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「私は傷ついてないです」はマウンティング。


欅坂46の「語るなら未来を」という曲の歌詞がとても好きで、中でも特に身につまされるような一節がある。

腹立たしさとか悔しさは思い上がりだよ

ともすれば自分のことだけで精一杯になる。
足りないものだらけで全く満たされない。

気が晴れない日々の中で、初めてこの曲を聴いた。とても衝撃的だった。

"思い上がり"の部分を捨ててしまえば楽になるのか。

そりゃそうだ。よく考えたら、自分でコントロールできることは限られている。
憤りを感じる対象は、自分でどうこうできるようなものじゃなかったりする。

そうして、仕事でも人間関係でも、割り切って諦めた方がいいことが沢山あることを学んだ。
自分ができる範囲の中でどう立ち回るかを考えるようになった。


さて、自分はアイドルオタクをやっているわけだが、
グループに何か大きな変化が起きる度に、
Twitterではネガティブなお気持ちの連鎖が起こっていた。

それらを見ていて目に余ることが大いにあった。

感情のままに棘のある言葉を吐き出している人がたくさんいて、「こうあるべきだ」と意見を正解かのように押し付けるようなツイートもよく見た。

見当違いな意見や誹謗中傷が加速しているのを見ても正直楽しくない。

それならアイドルの好きな部分だけを語っていた方がはるかに健全なのでは?

だから、自分は「何かに物申すツイート」をあまりしたくなかった。

もちろん、何も思うことがないわけではない。
しかし、何らかの立場を表明すると、途端に敵対が生まれるのではないか思える殺伐さもあった。
それなら、考え方が違っていたとしても、同じものを好きという部分だけで繋がれればいいと思った。


そんな中、そんな自分の心にぶっ刺さるツイートを見てしまう。
「事あるごとに善人面している奴に限って大した熱量もないから腹立たしい」

とても心外だった。
ただ純粋に、趣味を楽しいことのままにしておきたいだけなのに。

どうしてこうも"言わなくていいこと"で溢れるのだろう。

「何も反対しないことは盲目や全肯定になるから、言うべきことは言わせて貰う」という人もいた。

"言わなくていいこと"に見えてたものは人によっては"言うべきこと"だったのだろうか?


殺伐としたタイムラインを眺めながら、タイムラインが殺伐としていることに腹を立てていた私は、生活するうちに考えるようになる。
むしろこれは「オタクが殺伐とするな」という考えを押し付けかねないのではという、壮大な自己矛盾に気付いたのだ。

"アイドルの好きな部分だけを語っていた方がはるかに健全なのでは?"と先に書いたが、
問題に対して議論がまるで発達しない状態こそ不健全であって、
ポジティブの名の元に沈黙せよと言うのは健全なことではないと思い始めた。

"殺伐としたタイムライン"という言葉で片付けてしまいがちだったが、好きな気持ちがあるからこそ「こうあって欲しい」という期待があって、期待を抱くからこそ失望も生まれるのは当然だ。

失望という感情を1人で割り切れる人が、割り切れない側を"殺伐"という言葉で片付けるのは、ポジティブを盾にしたマウンティングかもしれない。

「言わなくてもいいこと」だと切り捨てたくなってしまうのは自分がそれに傷つかなかったから感じるのであって、傷ついている人は進行形で感情を整理できていないのかもしれないのだ。

であれば、自分は彼らの本当の気持ちなんて分かってあげられてない。

そして、自分の立場においても、応援していく上で許せないことや、衝撃的に感じる出来事が起こるかもしれない。
明日は自分が取り乱しているかもしれないのだ。

だから、下手なことは言えないし、負の感情を一概に否定することもできない。

自分の意見はそのままに、周りの感情に引っ張られずに、適切な距離を取る事が必要だと思った。


これは、色々書いた割には投げやりな結論かもしれないけど、

やっぱりなんか......もはや周りの誰がどういう意見を持っててもいいというか......

応援の仕方も求める物もそれぞれ違うので、意見の答え合わせもすり合わせももう要らないなと。

風潮がどうとかは関係なく、目くじらを立てることもなく、自分が何かを好きだという気持ちを大事に無理なく育てること。

それが一番大事かもしれない。

共感より共存だ!