酒と鯖の日々 四、
四、
明るいうちに暖簾をくぐったのは久し振りだった。まだ客は一人もいない。がらんとした空間をぐるっと見渡す。ここの店、こんな造りやった? 何でか、まったく別な空間にいるような錯覚を覚えた。店長は、厨房だろうか。忘れものだけ受け取ってさっさと帰るのもアレなんで、カウンターの端っこの席で普通に飲むことにする。〇円スマイルのつぼみのようなみなみちゃんが、小走りに本を持ってきてくれた。目が、笑いながらサイレントで
「また忘れましたね」
と発話している。
ありがとう。希少本じゃないけど、まあまあ大事な本やったんで……。なれなれしくなく、よそよそしくなく。を心掛けつつちょっと慎重に礼を言う。
今日のみなみちゃんは、注文を聞いてこない。この人、飲んでから帰るつもりなんか、それとも、このまま帰るつもりなんか……。判断に困っている様子なので、おしぼりの封を切り、手を拭いて見せる。
「お決まりですか」
みなみちゃんの〇円スマイルが満開になった。
「おっ、早速読んでる」
〆サバ(※この店のメニュー表に「きずし」は載っていない)と熱燗をいただきながら続きを読んでいると、いつの間にそこに居たのか背後から声を掛けられた。
「ンなびっくりせんかて……」
店長は、意外なニュースを届けてくれた。
「今日、まだ時間よろしい?」
はあ。と曖昧に頷いてみたところ、
「もうすぐしたら先生来られると思うんやけど、何か訊きたいことがある言うたはりましたよ」
先生というのは常連客の一人で、たぶん少し年下だが、自分より早くからこの店に出入りしていたようだ(たぶん)。この店を利用するようになってからずっと、一時の、およそ一年ほどのブランク期間を除いて週一、二回は顔を合わせていると思うが、挨拶以上の話はしたことがない。訊きたいことって何だろう。ドキドキしてきた。自分にとって《先生》という言葉には、そんなふうに理由もなく不安を掻き立てるものがあった。《警察》にも似て。
「ヤバイ、警察や。逃げろ!」
って、後方のちょっと離れた場所から叫ぶとね、大抵の人は意味わからないままとりあえず駆け出すんだよ。別に、法を犯してたり、ヤバイもの携帯してたりじゃなくてもね。
そう言や、そんな感じの変な卒業研究をやっているのがいた。
大丈夫ですよ。今日はもう、特に予定もないんで。
「じゃあ、後でまた話聞いたげてくださいな」
ええ。と答えたが、少し不安でもあった。あのォすんません、先生て何の先生なんですか。
「いやあ、あはは」
店長が笑いながら、少しむせた。
マズイこと訊きましたか。
「いえいえ、あの人銀行員、先生はあだ名ですよ。誰がつけたんやったかな、喋り方が先生っぽいですねとか言うて」
先生とばかり思い込んでいた人が、銀行員だったという事実。二十年も利用している店なのに、突然まったく別の、知らない空間にいるような気がする瞬間。あまり考えないことにする。
一時間ほどして席が半分埋まった頃、《先生》がやって来た。いつものように軽く会釈した後、自分は左隣の椅子を引いた。
「や、これはどうも」
先生は、店長の方を向いて
「わざわざ呼んでくれはったん? ンなわきゃないか」
笑いながら店長が
「呼ぼうと思ても、電話もメアドも知りませんし」
と答える。
「だって、二日続けて来はんのは、なかなかレアでしょ」
「たまたま忘れもの取りに来られたんですよ」
こっちに向き直った先生が、悪戯っぽく笑いながら
「また本ですか?」
そう、これです。と、手にしている本を動かしたはずみにカバーが外れ、表紙が見えてしまう。
「ダザイですね」
ええ、まあ。何やらこっ恥ずかしかったが、表紙の《太宰治》の文字が見えているのに、違いますとも言えない。
「お好きなんですか」
「いえ、今まで読んだことなかったんですよ。これが初めてです」
早くそこから離れて本題に入ってほしかったし、手にしているのは文庫版日本文学全集の一冊だったのでちょうど良いと思ってテキトーに答えたところ、これが却って先生の興味をそそってしまうことになった。
「あなたのような読書家が、珍しいですね。いや、読書の趣味も人によりいろいろでしょうけど」
居酒屋のカウンターでおっさん二人が太宰治について語る……。やっぱり、できれば見られたくない聞かれたくない場面だったが、相手が興味を持ってしまった以上、不自然に話題を変えようとするのもどうかと思い、自分は手短に理由を話すことにした。すんません、実は小学校一年のときに一冊と言うか一作だけ読んだことがあるんです。で、ちょっとメンドクサそうな人やな、と。屈折なんて言葉は知らなかっただろうけど、今で言うこじらせてる感じがして。単に読めてなかっただけの話なんでしょうけどね。
「何読まれたんですか」
人間失格。先生がブホッ、とビールを吹いた。
「いきなり人間失格ですか」
マズイ。さらに興味をそそってしまった。観念して続きを説明する。その後しばらく太宰、歴史上の人物なんで敬称略でいきますね。さんづけなんかすると却ってなれなれしい感じするし。自分は、はっきりと意識して〈太宰なんか読まない〉ことにしたのは中学に入り、国語の授業で近代文学史をなぞったあたりであることを話した。白樺派とかナントカ派とかあるけど、太宰には《無頼派》ってラベルが貼ってあったから、そのイメージかな。とりあえずマナー悪そうじゃないですか。気に入らないことがあれば暴力ぐらい簡単にふるいそう。あと、酒グセ悪そう、女グセ悪そう、ギャンブル好きそう、金銭感覚壊れてそう。それが、あるとき仕事関連でちょっと読まないといけないことになった。いえ、短いエッセイ、で良いんかな、まあ、身辺雑記でした。ブログとか、noteああ帳面じゃなくてアプリの方のアレに上がってる日記みたいな。
