ヘルパー(20882文字)

[律視点]
親のいない障害者がどうやって暮らしているか知っているだろうか。
僕の名は律。発達障害として訪問ヘルパーの介護を受けている。
と言っても入浴や排泄は問題ない。買い物も、少し難しいけれど何とかなっている。
問題は料理だ。1品作るのになぜか3時間もかかってしまう僕は、手先が不器用で段取りも悪く、何をやっても要領が悪い。だから、いつも食事を作るのが遅くなり、洗い物まで体力が持たない。
それで、毎日ヘルパーさんが来てくれることになっている。
僕とヘルパーさんの2人で、料理の指示を受けながら作る。
食事を作ってもらえるグループホームもあるけど、僕の場合は自分で作らないといけない。
どうしてなのか。理由は簡単。
親がいないからだ。
介助に来てくれる綾さんというヘルパーさんは、まだ若くてとても優しい人だ。
料理の教え方もうまくて、本当に助かっている。今では料理がとても楽しみだ。
でも。
でもさ。
一人暮らしの男の家に女性のヘルパーが一人でやって来るなんて、日本はおかしい。しかも彼女は無防備すぎる。
今日だって、料理を教えてくれる時もエプロンを着けずに、Tシャツとジーンズのまま、胸元もあらわに近づいてくるんだもん。
思わず包丁から目を逸らしてしまって、指を少しだけ切ってしまった。
「あ、痛っ…」
「まあ、たいへん。見せてください」
彼女が手をつかんで引き寄せた。
目の前に彼女の顔がある。しかも石鹸のいい匂いまでするし。
「あ、綾さん、ち、近いです!男女七歳にして席を同じうせず、ですよ」
「あっ、ご、ごめんなさい!仕事柄つい、お節介を焼いちゃいました。えへへ……恥ずかしいですね」
その笑顔に心臓が破壊されるかと思った。
合法でこんな事が許されて良いんだろうか?
こんなの、レンタル彼女と同じじゃないか!
完成した料理を食卓に並べながら僕は言う。
「あの、よ、良かったら少し、食べていきませんか…」
「ごめんなさい。利用者さんのお宅での飲食は禁止されているので…」
「そ、そうですよね。すみません。僕がどうかしていました」
「うふふ、それじゃあ律さん、また明日」
「はい、お疲れさまでした!」
玄関先で見送る僕の方を振り返り、綾さんが丁寧にお辞儀をした。
僕も丁寧なお辞儀をして、ドアを閉める。
「はぁ……緊張したぁ」
背中を触ると、緊張で汗がにじんでいた。こんなにシミになって、綾さんに引かれてないと良いんだけど…。
綾さんは、いつものように颯爽と帰っていった。僕はそれを窓の外からいつまでも見つめていた。
(当たり前だ。ヘルパーと利用者の恋なんて…)
別に禁止されている訳ではないけれど…まかり間違うとまるで風俗サービスだと勘違いしてしまいそうな自分がいる。
夜に一人でそういう妄想をしてオナってばかりいるので、最近では現実と妄想が混濁しがちだ。
綾さんには大変申し訳ないと思っているから、僕がこんな卑猥な妄想ばかりしていることは何としても隠し通さねばならない。
「さて……食べるか!」
僕と綾さんの2人で作った夕食。
今日は鯵の煮付け、味噌汁、肉野菜炒め、サラダの4品。
綾さんと一緒に作ったから、ものの1時間で作れてしまった。
綾さんの包丁さばきも、火の通し方も、何もかもが勉強になる。
「僕もがんばらないと」
僕が料理が一人でできるようになったら、もう綾さんとは会えないのか。
でも、いつかは一人でできるようになりたい。
そして、綾さんの晩御飯を僕が作ってあげたいんだ。
僕たちの作った料理は、すごく優しい味がした。
***
[綾視点]
18歳で、子供を産めない身体になった。
医者からは、妊娠・出産は無理だと宣告された。
それからというもの、私は仕事一筋で生きることにした。
人の役に立ちたくて始めた介護の仕事。でも、現実は甘くなかった。
介護の仕事には、セクハラが付き物だった。
男性利用者からの執拗なお尻タッチ。
女性職員への性的な嫌がらせ。
時に家族より親密な行為をする以上、ある程度の性的な行為も容認されていた。
だからといって、そんなことが許されていいはずがなかった。
私だって人間だ。そんなことばかり続けば心が削れてしまう。
もう、辞めてしまおうか…。
そんな時だった。
律さんという利用者さんのお宅へ行くことになった。
30代の男性という事だったけれど、発達障害のためか未成年のような印象を受けた。
しかも、重度の自閉症らしい。
話を聞いてみると、私の事を母親と勘違いしているふしがある。
お手伝いは共同で料理をすること。手順や野菜の切り方などを教えていき、いずれは自炊を目指す。
「綾さんは、自分のご飯はどうしているのですか?まさか、人の食べるものばかり作って自分はコンビニ弁当だったりしませんか?」
確かにその通りで、最近は食事を作る時間も取れなくなっていた。
「実は、最近あまり食欲がなく、簡単なもので済ませています。」
「それはいけませんね。ちゃんと食べないと、僕みたいに弱くなっちゃいますよ。ほら、あーんしてください」
律君は箸でニンジンの煮物をつまみ、口元へ運んでくる。
私は戸惑いながらも口を開け、律君の差し出すニンジンを食べる。
咀しゃくして飲み込むと、
「おいしいです。とてもおいしい」
と笑って見せた。
本当は、利用者さんから提供される飲食物を口にしてはならない。よく、毒を盛られたりする事件があるからである。でも、これは、私も一緒に作ったのだから問題ないだろう。
それに、いつも一人で食事させてしまうのもなんだか可哀想に感じるから。
律君は嬉しそうにするかと思いきや、なんだか様子がおかしかった。
手で顔を覆いながら、
「綾さんの口から僕の食べたものが……」
とかなんとかブツブツ言っている。
私は勝手に律君はこういうのが好きなのかと思っていたけれど、違ったようだ。
それから、彼はお昼ごはんを作るとき、自分の読んでいる本や病気の話をするのが大好きだった。
「こないだ、代謝内科で、反応性低血糖の検査を受けたんですよ。そしたら、やっぱり陽性でした。今の医学はぜんぜん遅れてます。どうして医者は単純なビタミン欠乏症をほかの病気と誤診するのでしょうか。いい迷惑です」
ぷんすかと怒る姿がとっても可愛くて、私は思わず胸がきゅっとしてしまった。
律君と過ごす日々は楽しかった。
彼と一緒にいると、嫌なことも全部忘れられるような、そんな魅力があった。
一人の時はいつも本を読んでいるようで、その内容を私に分かりやすく教えてくれる。
そして、絶対にセクハラなんてしてこない。むしろ、いつも3歩ほどの距離を取っていて、やむを得ず接近する時は必ず目をそらすくらいなのだ。
ある日、私がちょっと体調が悪い日が続いた。
熱っぽくてだるさがあったのだが、朝の時点では大丈夫だと思い、律君の家に行った。
ところが、律君の家に着くなり、急に倒れてしまったのだ。
「えっ、綾さん!?」
彼は私を抱き寄せ、額に手を当ててくる。
(どうしよう、律君に抱き締められている…)
自分で思う以上に体が反応してしまっていた。
「綾さん、水飲んで」
律君は私の鞄から水筒を取り出して、コップに注いでくれる。
それを飲んだことで、少し落ち着いた気がした。
律君は私をひょいと抱え上げると、ベッドまで運んでくれた。
そして、優しく布団を掛けてくれた。
彼の顔は心底心配してくれている様子だった。
その優しさが嬉しくて、つい涙が出そうになる。
「どうしよう…。タクシー呼びますか?」
律君が立ち上がって離れようとするので、私は思わず裾を掴んだ。
「えっ」
「大丈夫。ただの熱中症だから…」
思ったより弱弱しい声が出てしまい、恥ずかしかったが、律君に迷惑をかけたくないという思いの方が強かった。
「無理しないでくださいね。とりあえず、今は何も考えずに休んでください。うちわで扇ぐくらいしかしてあげられませんが…」
律君は再び隣に座ってくれ、私の頭を撫でてくれる。
そして、風を送ってくれた。
「お休みなさい…ゆっくり休んでください」
透き通るような優しい声に誘われ、私は眠りに落ちていた。
目が覚めると、律君は台所で夕飯を作っていた。
――あれ…どうして家に律君がいるの?
