アイスキャンディー【ショートショート】
あれは暑い夏の日の夕暮れ時のことだった。
まだ日の長い季節のことだから、多分夜の7時を回ったくらいだろうか。
当時小学5年の私にとって、週に数回の銭湯通いは、面倒以外の何ものでもなかった。
もう少し幼かった頃は、親に連れられて行って入浴し帰宅するその行為に、特に疑問も不満も何もなかった。だけど小学校へ入学して、学年が上がるにつれて友人も増え、互いの家へ遊びに行ったり来たりするうちに、私は気づいたのだ。多くの家は、自分の家にお風呂があるのだということに。
それまでも、夏休みや冬休みになると泊まりに行く祖父母の家には家風呂があったが、必ずしもそれが多数派ではないと思っていた。が、どうやらそれは違うらしい。少数派は明らかに、家にお風呂が無い方なのだ。
一旦そのことに気がついてしまうと、その行為がどうにも億劫になった。どうして私は、夕方まで蒸し暑いような夏の日も、冷たい雨の日も、冬には寒すぎる雪の日も、好きなテレビ番組すら諦めて外へ出かけていかないと、お風呂に入ることが出来ないのか。そう思い始めたあの頃の私は、自分ではどうすることも出来ない損な役回りに納得できず、いつも憮然とした面持ちで、仕方なく銭湯へと通っていた。
ある日、その「いずみ湯」で、同級生とばったり出会う。彼女はその10日ほど前に転入してきたばかり。ふわりと優しげで、話せば明るく屈託なく、その頃にはもうするりとクラスに馴染んでいるような子だった。
「いつもここに来てるの?」
「うん、そう。2歳から。H団地に住んでるから。」
「そうなんだ。私が引っ越してきたのはF団地なんだ。」
「ああ、あそこもお風呂ないもんね。」
「じゃあこれからここに来たら、時々会えるね。きっと。」
「そうだね。」
そんな会話をした日から、実際いずみ湯へ行くと、たまに彼女と会うようになった。
何度目かのその日、少し先に上がって脱衣所にいた私に、上がりたての髪をバスタオルで拭きながら、彼女は目を輝かせて言った。「ねえ、帰りにアイス買って食べない?」
アイス?帰りに?
それまで、親と一緒に通っていた頃も含めて、脱衣所の片隅にある瓶入りフルーツ牛乳すら湯上がりに飲んだ事はなかった。だってここに来ているのは、家にお風呂がないから仕方なくのことで、面倒でつまらなくて嫌で嫌でしょうがない仕事みたいなもののはず。なのに、…アイス?
思いもよらない彼女の提案通り、その日はすぐ向かいにある駄菓子屋「みつや」に寄ってアイスキャンディーを買い、すぐそばの公園のベンチに並んで座った。
「冷たいね。」
「うん。でもおいしい。」
「ね。」
「ね。」
暑い季節のことだから、みるみる溶け始めて口も指もベタベタだった。
だけどその時のアイスキャンディーほど、キンと冷たくて、なのにとろけるように幸せな甘い物には、まだ1度も出会ってはいない。
そして多分これからも、2度と出会わないような気がしている。
出会わなくても構わない。
むしろ出会わない方がいいとすら思うのだ。