越山 —上杉謙信侵攻と関東の城— 【埼玉県嵐山町】
2019年2月10日(日)
今日は埼玉県嵐山町にある埼玉県立嵐山史跡の博物館へ行ってきました。
目的は2月17日までの企画展「越山—上杉謙信侵攻と関東の城—」を見るためです。
上杉謙信と言えば、甲斐の武田信玄との川中島の名勝負が有名ですが、関東各地での北条との闘いも謙信を語る上で外すことは出来ません。その関東での闘いを記録した企画展、それも来週までしかやっていないとの事で本日重い腰を上げて見に行ってきた次第です。
嵐山までは関越を利用します。途中三芳PAで不味いラーメンを食べ、午後2時頃到着。
意外にも現地の駐車場は満車でした。
こんな田舎の博物館に客はあまり来ないだろうと高を括っていたので意外です。
いざ入館。入館料は大人100円也。激安ですね。
目的の企画展。
上杉謙信と言えば、白頭巾姿が有名ですね。ホントに被っていたのかは知らんけど。
ところで上杉謙信はなぜ越山を繰り返していたのでしょうか?
それは時の将軍 足利義輝から関東管領 上杉憲政の進退を任られたことにあります。
その時の「御内書」の写しが上の画像です。
これにより、上杉謙信は大義名分を得て関東各地へ侵攻することとなります。
最終的には17次まで越山を繰り返すことになるわけですが、特に有名なのは第2次の越山です。関東各地を席巻して北条氏の本拠地である小田原まで攻め込んだことから「小田原城の戦い」とも呼ばれています。
上杉謙信が越後を出立した時は8千余の軍勢だったのが、関東各地から援軍や北条を裏切り上杉軍の元へ参陣、結集し、最終的に小田原城へ進軍した頃には10万を越える大軍となっていました。
しかし、兵糧の問題などがあり、上杉謙信は天下の堅城 小田原城を攻め落とすことなく撤退しています。
上杉謙信が撤退すれば、北条が盛り返して関東各地を攻めとり、また上杉謙信が越山をして北条を追い込むという事を繰り返し、最終的には第17次まで越山を繰り返すこととなります。
しかし、結果的にはこの行為が上杉謙信を越後と関東に縛り、上洛そして天下を狙う事が出来なかった原因ともなっています。武田信玄と並び戦国最強とも謳われた上杉謙信。越後という雪深い地を統治していたせいもあり、最終的には地方の一大名で終わってしまうのは何とも惜しいものですね。
埼玉県立嵐山史跡の博物館DATA
所在地:埼玉県比企郡嵐山町菅谷757
Tel:0493-62-5896(代表)
電車でのアクセス:東武東上線武蔵嵐山駅下車 徒歩約15分
車でのアクセス:関越自動車道 東松山I.Cより国道254号線を小川方面に約10分、関越自動車道 嵐山・小川I.Cより国道254号線を東松山方面に10分
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