時計を見ると18時30分になっていた。
――大変!仕事の途中で、律君の家で寝てしまったんだった!
私が飛び起きると、律君がこちらを見た。
「あっ、綾さん。起きましたか?具合はいかがですか?」
「ごめんなさい!私、途中で倒れちゃったみたいで、そのあとずっと律君の家にいたの!?」
申し訳なさすぎて、穴があったら入りたい気分。
「はい。疲れてたみたいだったので、会社には連絡して、しばらく休ませてから連れてきました。綾さんの上司の方にも電話しておきましたよ」
「本当にすみませんでした…!本来なら私がお世話する側なのに、逆に看病してもらってしまって……」
謝ることしかできない自分が情けなかった。
「いや、僕も謝らないと…。ベッドに寝かせるときに、背中や太ももに触れてしまったし、それから、その…苦しそうだったので、ボタンを一つだけ外してしまいました。本当にすみません!」
律君は顔を真っ赤にして頭を下げている。
私はそんな彼の姿に驚きを隠せなかった。
この世に、こんなに誠実な男性がいるなんて……
「いえ、全然大丈夫ですから。むしろ、色々とありがとうございます。それに、私の方こそ、いろいろと迷惑かけてしまって、本当にすみません」
「綾さんが嫌なら、次回から担当変えてもらっても大丈夫です、怖かったですよね、男の家に行くのって」
彼は心配そうな表情を浮かべていた。
「えっ、違うんです!ちょっとびっくりしただけです。それに、律君のことは信頼していますから。もちろん、他の担当者の方をご希望でしたら、上に相談してみますけど…」
「嫌だ、僕は綾さんが良い。ずっと綾さんの担当がいい。だから、もし次があるとしたら、その時はよろしくお願いします」
律君は土下座するかのように頭を深く下げてしまって、その表情は分からなかった。
「もちろんです。むしろ、何かお礼させて下さい。何かしてほしいこととかあります?何でも言ってください」
私としては、律君に少しでも恩返しがしたい一心だったし、律君になら多少性的なことを要求されても構わないと思っていた。
「じゃあ、僕のこと『律』と呼んでほしい。それから……出来れば、こんどプライベートで会ってほしい。今度、食事とかどうですか?」
私は一瞬耳を疑った。まさか、律君の方から誘ってくるとは思わなかった。
しかし、これはチャンスかもしれない。ここで彼の本音を聞き出すことが出来れば、仕事の上でも大きな収穫になるだろう。
「分かりました。では、次の日曜日にいかがでしょうか?ちょうど空いていますので」
「やった!あ、いや、はい。宜しくお願いします」
律君は満面の笑みで答えた。
「はい、こちらこそ。楽しみにしてます」
私が笑うと、律君はなぜか目を逸らしてしまった。
こうして、私たちは週末に食事を共にする約束をした。
日曜日、待ちに待った日がやってきた。
今日は天気が良く、絶好のデート日よりである。
場所は、私の住むアパートの近くまで来てくれることになった。
時間通りにやって来た律君の車は、真っ赤なスポーツカーで、彼はとてもご機嫌な様子だった。
助手席に乗り込むと、ふわりと香水の香りがした。
「お待たせしました。そ、それでは行きましょうか」
律君はガチガチに緊張しているようだったが、それは無理もない。
だって、これから大人の男女の関係になろうとしているのだから……。
車で走り始めて15分ほど経った頃、
「あの、ちょっとお聞きしてもいいでしょうか?」
「えっ、はい。何でも聞いてください」
「律さんって、今お付き合いされてる方とかいるんですか?」
いきなり核心を突いた質問を投げかけてみた。
「えーっと、今はいないですけど……」
「じゃあ、今まではどんな方とお付き合いされて来たんですか?」
「えっ、んっ、そ、そうだなぁ。病気になる前は何人かに告白されたりして、そのまま付き合ったりしてましたね。でも途中で自閉症ってバレてこっぴどく振られたり、いつの間にか返信が来なくなったりすることが多いかな」
やっぱりモテるんだ。
「そうなんですか。私も実は彼氏がいたことがあるんですよ。でも、子供が産めないって言うと、みんな離れて行っちゃいました。それで結婚は難しいかもと思ったのか、別れを切り出されてしまったんです。でも、その後1人だけ、ずっと付き合って欲しいって言ってくれた人もいたんだけど、結局はダメになってしまって…」
「そうなんですか、良かった…あっ、いや、今のは違くて。そうだったんだ、大変だったよね。俺なんかで良ければいつでも相談に乗りますよ」
「ありがとうございます。律君は、子供が産めない女性とは付き合えないですか? もし、そういう女性と結婚するとしたら、どうしますか?」
「そうだな…。もしその人が本当に子供が欲しいと願うのなら、代理母や養子縁組も良いと思うけど……そうだ、僕が子供代わりになるっていうのはどうでしょう?旦那でもあり、息子にもなってあげるんです。そうすれば寂しくないでしょ?なんて、ちょっとキザ過ぎるかな」
「ふふっ、律君らしいですね。でもそれって、律君にしか出来ないと思いますよ?」
「え、それってどういう意味ですか?」
「うふふ、秘密です」
律君は終始緊張していて、いつもより口数が少なかったけれど、たくさん話してくれた。私が話しているときは、とても真剣に聞いてくれて、思想の深さに驚かされた。
律君の考えていることは、確かに現実社会で生きていく我々には高尚すぎるかもしれない。
それでも私は、律君のことをもっと知りたくなったし、もっともっと律君のことを理解してあげたいし、律君にも私のことを知ってもらいたいと思った。
海水浴場は家族連れやカップルなどで賑わっていた。私と律君は、波打ち際まで歩いて行き、波の感触を楽しんだ。
「ねぇ、海に入りませんか?」
「うん、入ろう。せっかく来たんだからね」
私たちは、寄せては返す穏やかな海に足を踏み入れた。
「冷たい!気持ち良い~!!」
「本当だ、冷たくて気持ちが良いね」
律君は、楽しそうな笑顔を浮かべている。
「あのさ、綾さん。一つお願いがあるんだけど……」
「はい、なんでしょうか?」
「綾さんの事を、これからは『綾』と呼んでもいいかい?僕のことも、『律』と呼び捨てにしてくれないか」
「は、はい。分かりました。では、律。これでよろしいですか?」
「ふふっ、綾は可愛いなぁ。僕はそんな綾が大好きだよ」
「あ、ありがとうございます。私も……そんな優しい律が大好きですよ」
