2011、2013、2016、2019。映画「藍色少年少女」再上映によせて。
先日、吉祥寺アップリンクで再上映されている映画「藍色少年少女」を見に行ってきた。観るのは、いったい何回目になるだろう。
「藍色少年少女」を紹介する記事を書いたのは、初公開直前の2015年のことだった。演劇表現を通じて、子どもたちの心と身体を解放しようと始まった神奈川県旧藤野町(現相模原市緑区)の表現活動団体「ふじのキッズシアター」が、映画をつくりたいと一念発起。その主旨に感銘した映像制作会社「曲輪合同会社(KURUWA.LLC)」の協力を得て、この映画は生まれた。
ふじのキッズシアターは、プロの役者を育てる目的ではなく、子どもたちがありのままに自由にいられる場所をつくりたいというお母さんたちや芸術監督の柳田ありすの想いから始まった。つまり、この映画に出演しているのは、役者を目指している子どもたちではなく、いわゆる素人の子どもたちだ。
完成した映画は、すばらしかった。素人だからこそできたであろう、自然で素直な演技。倉田監督がこの映画に込めた想いと、巧みで緻密なストーリー。プロの役者や制作スタッフによるバックアップ。きっと多くの人に受け入れられるだろうと思った。でも正直、藤野に住んでいて、出演者もスタッフもほぼ知り合い、なかば身内と化している私は、客観性という点において、映画の評価に自信がもてなかったのも事実だ。
「私はいいと思うけれど、藤野にまったく縁のない、この映画にまつわるさまざまなエピソードを知らない一般の人たちがこの映画を見たら、いったい何を思うんだろう」
今もその気持ちがないわけではない。しかし今回、2019年に再上映されたことで、はっきりわかったことがある。
2015年に取材したとき、倉田監督も、曲輪の結城さんも、ありすも「10年保つ映画をつくりたかった」と言っていた。“10年保つ”、“色褪せない”というのは、どういうことなのか。
ひとつは、忘れかけていた震災の傷、あの当時、実際にいろいろな人が抱えていた原発事故による悩みや傷を、未来の地点から見つめ、振り返ることができたということ。2013年撮影当時から、状況は希望に向かったことも、相変わらず変化していないことも、不安が払拭されていないこともある。それでも、時は止まっていないし、少しずつではあっても「変わりつつある」ことは事実で、それは今、この時点だから冷静に見つめられたことだと思う。あの頃、誰もが漠然と抱えていた不安と生きづらさは、今観ると、当時とはまた違った角度から、胸を刺す。今だからこそ、感じられるメッセージがある。
辛いこと、苦しいことを一生抱えたままでは、人は生きていけないと私は思う。だから、忘れることそのものを否定はしない。けれども一方で、ふとしたとき、もう1度心に刻むように過去を振り返ることは、とても大切なのではないだろうか。そうした“これまで”のうえに今があることを、知っているのと知らないのとでは、人生の歩み方は大きく変わってくるからだ。
そしてもうひとつ。これは、私が身内であるがゆえに感じられたことだが、だからこそ記しておきたいと思う。
映画に出演していた子どもたちは、6年経って、いちばん小さかった子どもでも、もう中学生になっている。軽く2倍も背が伸び、パッと現れたら、同じ子どもとはとても思えない。そうした子どもたちが、成長して舞台挨拶に現れたとき、この映画は、映画の世界を飛び出して、今の子どもたちの姿、つまり“現実”と「つながった」と思った。
当時書いた記事のタイトルの冒頭に
「子どもの選択を重視する世界は真っ当になっていく」
と、書いた。
映画の最後、主人公のテツオは、さまざまな選択をし、自らの過去に決着をつける。周りの子どもたちもさまざまな選択をし、大人たちもさまざまな選択をし、みんなが未来へと眼差しを向ける。舞台は1年後に移り、テツオやシチカは中学生になっていて、映像には色がつき、世界はいきいきと輝き出す。
あれから6年が経ち、子どもたちは現実社会でもさまざまな選択をして、今というときを迎えている。プロの役者になった子、目指している子、部活に明け暮れている子、三味線を極めようとしている子、写真を勉強している子、ダンスを始めた子、海外留学をした子、結婚して親になったり、ミュージシャンとして活動していたり、制作側に回ったりしているOBやOGもいる。ふじのキッズシアターの公演は現在も毎年1回、開催されているが、こまめに顔を出すOB・OGもいれば、演劇とはまったく関係のない、自分が興味のあることに邁進しているOB・OGもいる。
映画のなかの子どもたちと、今現在の子どもたちを見比べているうちに、しみじみ思った。
ああ、この子たちの選択した未来が、今なんだなぁ。
これは子ども映画ならではの醍醐味かもしれない。
もちろんこれは、私自身が同じまちで暮らし、子どもたちの成長を端から見続け、今、彼らがどんな未来へ歩んでいこうとしているのかを、知っているから感じられたことだろう。
それでも、成長した子どもたちの姿は、誰にとってもとてつもない希望だと思った。彼らがどんな選択をしてきて、今があるのか。何を感じて、行動するのかに思いを馳せることは、大人にとって、こんなにも希望なのかということを実感せずにはいられなかった。
倉田監督が伝えたかったことは、つまり現実世界とシンクロするように、体現されている。当の子どもたちによって。藤野は今も、たまらなく魅力的なまちであり、子どもたちは、すくすくと育ち、どんな子どもたちからも、かつて子どもだった大人からも、心の有り様や健やかさが感じられる。
もう1度、言っておきたい。
「子どもの選択を重視する世界は真っ当になっていく」
そのときどきの「今」という地点と、映画のなかで止まっているある地点を結んだとき、その映画は「今」の映画になる。
そう思った。
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なお、「藍色少年少女」は、当初8/8までの公開でしたが、
好評につき、公開延長となったそうです!
夏休みの間に、ぜひ吉祥寺アップリンクに足を運んでみてください。
2011年、2013年、2016年、そして2019年と時を経ることで育ってきた映画の「今」と、その人の「今」、子どもたちの「今」とがリンクして、鮮やかに未来を示してくれるはずです。