第15.5回サイゼミにはりが感想回参加記録 7/23
※ ネタバレは書かないつもりですが、匂わせる描写があります。
@lw_ru 氏が開かれたサイゼミのにはりが感想回に参加して来ました。Discordで開かれたので参加しやすく良かったです。
にはりがは正式な名を「席には限りがございます! ~トラックに轢かれてチート能力を手に入れた私たちは異世界転移を目指して殺し合います~」といい、Vtuberや新海誠のブログで有名なLw氏が執筆した小説です。
Lw氏は小説を執筆した後にフィードバックを得るための会を開くことで知られています。今回は私がその会に参加してきたという記録になります。
七時頃からDiscordのサーバーに人が集まり始めました。少し遅れてLw氏による司会が始まりました。彼の合図で、順番に読者の感想が述べられていきました。「各自印象に残った箇所と分析」「総評」「過去に取り扱った作品との位置付けなどを含めた評価」に沿って言われたような気がします。おおむね読者の評価は良く、印象的な箇所は全体的に均等な配置だったようですが、キャラとしては小百合が人気であり、戦闘シーンには姫裏が関わると面白くなるという特徴があったようです。
それらの感想の中で印象深く思ったのは、myth-take氏のものです。彼女が述べたのは作中におけるリアリティラインのことでした。にはりがは極力キャラクターをテンプレ的に描くという特徴があります。それはラノベであることだし、多人数の人間を描くという要請上のものでもあるし、単にそういうのが皆好きだからというのでもあるのですが、問題となったのはそこにリアリティのあるものが混じって濃すぎるリアルを感じてしまったというものです。
にはりがのキャラクターはおおむね一言で説明できるキャラの属性を持っています。「シスコンJK」「クール系相棒」「双子」「厨二病」「剣道少女」などですが、その中で言わば「ロリお姉さん」と言うべきキャラクター、「撫子」の設定に関しては、リアリティがあるものが混じっていました。撫子は「剣道少女」である切華の母であり、ある時母親であることをやめて女子高生になり、作中では妊娠していることが明かされるという設定です。少し生々しい。昨今では「母親をやめる」という言葉にフェミニズム的な意図もあって、繊細な話ではあります。これ自体物語としての要請があって無目的に入れ込まれた設定ではないのですが、それがmyth-take氏にはリアリティラインが覆されることになってしまったそうです。おそらく、ファンタジー世界で異世界のものが混ざっていると強烈な違和感があるのと同じでしょう。あるいは、ウルトラマンが自宅でテレビを見ているとどこか喜劇的な感じがしてしまうのと同じ原理であると思います。
オタクをやっていると倫理観に関して曖昧になってしまうと参加者の一人はいいます。
批評的に言えば、これは異化効果を発揮していると前向きに評価できるかもしれません。これはLw氏の小説を読んでいてしばし思ったことなのですが、ファンタジーな設定と現実的な設定の取り合わせが面白いです。小説家で言えば村上春樹、劇作家で言えばベケットやイプセンがやった手法ですね。オタク的に言えば、無職転生で異世界転生した主人公が異世界で過去の現実のことを思い出す描写が近いでしょうか。
村上春樹は短編では現実に沿ったリアリティのある男女の関係を描くのですが、長編では多く超常的な理解の及ばない存在が登場します。海辺のカフカでは語り手の一人が空から魚が降ってくる事象に遭遇します。知的障害者のナカタさんは猫と会話する能力を持っています。知的障害者という設定は生々しくリアルを喚起しますが、猫と会話するという設定はファンタジックです。子供が猫と会話するというのは、ありふれて「そういうものなんだね」と読者の中で受け止められるのですが、知的障害者という設定が一旦リアルさを呼び起こすので、その後にやってくる不思議な展開も同列に並べられるのです。
とはいえ、村上春樹の例にせよにはりがにせよ、現実をリアルさのダシにしているので、強烈な技術である一方、用いるのには注意が必要であるわけです。生々しい現実は、言及に注意が必要なものである場合が多いです。
私は、好きなシーンとキャラクターについてお話ししました。小百合は作者によれば何の気無しに入れたキャラクターだったらしいのですが、自分の足が動かないというデバフを乗り越えて困難に果敢に立ち向かっていくところが好きでした。例えば次のようなシーンは、ベタではあるもののアツい展開でした。
にはりがの中で小百合は、自分の手を精一杯に広げて課題に対して挑戦的になっていたキャラクターの一人です。その後のキャラクター反省会でも小百合は一番人気でした。やはりその理由は、自分の生まれながらに持っていた困難を超えて成長したからというのが多かったです。それに対極に位置するのが姫裏のようなキャラで、最初から同じ思想を携えそれを一切崩さず能力で突き進んでいく存在です。会では「グレシャムのような〜」と形容されていました。確かに。ウケました。
かなり余談ではあるんですが、ハイパーインフレーションのグレシャムは「金銭をどう現実のものにするのか」という形式上の話が多い作中で、思弁的な資本主義の哲学を代弁するキャラクターなんですよね。ルークはグレシャムを味方につけるために金を稼ぐ努力をやめません。グレシャムは作中であまりその内面が語られないのですが、最後のあるシーンは注目してもいいと思います。
グレシャムには稼いだ金を見ながらワインを部下と傾ける余地があるんですよね。要は実存の見せ方でもあって、ゲーマゲでは彼方と神威が二人プレイを始めるシーンに相当すると思います。資本主義もゲーマーの哲学も悪辣なところはかなりあるんですけど、結局、良いことのためにそれを使える場所は必ずあって、そこに読者は感動するんだなって思いました。
一方で、「誰にでも友達になれるすめうじ」「誰でも敵にできるゲーマゲ」からの一歩進んだ議論で、「どういう状況なら友達になれるのかのにはりが」を望んでいた気持ちはあるという話もしました。私にはこのテーマをやっていて、キャラクターが裏切られたことによって動揺したりすることがないことが意外に思えました。バトルロワイヤル系統の作品はあまり読みませんが、デスゲームの序盤は仲間同士で醜い争いをすることと決まっています。姫裏の能力が『契約』だったのもそこを反映していて、「契約して相互に確証し合うことで友達を作ろうぜのにはりが」きたかと思いましたが、そういうことではありませんでした。おそらくバトルロワイヤルであるため、前の二作とは異なる考え方で書かれているためではあると思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?