こうして私たちの初めてのデートが終わった。
帰り道、車の中で眠ってしまった私を、律君が家の近くまで送ってくれることになった。
目が覚めた時、車はもう見慣れた風景の中にあった。
「ごめんなさい、いつの間にか寝てしまったみたいで……。家の近くまで来ちゃいましたね」
「大丈夫だよ。今日は疲れているだろうし、ゆっくり休んでください。じゃあ、あの、またデイサービスのときに……」
「ええ、じゃあまた……、あっそうだ。忘れないうちに、これ受け取って下さい」
私はカバンの中から小さな包みを取り出し、律君に手渡した。
「これは…?」
「包丁研ぎです!律君の家にある包丁が切れなくなって困っていたので、良ければ使ってみてください」
「あ、ありがとうございます…僕、もっともっと上達して、いつか綾さんがびっくりするような料理を作ってみせるよ。楽しみにしていてくれますか?」
「もちろんです。頑張って練習しましょうね、律君」
それから数日後、いつものように仕事から帰って来た私がリビングに行くと、そこには母が立っていた。
「あら、お母さん。どうしました?珍しいですね、キッチンにいるなんて」
「綾ちゃんおかえりー。いや、ちょっとお鍋とか洗いたくなっちゃってさ。綾ちゃんこそ、珍しく早いじゃない。お勤めは終わったの?」
「はい、今日はお休みなので」
「そうなんだ~。じゃあさ、たまには二人でご飯食べよう。今日はお父さん早く帰ってくるらしいからさ、久しぶりにみんなでテーブル囲んじゃおう」
「そうですか。それなら、私もお手伝いしますよ」
「本当!?助かるわぁ。綾は昔からお片付け上手だったもんねぇ。今も全然変わってない。お母さん嬉しいわ、綾はお嫁に行ってもきっとやっていけると思うな。うん、絶対大丈夫!!」
…………。
お嫁に行った後の事まで考えてくれているんですね。
ありがたいことです。
子供が出来ないと宣告された時、一番ショックを受けていたのは母だった。だから早く結婚して母を安心させてあげたいと思う一方、まさか恋人がお客さんだとは思わないだろうから、何て言えばいいのか……。
まあ、とりあえず今は夕飯の支度をしなくては。
玉ねぎを切りながら、律君のことを思い出す。
わざわざ匂いを嗅いで泣いていたことを思い出して、思わず笑みがこぼれた。
にんじんの切り方も不格好で、皮も分厚くて剥き残しがある。
それでも一生懸命作ってくれたことが嬉しかった。
(…きっと彼となら)
私だけなのだろうか?彼ともっと深い仲になりたいと思っているのは。
彼が他の女性と一緒にいるところを考えるだけで、胸の奥が苦しくなるのは。
私の目を見て、そのいつもは野菜を刻む手で、私の髪を優しく撫でてくれたら。
彼の腕の中で、あの低く優しい声で名前を呼んでくれたら、そして、あの広い胸に抱かれたら。
私は一体どうなるのだろう。
(ああ、なんて破廉恥なことを考えているんだろう!!)
包丁を持つ手が止まる。
顔が熱い。鏡を見たら真っ赤になっているに違いない。
「いけない!鍋が噴くっ!!」
慌てて火を止め、蓋を開ける。
料理に集中しようと、必死に頭を切り替えようとするが、結局は頭の中が彼でいっぱいになってしまった。
「おーい、お姉ちゃん。ご飯まだ?」
リビングの扉が開き、弟の祐太がひょっこりと顔を覗かせる。
「ごめんね、もうすぐできるから」
「ふぅん。お姉ちゃん、無理しないでよね。怪我したら元も子もないんだから」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
そうだ。家族のためにも、きっと幸せになろう。
私は決意を固めるのだった。
***
バレンタイン当日、私は律君のお家の前にやって来ていた。
今日は訪問日じゃないから、私も制服姿ではなく普段着だ。
手には紙袋に入ったチョコレートケーキ。中にはガトーショコラが入っている。
もちろん手作りだ。
チャイムを鳴らすと、中からロックを外す音が聞こえた。
そして出てきた律君を見て驚く。
上半身裸だ! 胸筋がたくましい……
思わず見惚れてしまう。
やっぱり男の子なんだ。
お風呂上りだったらしく、いつもの天然パーマが濡れてストレートヘアになってる。
なんか色っぽい。
いつもより大人びて見える。
「あれ、綾さん!?ごめんなさい!今日って来る日でしたっけ?え、でも私服だし……」
「ごめんなさい、急に。これ渡しに来たの」
手に持っていたケーキの箱を差し出す。
「これは?」
「ガトーショコラ。良かったら食べて。じゃあ、帰るね」
踵を返して帰ろうとすると、後ろから抱きしめられた。
「待ってください!」
「ちょ、ちょっと離して」
身を捩ると、すっと解放してくれた。
「すみません。あの、上がって行って下さい」
「でも、もう遅いし、律君も髪とか乾かさないと風邪引いちゃうよ」
「俺は平気です。それより、せっかく来てくれたのにこのまま帰してしまったら、俺が後悔します」
真っ直ぐに見つめられて言われると、断る理由もない。
「分かった。それなら少しだけ。本当に少しだけだからね」
「はい、どうぞ」
リビングに通されてソファに座った。
「飲み物持ってきますから待っていて下さい」
「うん、ありがとう」
部屋を見渡す。掃除にほぼ毎日来てると言うのに、仕事じゃないというだけでこんなに緊張するなんて。
テーブルの上には図書館で借りた本が山積みされている。そして部屋の隅にあるギターも目に付いた。
「お待たせしました」
マグカップに入ったコーヒーを手渡された。
「今日は仕事じゃないから、少しだけ雰囲気違うんですけど分かりましたか?」
私が髪を束ねているゴムを取って、眼鏡を外すと、律君は慌てたように言った。
「そ、そうですね、いつもよりその、可愛い……です」
顔を赤くしながら俯いた。
「そんな事ないと思うけど……」
私もつられて赤くなる。
「じゃあ、これ飲んで温まったら帰りますね」
律君の顔を見て言うと、
「もう少しゆっくりして行った方がいいですよ。雨も降ってきたし、濡れたら大変だから泊まって行ってください」
確かに外はいつの間にか大雨になっていた。
「えっ、でもそれは悪いし。それに明日も早いんでしょ?だったら早く帰った方が……」
「大丈夫、僕は明日休みなので」
「そうなんだ。でもやっぱり帰るよ」
何故なら、今日の下着は上下バラバラだし。
「でも……」
律君の表情が曇っていく。
そんな顔されると、帰れなくなるじゃん!
