【ピリカ文庫】あの日みつけた君は【ショートショート】
夢を見ているのかと思った。
9月半ばを過ぎたとは言え、晴れた日の昼間はまだ陽射しがそれなりに眩しい。緩やかな逆光の中に立つ君は、まさしく君そのものだった。
いや、そんなはずはない。だって君は、僕のかけがえのない妻は、もう5年も前に亡くなったのだから。
15歳も離れた妻が、ある日突然病に倒れ、まさか52歳の若さで僕より先に旅立つなんて誰が予測できただろう。妻を失ったあとの僕は、暫く何も手につかず、食べられず眠れない日々が続いた。
それでも近所に住む妹夫婦が世話を焼き続けてくれたお陰で、なんとか1人の日々を平穏に送れるようになった頃、今度は僕自身を病魔が襲った。
手術と暫くの入院の後、僕の心臓にはペースメーカーが入り、以降は多少の制約とつきあいながら、静かでゆっくりとした時間を過ごしていた。
そう、あの日あの公園で君と出会うまでは。
水色の自転車の前と後ろに大きな籠を載せて、その脇に立つ君の周りを幾人かの人々が囲んでいる。
「こんにちは。あ、今日メロンパンあるね。じゃあウインナーのパンと1つずつもらうわ」「いつもありがとうございます」
「あら、やっと会えた」「すみません、いる時間が短くて」「いいのいいの。ここのパン人気ですぐ売り切れちゃうんだもの。今日はこれとこれとこれね」「ありがとうございます」
パンを、売っている?
つまりは、自転車の行商販売というところか。
少し離れたベンチに腰かけて見ていると、飛ぶように売れるという表現さながらに籠の中身がどんどん減っていく。
15分ほど経っただろうか。人の途切れた合間を見計らい、僕はゆっくりと立ち上がった。たった今通りかかった風を装い、さりげなく君に話しかける。
「おや、パンを売っているんですか?」
「はい、そうです。残りはこれだけなんですけど」
見れば籠の中のパンは、あとわずか10個ばかり。全部もらおうと僕が言ったら、とびきりの笑顔を見せた君の瞳は、妻のそれと少しも違わなかった。
そしてその日から、僕の人生はがらりと変わった。
朝起きれば、世界は眩しいほど明るい光に満ちて、その中で丁寧に身繕いを整えては君の待つあの公園へ向かう。いや正直に言えば、午前中せっせとパンを焼き続けて正午ぴったりにやって来る君よりも早く着き、やや離れた場所で君を待った。
自転車で到着してすぐの君は、次々とやってくる客の応対で忙しそうだから、それが過ぎ去って少し落ち着いた頃に声をかけ、パンを買い求めたらすぐ脇のベンチで食べる。これが僕の幸せな昼食時間となった。
君といられるのはほんの1時間ほど、時には30分足らずで完売なんて日もあったが、それでも僕の心は満たされた。この公園でパン販売を始めたのは5年前の春で、雪に覆われる12月から3月は毎年休んでいること、それでも春になれば必ず立ち寄ってくれる常連客が既に何人もいることも知った。実際、2週間も経てばそのうちの幾人かとは顔見知りになり、挨拶くらいは交わすようになった。
ある日、若い男が君の自転車の前に立つ。
「お姉さん、ここでパン売ってるの?」「はい。お姉さんって言うよりほぼおばさんですけど」2人が笑い合う。
僕はベンチから腰を上げ、さりげなく隣に立った。
「こちらは、常連さん?」男が君に訊く。
いや僕はただ…と言いかけたのと、君の声が重なった。
「毎日寄って下さる、大切なお客様のお1人です」
「そっか。お姉さんのファンなのかな」
パンを買って立ち去っていく男を苦々しく見送りながら、さっきの君の言葉と僕の続けたかった言葉とを反芻する。
僕はただの常連客などではない。
そりゃあ、君を見つけてここへ来るようになってからまださほど長くはない。だが、パンを買ったら2言3言会話をして立ち去る他の客達と違い、僕は君がその日のパンを完売するまで、ちょうど斜め後ろのこのベンチからずっと見守っている。そして今では、半ば確信している。君が僕の目の前に現れたのは、決してただの偶然ではなく、必然だったのだと。その笑顔、声、仕草。すべてが運命の巡り合わせだと。
君の方は、どうなのだろうか。
気がつけば10月も下旬に入り、公園には赤や黄に色づいた葉の舞う季節が来た。あとひと月もすれば、君は今年のここでの販売を終える。その前に、何としてもはっきりさせなければならなかった。
最近は濃紺のマフラーを巻いてやって来る君に、僕はプレゼントを用意した。深いボルドー色のマフラーに「きっとよく似合うと思います。身につけた姿を今から楽しみにして」と書いたカードを添えて。
包みを持って家を出ようとすると、一瞬、戸棚の中の妻の写真と目が合う。何だか秘密を知られた気がして、思わず目を逸らした。
公園で包みを差し出すと君は随分驚いて、それから何度も「いただけない」と言って固辞したが、最後は押しつけるようにして帰ってきた。君が明日あのマフラーを巻いて来てくれたなら、それが答えだと思った。
明けて秋晴れの今日。
いつもにも増して賑う客達の間から見える君の首元には、いつもの濃紺のマフラーがあった。心底がっかりしたが、それは顔には出さずゆっくりと君へ歩みを進める。
最後に残っているのは、すぐ近くに勤めているという常連の女性客。君とは歳も近いらしく、仲良さげにお喋りする場面を今までにも何度か見ている。そして、2人の喋り声が徐々に近づく。
「学習発表会そろそろですか?」「うちの学校は今週末」「同じ!うちの子の学校もです」
子供?
まさか、君には子供がいるのか?
「お子さん?」思わず尋ねた僕の方を振り返ると、「あら、こんにちは。いらっしゃいませ」君はいつもの笑顔で続けた。
「私達たまたま同じ6年生の息子がいて」
ひどく重たい荷物によろめきながら、僕は勇気をふりしぼって続ける。「おひとり?」
一瞬の間の後、君は答えた。
「子供は上に中学生の娘もいます。だから、ありがちな4人家族です」
ありがちな。子供2人と夫婦の、平凡で幸せな家族というわけか。
ぼんやりとした頭のまま、どうにか家まで辿り着いた。
「あなたの気持ち、彼女には秘密にしておいてあげるね」と、写真の妻が微かに笑った。
〈了〉
光栄にも、2度目のピリカ文庫へのお声がけをいただき書き上げた作品です。
テーマは「秘密」。
誰の秘密にするか、どんな秘密にするかで悩み迷い考えながらの数日間。貴重で楽しかった時間に、今はひたすら感謝です。
どうもありがとうございました。