を放棄していることでもあり、相手を殺すか殺さないか、の決定権も放棄していることになります。
また、命の危険を感じても善逸はまず「逃げる」ことを最優先します。善逸は刀を振ること、暴力を振るうことを極力避けています。
逃げても逃げても、どうしても自分の命、あるいは守りたい人の命が危なくなったときだけ善逸は「暴力を振るうことを避けている普段の自分」から意識を遠ざけ、仕方なく刀を振るいます。敵に「一撃でとどめを刺す」のはできるだけ苦しむ時間を少なくしようという、善逸の最期の慈悲かもしれません。
だからこそ善逸は、いたずらに相手を傷つけるだけの型を習得することができず、「初撃でとどめを刺す壱ノ型」しか習得出来なかったのではないでしょうか。
逆に獪岳は爺ちゃんが長時間苦しんで死んだことに「それがどうした」と言ってしまえるほど冷酷で、「爺が苦しんだなら清清するぜ」とむしろ喜んでいます。この慈悲のなさが、獪岳が壱ノ型を習得できなかった理由のひとつではないでしょうか。
逆説2:獪岳はなぜ壱ノ型を習得できなかったのか
次に獪岳の視点から考えてみます。
「居合」には流派によるのかもしれませんがもうひとつ大きな特徴があります。
「一撃に全身全霊を懸ける」です。
一撃にすべてをかけているわけですから、もし相手に少しも傷を付けることもできずに躱されてしまったら、すぐさま反撃を食らって死んでしまいます。
獪岳は「生きること(勝つこと)」に強い執着を持っています。
17巻、獪岳が上弦の壱に遭遇したときのことを振り返っている場面。
圧倒的強者に跪くことは恥じゃない 生きてさえいればなんとかなる
死ぬまでは負けじゃない 地面に頭をこすりつけようが 家がなかろうが泥水をすすろうが 金を盗んだことを罵られようが 生きてさえいればいつか勝てる 勝ってみせる そう信じて進んできたんだ
死ぬのは怖いです。こればかりは獪岳に同情してしまいます。上弦の壱に遭遇したことは本当に不幸だった。
ですが獪岳が鬼になったら、爺ちゃんは責任を取って腹を切らなければなりません。鬼を野放しにすれば誰かが殺されてしまいます。
獪岳は誰かの命より自分の命を優先しました。
でもこれを責めることができるでしょうか…。
話を戻しましょう。
雷の呼吸壱ノ型は先程言ったように、「死ぬ危険が高い技」です。
またここでちょっと炭治郎の話をさせてください。
1巻1話で義勇に立ち向かっていく炭治郎は、自分が斬られた後で義勇を斧で倒そうとしました。
「剣を抜く」というのはその時点で、「自分が死ぬのを覚悟する」のと同じなのです。
獪岳は生きることに強い執着を持っていたため、「自分が死ぬ覚悟」が無く、「死ぬ危険が高い壱ノ型」だけ使えなかったのではないかと思うのです。
善逸も「生きること」への執着は強そうですが、「刀を抜いたら自分が死ぬことを覚悟しなければならない」ことを知っているからこそ怖くて逃げ回っているのかもしれませんし、善逸は獪岳と違って守りたい人がいるからこそ覚悟して刀を抜くことが出来るのだと思います。
以上、「善逸が雷の呼吸壱ノ型しか使えない理由」でした。
ありがとうございました。