「……分かった。じゃあお世話になります」
私の返事にパッと笑顔になった。
私は律君の部屋着を借りて着替えると、彼のベッドを借りることにした。
下着の替えが無いから、ノーブラにノーパンである。
「僕ソファーで寝るので、遠慮せず使って下さい。何かあったら起こしますから、それまで休んでいてください」
律君は優しい笑みを浮かべながら、ブランケットを掛けてくれた。
そんな事を言われたら眠れません! しばらくすると、隣から規則正しい呼吸音が聞こえてきた。もう眠ったの!? 早すぎじゃない!!……仕方ない。
目を瞑るが、全然眠ることができない。
ふと横を見ると、無防備に眠っている律君。
そっと手を伸ばし、頬に触れてみる。
柔らかい肌の感触が伝わってくる。
そのまま手を滑らせ、唇に触れた。
指先で触れると、そこはとても柔らかくて温かい。何度も触れているうちに、我慢できなくなってきて、思わずキスをした。
初めてのキスは、ほんの一瞬掠めるような短いものだった。
それから、律君の顔を両手で包み込むように掴むと、今度は長い口づけを交わした。
「んっ……ぅうん……」
息苦しくなって、声を上げた途端、律君の目が覚めたようだ。
「あっ、綾しゃん……?」
呂律の回っていない声で私の名前を呼ぶと、ぼんやりした目でこちらを見た。
そしてそのまま私を抱き寄せ、お尻を撫で回してきた。
「きゃああぁー!!」
私は驚きのあまり、大きな悲鳴を上げてしまった。
「おや…何て可愛い声なんだ。もっと、聞かせてくださいよ」
そう言いながら、彼は私の胸を揉み始めた。
突き抜けるような快感が走り、身体がビクンと震えてしまう。
「あっ、やっ、律くぅん…」
触り方がとてもいやらしい。
乳首を摘まれたり引っ張られたりする度に、口から喘ぎ声が漏れ始め、ノーパンのアソコから溢れ出た蜜が太腿まで垂れてきていた。
「ふぅん、綾さんってこういうのが好きなんだ。じゃあ、これはどうですか?」
律君はそう言うと、服の中に手を入れてきた。
直接触れられると、自分でするよりも数倍気持ちよくなってしまう。
「あん、律君ダメェ!それ以上されたら、おかしくなっちゃうぅ!」
「もう十分おかしいですよ。ほら、ここなんかびしょ濡れじゃないですか。僕も、そろそろ準備万端です。綾、君とひとつになりたい。良いよね?」
彼のズボンを見ると、大きく膨れ上がっていた。
そして私の返事を待たずにベルトを外すと、パンツごと一気に下ろしてきた。
真っ黒くて太い律君のモノが目の前に現れる。
これが今から入ってくると思うと、期待と不安が入り混じった不思議な感覚に襲われた。
そして律君は私をベッドに押し倒すと、覆い被さってきた。
お互いの性器が触れ合う。
律くんは腰を動かし始めた。
ヌルッとした感触と共に、擦れ合い刺激を与えてくる。
最初はゆっくりと動いていたが、次第に早くなっていく。
私は無意識のうちに足を絡めてしまっていた。
そして律君の動きが激しくなると同時に、私の体も大きく揺れた。
律君が動くたびに、膣内がかき乱されていく。
やがて絶頂を迎えた私たちは、同時に果ててしまった。
しかし律君の興奮はまだ収まらないらしく、再び動き始める。
今度は胸を揉みながらキスをしてきた。舌を入れる濃厚な大人のキスだった。
息苦しさを感じながらも、頭の中では何も考えられなくなっていた。
その後何度も交わり続けた私たちだったが、律君の方が先に体力の限界が来たのか、途中で寝落ちしてしまった。
さすがに疲れ切った様子だったので、私はシャワーを浴びることにした。
浴室に入ると、鏡に映っている自分の姿が目に入った。
そこには、全身に無数の赤い斑点が付いている姿があった。
まるで蚊に刺されたような跡である。
(やだ……もう、こんなところにまで付いてる)
さっきまでの行為を思い出してしまい、顔が熱くなるのを感じた。
翌日、私は律君が起きる前に始発の電車で帰った。
***
次の月曜日。ホームヘルパーの制服を着て、私はいつものように彼の自宅を訪れた。いつものように部屋で待っていると、しばらくして彼がやって来た。
「おはようございます、ホームヘルプサービスです」
「お、おはよう……」
あの夜以来、初めて会う彼はどこかぎこちない感じがした。
「どうかしましたか?」
「い、いぇっ、なんでもありません、さぁ、始めましょう!今日は、何を作るんですか?」
私は冷蔵庫の中身を確認してから答えた。
「そうですね、キャベツと玉ねぎとピーマンと豚肉があるので、野菜炒めを作りますね」
こうして、私たちはいつものように家事を始めた。…………
彼が昼食を食べ始める前に私は帰らねばならない。利用者さんと食事をしてはならないのだ。料理を終えた後、食器の片付けをしながら彼に話しかけた。
「それじゃあ私はここで失礼しますね」
「待って」
玄関に向かおうとした私を引き留めたのは彼だった。
「な、なんですか?まだ何かありますか?」
「……キスしたい。この前のあれが夢じゃないって確かめたいんだ。ダメかな?」
彼は真剣な表情で言った。
「えっと……。そ、それはちょっと困ります。そういうことはしてはいけない決まりなのです。ごめんなさい」
「どうしてもダメなのかい?」
「はい、すみません」
すると、彼は耳元に顔を寄せて囁いた。
「じゃあ、今晩はどう?僕、夕飯作って待っているから」
不意に耳元で囁かれて、腰が砕けそうになった。
「うぅ……、はい、わかりました。では、お仕事が終わったらお伺いします。」
「やった!本当だよ?待ってるから!」
そのまま頬にキスされた。彼の唇の温かさに身体が熱くなった。
