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3月の雪【ショートショート】

この冬の雪は特別だ。
出だしの12月はかなり控えめで、やっぱり温暖化だねなんて呑気に構えていたら、年明けから一気に記録的な大雪の連続。あれよあれよという間に観測史上最大の積雪量となってしまった。
排雪が間に合わず、JRやバスなどの公共交通は中心部でさえ一時マヒ状態。道路は両脇の雪山に狭められ、あちらでもこちらでも片側交互通行の大渋滞。雪害には慣れっこの筈の北海道なのに、である。
つくづく異国だと思う。
生まれ育ったのは新潟県。同じく雪の多い地域と思われがちだが、実家のある新潟市は極めて雪の少ない地域。だからこんなにも普通の生活の送れない冬は、やっぱり異質としか思えなかった。

振り返れば、結婚して初めてこの地に降り立ったのが、今からちょうど5年前。あの年の3月は雪どけが特に早く、日に日に土やアスファルトが広がって新芽が顔を出し、柔らかな陽射しが少しずつ力を増す雪国の春が、ただまっすぐに嬉しかった。それはまるで、新入りの自分を歓迎してくれているのだと錯覚するほどだった。

付き合っていた頃から、いずれは彼の地元である北海道へ戻るつもりと聞かされていたから、その時期が予想より少し早かっただけで特に不満はなかった。 
「よく来たねえ」
両家の顔合わせや家族だけの神前式など、それまでに数回会った時と少しも変わらず、義母は満面の笑みで迎えてくれた。無愛想な義父は、それでもちゃんと歓迎オーラを纏っていて、夫の30年後もきっとこんな感じかなと想像させた。
同居ではないけれど、夫の実家から徒歩10分の場所でスタートした新生活。大学卒業後に8年勤めた会社をあっさり辞めた夫は、不動産業を営む家業に入った。私には、毎月経費精算で忙しい月末の数日間だけ手伝ってくれれば後は好きにしてていいよと言ったけど、知人もいないこの地ではどうしても時間を持て余してしまう。アルバイトでも探そうと思った。

「面接?」意外という口調で彼が尋ねる。
「バイトしようと思って。月末のお手伝いはちゃんと行くから」
「それはわかってるけど。でもさ、もしもそのうち子供ができたら?」
「それはその時に考える。とりあえずまだできてないし」
「そりゃそうだけど。でももし子供ができたら、そっちを優先すべきじゃない?」
「勿論。勿論そうだよ。その時はそうするよ」
「ならいいけど」
ならいいけどって言いながら、全然よくないみたいな言い方。でももう深追いしなかった。私も、彼も。

秋になり、冬が来た。
社員20名ほどの小さな印刷会社で事務のパートを始めてから、半年が過ぎていた。社長の下に専務と常務がいて、あとは営業も事務も印刷部門もほぼパートかアルバイトという少し変わった人員体制。専務と常務が実は犬猿の仲であることや、社長の愛人が営業のEさんであることは、古参の先輩が教えてくれた。必ずしも居心地の良い職場とは言い難いが、でもここがあるから、北海道での生活が足元の見えない不安定なものじゃなく、私は自分で立てるし歩けると思うことができた。

16時までのパートだが、冬場の帰り道はすっかり暗い。いつもの公園の横を通る時には、ふわりと降り積もった雪にライトが反射して、ちょっと見惚れるほどに美しい。

だけど。
これが北海道そのものとも感じてしまう。
静かで、綺麗で、そしてその底はひんやりと冷たい。

ある時、義母と台所に立っていた。
「あらっ、左利き?」
「あ、はい。子供の頃に矯正されたから、お箸を持つのも字を書くのも、殆どのことは右なんですけど、包丁だけ左で」
「あらあ、そうだったの」
このあと、矯正してもらって良かったねとか、気にしないでねとか、義母の話は暫く続いた。
「でももし子供が生まれて左利きだったら、私は矯正しないと思います」
「えっ、どうして?」珍しく驚きを隠さず、義母が訊く。
近年は矯正による様々な悪影響の可能性が言われていること、そもそも今は保健センターや小児科でも矯正は勧めていないことなどを話したが、義母の耳には少しも届いていないみたいだった。
最後に一言「でも不便だからね、左利きは」と、ぴしゃりと言い放った義母の肩が、この話はもう終わりと告げていた。

いくつかの季節が過ぎた。
会社では相変わらず先輩のウワサ話に苦笑する毎日だったが、一方では印刷物の校正も任されるようになり、少しずつやり甲斐を感じ始めていた。
いや、そうじゃない。仕事に逃げていたというのが、正直なところだ。でもこの地でぐらつきも沈みもせず立つために、とにかく懸命に働いた。

「最近、なんか疲れてない?」夫が尋ねる。
「私?えっと、とくには」
「でも、前より朝起きるの遅いしさ」

前より遅く起きるようにしたのは、朝ご飯を用意してから1時間過ぎた頃にやっと食卓につくそっちのせいだよって、もしもそう言えたなら、その後どうなったのだろう。
些細な言い合いから大喧嘩になって、それでも最後は雨降って地固まったのだろうか。

初めから私のアルバイトが気に入らないみたいだったけど、でもお金は全て管理されてきっちり食費だけ渡される生活の中で、自分で自分の収入を得ようとするのはそんなに悪いこと?
左利きを子供の頃に矯正されたのは時代だから仕方がないけれど、良かったとは思ってないし、ましてや左利きを気にしたり負い目になんて思ってやしない。
数日前に突然体調の話題を振られ「夜眠れないとか、朝起きられないとか、ない?」って義母から訊かれて不思議に思ったけど、そうか、そういうことだったんだね。

だけど言えなかった。
誰とも喧嘩できなかった。
腹を割って本音で話せなかったのは、私も悪い。私が幼くて色々足りなかった。
だけど、圧倒的にアウェイなこの場所で、少しずつ戸惑いが大きくなる私を、全力で支えてくれる味方が欲しかった。ともすれば沈みそうになる私に差し出される温かく大きな手を、ただそれだけを待ち望んでいた。


3月だと言うのに、空港へ向かうバスの窓の外では、まだしんしんと雪が降りしきる。
5年前、今日からここが自分の居場所になるんだと、ときめきながら足を踏み入れた広く果てしないこの大地。

ここは、私には最後まで馴染むことのできない、静かで綺麗で冷たい異国だった。



〈了〉


「雄大な大地と自然」「美味しい食べ物」
そんなイメージで語られることの多い北海道に生まれ育ち、暮らし続けているけれど。
もしかするとこの地が、あるいは雪が、誰かを追い詰めたり傷つけたりしているかもしれない。
そんな想像を広げながら書きました。


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律子
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