「もう…、恥ずかしいです。それじゃ、本当に帰りますからね。さようなら」
そう言って、逃げるように家を出た。
―――
午後5時30分 いつものように電車に乗って自宅へ帰る…と見せかけて、今日は違うルートで帰宅した。
同僚たちに見られぬよう気を付けながら、彼の待つアパートへ。
部屋のドアを開けると、中は真っ暗で静まり返っていた。キッチンからはカレーの良い匂い。
「律君?いないの~?」
返事はない。部屋に入って電気を付けると、テーブルの上にメモ書きがあった。
「ごめんなさい!材料の買い忘れがあったので、スーパーに行ってます」
「もう…律君ったら」
キッチンには彼の格闘の後だろうか、調理器具や食器類が散乱していた。
私は床に落ちていた鍋つかみを手に取ると、流し台の前に立って洗い始めた。
「まったく、仕方ないなぁ……」
独り言をつぶやきながら、彼の帰りを待つ。
律君は、ゆっくり時間を掛ければ普通の人と同じようにこなせる。
でも、その所要時間は健常者の10倍ほどは掛かる。消費する体力も尋常ではない。
でも、家事以外は本当にとても良く出来るのだ。計算も速いし、頭の回転が早く機転が利く。料理だって、私よりずっと美味しくて器用なものを作ってしまう。
(これでも、世の中から見たら「障害者」なんだけど)
その矛盾が悔しい反面、私には嬉しかった。
だって、彼のような人格者が、多くの人の目に触れ、奪い合いにならずに済んでいるのだから。
そういう意味では、彼はとても賢いと思う。
自分の魅力を分かったうえで、税金を上手く利用して生活している「勝ち組」だとすら思っている。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「綾さん、起きましたか」
彼の声が頭の上から聞こえた。
***
[律視点]
(綾さん、もう起きたかな?)
マンションの中庭でうろうろしている不審者がいたら、それは僕です。
綾さんをもてなすための夕食を作ろうと思っていたのに、肝心の調味料を忘れて再度買い出しに。
疲れてくたくたになりながら戻ると、綾さんが僕のベッドの上で寝ていた。
綾さんの可愛い顔を見ながら眠りたいと思ったけど、起こしてしまうのは忍びないし、理性を抑える自信がなくて、こうして散歩に出てきてしまった。
最近の僕はおかしい。
何をするときも綾さんの事を考えてしまう。
綾さんの顔を見るとドキドキするし、抱きしめてキスしたくなる。
僕みたいな奴が、相手にされる訳がないと思いつつ、心のどこかでずっと夢見ている。
彼女と色々なところを旅行して、色んなものを食べて、すべてを独り占めしたいって。
昔、すごく好きな女の子がいた。
彼女はいわゆる高嶺の花で、夢見ることすら諦めて、理由をつけて逃げ出した。
二度と恋なんかするもんかって、僕は一生独身で生きるんだって、そう思っていたのに。
今まで我慢してきた分の、必死に抑え込んできた34年分の欲望が、彼女を前に爆発しそうなのだ。
「本が恋人」などと言っていても、所詮本能には抗えない。むしろ今まで培った全ての知識は、彼女を楽しませるためにあったのだ。
そんなことを思い巡らせているうちに、あっと言う間に部屋の前に着いてしまった。
僕は深呼吸して、今日のプランをおさらいする。
今日の夕食はカレーライスとサラダ。そしてデザートに杏仁豆腐を作った。
僕はそれをお皿についで、お水をコップに注いで、それから、「ビール飲む?」とさり気なく誘う。それでほろ酔いになった綾さんに、「お風呂沸いてるよ」と言うのだ。そして綾さんがお風呂に入っている間、ソファに座りながら、彼女の着替えを用意する。前の教訓を生かして、彼女のために買ったネグリジェだ。パジャマだと脱がしにくい…じゃなくて、寝にくいからね。
そしてお風呂から出た綾さんの髪をドライヤーで乾かす。その後は二人でテレビを見ながら、アイスを食べる。そして頃合いを見てベッドに誘い込む。後は……
あれ、コンドームってまだあったっけ?しまった、買い忘れた!
まぁ良いか、予定通りに行くかどうかも分からないし、足りなくなったら指ですれば大丈夫だろう。
それにもしかしたら、生でやらせてもらえるかもしれないし……。
考えただけでゾクゾクする。股間が膨れていないことを一瞬確認し、僕は家のドアを開けた。
「綾さん、起きましたか?アイス買ってきましたよ。食べますよね?」
「んー……」
リビングのソファーの上で、綾さんが寝返りを打つ。
そのあまりの無防備さに、興奮を通り越してちょっと心配になってくる。
「もぉ、こっちは今夜をめちゃくちゃ楽しみにしてたってのに……このまま襲っちゃいますよー?」
聞こえていないのを良いことに、彼女に覆い被さって耳元で囁いてみる。
現に前回は寝込みを襲われたのだから、このぐらいしても許されるはずだ。
綾さんは目を開けると僕をほうを見て、そのままじっと見つめられた。
それから彼女の手が僕の頭を抱えて引き寄せられると、柔らかい胸の中にぎゅっと抱き締められる。
「ちょ、んっ、柔らかっ、じゃなくて苦し……むぐぅ!?」
顔に二つの大きなマシュマロを押し付けられながら、呼吸ができない苦しさに喘いでいると、そのまま髪をわしゃわしゃと撫でられる。
「よしよし、いっぱいごはん作って偉かったね~。ご褒美に綾お姉ちゃんがたくさん甘やかしたるさかいなぁ」
「……へっ!?」
関西弁!?てか、綾さん、まさか酔ってる…!?
テーブルの上には何もなかったはずだけど…あっ!ベッドサイドに置いてあったウィスキー!! 中身が減ってるし、ラベルも剥がされてるから気付かなかったのか!?
「綾さん、あれ、アロマ用ですよ!?まさか、飲んじゃったんですか!?」
「うん?だって、えぇ香りするやん。お酒やったらもっと美味しいかな思うたんやもん……」
「だとしてもストレートで飲むとかあり得ませんから!!」
お酒のむわっとした匂いと、汗の混ざり合ったような独特の臭いがして、思わず鼻を押さえてしまう。
「もー、計画が台無しなんだから…えっと、確か薬箱に二日酔いを防ぐ薬があったはず…」
僕が立ち上がって部屋から出ようとすると、綾さんが後ろからしがみついてきた。
「どこ行くのん?これからがえぇトコやんな。ほぉら、もうちょっとここにいようよ。寂しいわぁ。それともウチのこと、嫌い…?」
「い、いや、嫌いとかではなくて、酔った女性を無理矢理そういうことをするのはさすがにどうかと思ってですね……。だから、離して下さい。水持ってきますんで……」
綾さんの手がやらしく腹を這う。僕の体はぞくりと震えた。
「なに言うてんの。ウチ、まだ酔うてへんで。それに、昨日の続きをしに来たのに、このまま帰るわけないやろ。律ちゃんはホンマにイケズやな。ウチの体だけが目当てなんやね」
「そ、そんなわけ…んぁっ!?ちょっ、それ、ちく、乳首ですってば!やめ、ひゃぅうう」
あられもない声が出て、情けないやら恥ずかしいやら気持ちいいやら、綾さんは相変わらず僕の頭を撫で続けている。
「よしよし。やっぱり律君はかわええねぇ」
綾さんはすっかりご満悦の様子で、僕はといえば、そんな彼女のペースに巻き込まれてしまっている。
結局、そのまま朝までお世話になってしまったのだった。
(綾しゃん…ご主人しゃま、しゅき…)
すっかり彼女にペット扱いされた僕は、頭を撫でられる快感を覚えてしまった。
(ううう、僕は犬じゃないのに…)
―――
翌日。
目を覚ました僕は、ベッドの上で上半身を起こしたまま、ぼうっとしていた。
「―――くちゅん!」
僕は小さくクシャミをした。すると、隣にいた綾さんが僕を抱き寄せてくる。
「ほら、風邪引くよ。もっと寄って」
綾さんの方言はもとに戻っていた。
京都弁も可愛かったけど、それをいつもは隠してるんだと思ったら余計可愛く思えてきた。
「あっ…ええと…綾さん、昨日のこと覚えてます?」
「うん?ああ、もちろんだよ。律君が私を求めてくれて、すごく嬉しかったな」
綾さんはニコニコしながら、僕の頬に軽くキスをする。
顔がにやけるのを悟られないように、必死で我慢した。
「じ、じゃあ、僕たちが何をしたかちゃんと覚えてるんですね?綾さんが『なんでも言う事を聞いてあげる』って言ったから……」
「もう、変なこと言わないで。あれは夢だってば」
綾さんの顔がほんのりと赤く染まる。
そして、照れながら話を続けた。
「それにしても、あの時の律君はすごかったな。まさかあんなに激しいなんて……。ふふっ、思い出すだけで恥ずかしいよ」
綾さんが妖艶な笑みを浮かべた。
やっぱり、綾さんはすごい。
きっと、昨夜のことも全部綾さんの計画通りだったのだろう。
僕の醜態も笑って受け入れてくれる…。こんな奥さんがいたら…いや、この場合、専業主夫になるのは僕だから、僕が奥さんで綾さんがご主人になるのか…。
「ごめんなさい。綾さんがあんな事言うものだから、僕の方も調子に乗ってしまいました。綾さんが後悔してないなら良かった……」
「私は大丈夫。むしろ、今までに無いくらい満たされている気分なんだから。律君の方こそ大丈夫かなと思って。身体の方はなんともないかなって思ってさ。ほら、昨夜は、私が無理矢理何度も出させてしまったでしょう?男の人って、無理矢理出されても平気なのかなあって心配になってさ。私のせいで、律君の大事なものがおかしくなったんじゃないかと気が気じゃないのよね。まあ、そんなわけで、一応確認しておきたくてさ」
「え?」
綾さんはそう言うと、僕の掛け布団を剥ぎ取った。
「あらっ、良かった。ちゃんと勃ってるわね。これなら問題なさそうだわ」
綾さんの視線が下半身へと向けられる。
「いやっ、あ、綾さ、これは、寝起きによくある生理現象で、その、そういうつもりじゃなくてですね……」
僕は慌てて布団を取り返そうとした。
しかし、綾さんはそれを許さなかった。
「もう、恥ずかしがることなんて何もないでしょ。お互い裸の付き合いをしてるんだし、今さら何を隠そうとするのよ。それに、介護の時に見慣れているから大丈夫よ」
綾さんは事もなげに言うが、そこに介護業界の闇が見えた。
「そ、それって、僕以外の男のおちんちんを触ったりもするって事ですか!?」
「んー、別に迫られたときはやんわり断るけど、基本的には皆が暗黙の了解で我慢しているって感じね」
「そっ…そんな!そんな風俗みたいなことが…」
「でも、介護と言うのはそういうものだから。嫌な時はちゃんと断ってるし、善意でやっている事だから法に触れることじゃないわ」
僕は気が遠くなりそうだった。綾さんが他の男の体を拭いたり、お尻を撫でられているのを想像しただけで怒りが沸いてくる。
でも、それを止める権利は僕にはない。何故なら僕は、その介護のおかげで生かされている障害者なのだから…。
「そうだったんですね…。僕で良ければ、いつでも愚痴とか聞きますんで言ってください。綾さんが少しでも楽になれるのであれば、何でもしますから」
「ありがとう。やっぱり律くんは優しいね。私、本当にあなたに出会えて良かったと思っているの。だって、私は律くんが好きなんだもん。もちろん、恋愛対象として見ているの。初めて会った時、律くんは私のことどう思っていた?」
突然の告白に、僕の頭は真っ白になってしまった。
まさか初めて会った時から、綾さんは僕のことを?
僕、何かしたかな?
「えっと、綾さんのことは綺麗で素敵な人だと思いました。それに、すごく明るい人だなって…こんな人が彼女だったらいいなって思ってました…」
「本当!? 嬉しい。じゃあさ、今度デートしようよ。律くんが行きたいところでいいよ」
「じ、じゃあ今度、近所のシャンソニエに行きませんか?父の友人が歌っているんです。そこで綾さんと二人きりで聴きたいです」
「うん、行こう! 楽しみにしているね♡」
「はい!」
僕は女性が苦手だ。何を考えているのかよく分からないから。
でも、この人は、信じてもいいのかもしれない。
***
翌週の金曜日。
待ちに待ったデートの日だ。
あれからも綾さんは仕事で僕の部屋に来てくれていたが、隙を見つけてキスしたり抱きしめたりすることはあったけど、それ以上のことはなかった。
だから、今日はきっとエッチなことをするぞ!
いや、もちろん、綾さんの気持ち次第だけど。一応近くのラブホテルとか予約しておいたし。
綾さん、早く来てくれないかな。
駅前の噴水の前で待っていると、遠くから綾さんが走ってくるのが見えた。
綾さんは紺色のワンピースを着ていた。清楚な感じでとても似合っている。
「ごめんね、美容院に寄っていたら遅れちゃって。これ、どうかな?似合ってる?」
綾さんは髪をかき上げて言った。
うーん、可愛い。
「はい、すっごく素敵です。今日の服も髪型も全部最高にお洒落で、綾さん、めっちゃくちゃ綺麗ですよ。惚れ直しちゃいました」
僕が言うと、綾さんは照れたように笑った。
それから、僕らは電車に乗って、隣町まで行った。
目的地のシャンソニエに着くと、そこはもう満員だった。
「うわぁ、すごい人ですね」
「本当だねぇ。座れるといいんだけど……」
会場に入ると、ステージではちょうどオペラが始まったばかりだった。
僕は綾さんに席を取っておくよう言っておいて、カウンターに行ってドリンクを注文しに行った。
綾さんにはノンアルコールカクテルのモヒート。
自分はビールと料理をいくつか頼んで座席に戻ると、綾さんが一人ぽつんと座っているのが見えたので、慌てて駆け寄る。
綾さんは、ぼんやりとステージの方を向いていたが、僕の足音を聞いて、こちらを振り向いた。
「どうぞ」
と言って、僕は綾さんにグラスを手渡した。
「ありがとう」
綾さんは微笑むと、グラスに口を付けた。やがて照明が落ちると、オペラがはじまった。
『カルメン』の第一幕。
有名なアリアが次々と披露されていく。
しかし、残念ながら、僕の耳には歌が入って来なかった。それは、綾さんの様子がおかしいことに気づいたからだ。
綾さんは、眉間にシワを寄せて、じっと舞台を見つめていた。
どこか具合が悪いのかと心配になって、綾さんの顔を覗き込んだ。
すると、綾さんはハッとした様子で顔を上げた。
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものですから……」
僕たちは黙ったまま、しばらくオペラを楽しんだ。
第二部が終わると、今度はミュージカルが始まり、場内は明るくなって、華やかな音楽が流れはじめた。
ビビッドカラーのピエロたちが織り成すコンメディア・デッラルテ。フランスの落語に陽気な音楽を付けるセンスに脱帽する。
それから、再び暗くなると、今度はダンサーたちの華麗な踊りが始まった。曲に合わせて踊る人、体を動かしている人、手を叩いている人と様々だが、皆一様に華々しく、美しかった。
劇が終幕し、帰ろうと立ち上がった時も綾さんはずっと無言だった。
表情も冴えず、心ここにあらずといった感じで、僕が少し目を離した隙に男性とぶつかってお酒をこぼしてしまったりと、普段の綾さんらしくない失態をしてしまった。
「おい!姉ちゃん、どうしてくれんだよ。お気に入りの一張羅がよぉ」
お酒臭い息を吹きかけられ、僕は思わず鼻を押さえた。
綾さんは、今にも泣き出しそうな顔で謝っていた。
「すみません。弁償します。本当に申し訳ありません。どうか許してください。お願いです。なんでもいたしますから……お金ならお支払い致します」
「へぇ~、ホントに何でもすんのか?じゃあ、そのハミ出ちまったおっぱい、揉ませてくれや」
男はニヤッと笑みを浮かべると、綾さんの胸元に手を伸ばし揉みしだいてきた。
「きゃっ!?いやぁー!!」
綾さんは悲鳴を上げながら身を捩った。それを見て、あろうことか、僕はにやりと笑ってしまった。
(久々に暴れられそうだ)と思った。
何を隠そう、本を読むよりセックスをするより、喧嘩が大好きなのだから。
「ちょっと、お兄さん。彼女、嫌がっているじゃありませんか。痴漢は犯罪ですよ?」
「なんだお前?こいつの男か?ふん、関係ない奴は引っ込んでろ。俺は彼女と話をしているんだ」
男が凄むと、僕は首を横に振った。
「ええ、僕はその方の彼氏…ですよね?」
そう言えば明確に誓い合った記憶がなくて、つい綾さんに確認してしまった。
綾さんは真っ赤な顔をして、僕の袖口をギュっと掴んでコクコクと何度も縦に首を振る。
「ああ、そうかい。だったら何だ?そんなひょろっちいなりで、女みてえなツラしたヤローなんかに、俺を止められると思ってるのかよ?」
「はい。少なくともあなたよりは強いと思いますが……」
僕がそう言うと、男は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに気を取り直し、僕に殴りかかってきた。
僕はそれを難なくかわすと、男の手首を掴んだ。
「くそぉ、離せ!はな・しや・がれ……!」
態勢を崩した男の足を払いのけると、男はそのままバランスを崩して倒れ込み、バーカウンターに頭から突っ込んだ。
「知ってるか?柔道の技で大切なのは相手の勢いを借りる事だ」
僕は男にお金を叩きつけると綾さんの手首を掴み、店を急いで出る。
「綾さん、こっちです!」
「は、はいっ」
店を出てすぐ、綾さんは走り出した。
「とりあえずあの建物に隠れましょう」
その建物は入り口が狭く、外からエントランスが見えないような作りになっている。
「綾さん、大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ、はぁ、う、うん…」
酔いの回った体で走ったからか、綾さんは僕の体に縋りつく形で立っている。
(まずい。早く休ませないと)
「綾さん、部屋借りちゃいますね」
タッチパネルで操作すると、カードキーが自動で出てきた。
「綾さん、行きますよ。大丈夫、何もしませんから」
「う、うん。ありがとう」
エレベーターに乗り込むと、綾さんは静かに口を開いた。
「ごめんなさい、私のせいでこんな事になってしまって……。それに助けてくれたのにお礼も言えなくて……」
綾さんの顔色は悪く、体は少し震えていた。
「とんでもないです。怖かったですよね。ごめんなさい、すぐに守ってあげられなくて」
綾さんは小さく首を振った。
「あの人、私の昔の知り合いなんです。昔はもっと優しかったんだけど、お酒が入ると人が変わっちゃうみたいで。まさかあんなところに居ると、思わなかったものですから、つい、動転してしまって。本当にすみませんでした」
綾さんは申し訳なさそうな顔をした。
「綾さんは何も悪くないですよ!そんな顔しないでください。ほとぼりが冷めるまで、ここでゆっくり休みましょう。僕、そばにいて大丈夫ですか?それとも、どこかで時間潰してきましょうか。男の人に襲われたばっかりですもんね。怖くて当然ですよ。僕、すぐ出て行きますから」
綾さんは泣きそうな顔で、僕の胸に飛び込んできた。
「嫌っ。お願い、行かないで。ここに居てください。一人にしないで。それに、今出て行ったら、あの人に見つかってしまうかもしれないわ。お願い。どうか無茶なことだけはしないで。このまま、ずっと一緒にいてほしいの」
綾さんの華奢で小さな肩は小刻みに震えている。
僕はそっと綾さんを抱き寄せた。
「わかりました。ここにいます。だから安心してください。大丈夫、絶対に守り抜きますから。綾さんのこと」
綾さんは涙目で微笑んだ。
「ありがとうございます。心強いです。あの、ごめんなさい、もう少しだけ、こうさせてくだい。あなたの温もりを感じたいの。私、怖いの。あなたがいなくなるんじゃないかと思うと、不安でたまらなくて。もし、あなたに何かあったら、私……。だから、もうしばらくだけ、こうして抱きしめていて。離さないで。お願いします」
綾さんはすがるように、強くしがみついてきた。
「もちろんです。絶対離れません。安心してください」
僕たちはラブホテルの部屋の中で、しばらくそうして抱き合っていた。
「綾さん、酔いのほうは大丈夫ですか。少し、ベッドで休んだ方が……」
綾さんは首を横に振った。
「平気よ。酔っているのは本当だけど、お酒には強いの。これくらいなら、すぐに醒めるわ。それより、シャワーを浴びてもいいかしら。汗をかいてしまったので、気持ち悪いの。それに、さっきのキスで唇が腫れぼったくて。口紅も落ちちゃった」
そうだった。彼女は先ほど、男に無理矢理、唇を奪われていたのだ。
汚らわしく思うのは当然だろう。配慮が足りない自分を責めた。
綾さんはバスルームに向かった。
僕はその間に上着を脱いで、シャツのボタンを緩めてベッドに倒れ込んだ。
(「無理しないで」か…)
どうしてだろう。母親にも言われたことがない台詞なのに、彼女の声を思い出すだけで胸の奥が熱くなる。
そんなことを言ってくれる人が出来るなんて、思いもしなかったな。
僕の心の中には、彼女が発した言葉たちが蘇ってくる。
『お料理で大切なのは、まず食材を愛することよ』
『今夜は私だけを愛してほしいの…いっぱい甘えたいの。ねえ、いいでしょう?』
『寂しいわぁ…うちのこと、嫌い?』
綾さんの口からこぼれ落ちる甘い囁きの数々。
それらはまるで麻薬のように、僕の脳髄を刺激し、痺れさせていく。
そして、あの柔らかな身体と温もり。
もう、忘れることはできそうになかった……。
***
「ごめんなさいね。お待たせしてしまって……」
綾さんが戻ってきたのは、30分ほどしてからのことだった。
「いえ、全然待っていないですから。それよりも、大丈夫ですか?」
「心配してくれてありがとう。もう、すっかり良くなったから。さ、食事にしましょう。冷めないうちに食べてほしいの」
テーブルの上には、美味しそうなルームサービスが並んでいる。
「わぁ~、おいしそう!意外としっかりしたものが出るんですね。さっきのバーでナッツしか食べてないから、じつはお腹ペコペコだったんですよ。いただきます!」
僕は目の前にあるチキンステーキを口に運んだ。
「うんっ、すごくおいしい!綾さんも食べてみて下さい」
綾さんは微笑むと、僕と同じように肉を食べ始めた。
「本当、美味しいわね。律君は本当によく食べるのね。見ていて気持ちがいいくらい」
綾さんはそんなことを言ったけど、綾さんだって結構な量を食べる。
すっかり回復したみたいで、ほっとした。
「ねえ、綾さんは、僕の作る料理って、どう思いますか?その、味とか、栄養バランスとか……」
「あら、急にどうしたの?」
「いや、そ、その……もし、綾さんさえ良ければ僕は毎日でも作りたいなって思って……」
綾さんはクスッと笑った。
「ふーん、それは嬉しい申し出だけど、律君の手際ではちょっと無理かもね。まあ、私が手伝ってあげれば話は別でしょうけど」
「え、手伝ってくれるんですか!?じゃあ、お願いしますよ!」
綾さんはいたずらっぽく笑う。
「でも、私の手を借りずに作れるようにならないとダメじゃない。私にばかり頼っていたら、いつまでたっても上達しないわよ」
綾さんの言う通りかもしれない。一人で作れるようにならなければ、綾さんの旦那様になる資格はない。
「綾さんは、その、けっ結婚とか考えてたりしてるんですか?」
綾さんは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「私はまだ、そこまで考えてはいないわ。今は仕事がとても忙しいから、それどころではないのよね。それに、今すぐ結婚したとしても、生活していく自信がないし。誰かさんのぶんまで養わないといけないから…」
「そ、そのことなんですが…これ、見て下さい」
僕はポケットから、例の紙切れを取り出して見せた。
「これは?」
「障害年金、下りました。だから、もう大丈夫ですから。僕、綾さんの負担にはなりたくないので、これからは自分でちゃんとやっていけますから」
綾さんは、僕の手に握られた書類をじっと見つめていた。
「そうなの?良かった……。本当に良かったわ。これで、安心したわ。律君の将来も、ちゃんと考えてあげられるもの」
綾さんは、ホッとした表情を見せた。
それから僕に近付いてきて、優しく肩を抱いてくれた。
「綾さん、あの、近いですよ……」
「あら、ごめんなさい。つい嬉しくてね。でも、仕方ないでしょう。私は律君を愛しているんだもの。律君は、私のことどう思っているのかしら。ねぇ、教えてくれない?」
綾さんはバスローブ姿で、僕に迫ってくる。
綾さんの顔を見ると、目元に涙が浮かんでいた。
「綾さん、僕は、ぼくは……」
そのまま耳元に顔を寄せてきて、綾さんは静かに囁いてくれた。
「律君。結婚しよっか。毎日美味しいものを食べさせてあげるし、欲しいものは何でも買ってあげる。私が全部してあげる。だから、ずっとそばにいてください。お願いします」
綾さんの優しい声音を聞いていると、僕の心の中にあったわだかまりのようなものが消えていくような気がした。
そして、綾さんに対する想いが強くなっていくのを感じた。
綾さんは、ゆっくりと唇を重ねてきた。
最初は触れるだけのキスだったけど、次第に舌を入れられ激しく求められた。綾さんは、何度も僕のことを好きだと言ってくれた。
そして、ようやく落ち着いたあと、綾さんは僕の手を取りながら言った。
「ねえ、律くん。今日はもう遅いから、泊まっていこうよ。それに、私、食後のデザートを食べたいの。思いっきり甘えてもいいかな。それくらいならいいよね? だって私たち夫婦なんだから」
僕は綾さんの唇を奪うと言った。
「はい。僕でよければ、たっぷり召し上がってください」
これは僕が綾さんに身も心も食べられたお話。

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