太宰が新進作家だった頃にはSNSなどなかったから、ちょっとこの作家面白そうだなと思ってもアカウントを見つけてフォローすることなどできない。熱心な若いファンは時間と交通費をかけて訪ねてくる。そんな学生たちを、太宰は追い返したことがないと書いていた。その訳は、追い返したら何を言われるか、それを恐れてのことだと。そんなふうに自分は打算的で卑怯な(※不正確)人間だ。みたいなことが書いてあるのを読んで、それ言わんでも良いですから。と自分は思った。でも、そうやって冷静に自分を見ようとしている人だということはわかった。それで、遅ればせながら読んでみようかなと。嘘ではなかったが、結果的に更に強く興味を持たれてしまったらしい。
「続き、お聞きしたいです」
いや、まだ読んでないんで……。
「じゃ、それ読み終わったらまたお願いします」
とりあえず解放されてほっとしたが、先生はまだ本題には入ってくれなかった。
「ところでそのジーンズ、もしかしてリーバイスの赤耳じゃないですか」
不意打ちだった。まさか、先生の口からそんな言葉を聴こうとは。
「大学時代、古着屋でバイトしてたんですよ。高かったでしょう」
いえいえ、アメ村のワゴンセールで買いました。嘘じゃなかった。今では無理だろうけど、自分が二十代の頃には、確かに、山積みにして売られているジーンズをひっくり返して探せば、時折そんな掘り出しものが見つかることもあった。
いつもより長い時間飲んでいるせいか、不本意にも古着の話でひとしきり盛り上がってしまった。楽しい時間ではあったが、それもまた先生にとって本題ではなかったからだ。この人は、自分のような者に何を訊きたいんだろうか。
「ところで、この店に初めて来られたのは何年前ですか」
二十年前です。と自分は答えた。ちょうどこっちへ越してきて、最初に入った居酒屋がここだったんですけど、何となく居心地が良かったので、ちょくちょく覗くようになりました。
「私も同じ頃です。当時は社会人一年生で、社会人になったら帰りに寄り道する行きつけの店の一軒ぐらいあってもいいだろうと。バーじゃなく居酒屋ね。で、安易にも近所の店にしてしまった。
「ちょっと、してしまったは失礼でしょう(笑)」
店長がツッコむ。
「失礼致しました」
ご近所なんですか。
「実家のね。それからしばらくして、結婚してから一駅先に引っ越しました。したんですが……」
それ以上は尋ねてはいけないと思い、微妙に話題をズラす。自分は二十年前、もう社会人十年選手でしたね。
カウンターの反対側の方で、口論が始まった。
「それがどないした」
たぶん、常連客ではない。
「うっさい関係ないやろ」
二十代、もしくは三十代のサラリーマン風の二人が仕事の愚痴をこぼし合ううち、意見の違いが露わになってしまったようだ。
「殺すぞ」
などと、物騒な言葉も混じる。
殺すぞ。と言われた記憶。いや、それを口にしたのはこっち側だった。と言っても自分ではない。自分の仕事上のパートナーだった。
当時の勤務先で、一緒に組んで動いていた同僚。年下だったが。会社の近くの広場で、何やらタクシーの運転手と揉めている。二人とも、だんだん声が大きくなってくる。マズイ。こんなところを、得意先の担当者に見られでもしたら。自分は早足で近づき、割って入る。まあまあ、○○君少し落ち着こうよ。ンなこと言われてもこればっかりは……。言っている間に、ゾロゾロと十台以上のタクシーが集まってきた。どうやら無線で仲間を呼んだらしい。目つきの悪い運転手たちが、次々に降りてくる。タクシー関係の揉め事は割合聞く話だったが、紳士的で物腰のやわらかいドライバーにしか当たったことのない自分は、そんな話を聞いても、現実世界の話とは思えなかった。粗悪なドラマの見過ぎじゃないか。それがこのときばかりは、いつもの場所の、いつもの風景が一変してしまった。
「卑怯な奴らめ、お前ら全員殺すぞ」
おい、ホンマ落ち着けって。
タクシードライバーたちのリーダー格らしい男が、ニヤニヤしながら進み出る。
「ワタシらは別に殺しまでするつもりはないですけどね。まあ、半殺しぐらいにはさしてもらいましょか、お二人とも」
勘弁してくれよ。お二人って、それ、自分もってことなんか……。
「お客さん、おーい」
店長がパンパンパンと、手を三つ叩く。
「喧嘩は外でやってください」
これに似た場面を何度か見たことがある。タチの悪い客のさばき方は、流石だ。
しかし、古着屋さんでバイトされてたとは初耳です。
「この店では話したことないですからね。赤耳とか言っても通じないだろうし。好きな人は、やっぱり見ればわかりますよ。今も、古着屋覗いたりされます」
いえ、行ってないです。最近は、もっぱら古本屋ですね。嘘ではなかった。昨日ここに忘れて帰った《ダザイ》もそう。最近オープンしたばかりの、近所の古書店で買ったものだ。
雑居ビルの一階に発見した古書店。過剰なまでに昭和風情を演出した店内は、何やら嘘くさかった。現に、真新しい建材の匂いがする。いや、鉄筋コンクリートの躯体をいじる訳はないだろうから、〈内装材の〉と言い直すべきか。とにかく、真新しい昭和のコピーモデルのような空間。新品の机をさも時代もののように見せかけた《アンティーク仕上げ》のように、新品のシャンデリアを骨董品ぽくみせようとアーム部分をわざわざズズ汚れた感じに塗装した《古美金仕上げ》のように。そして、そんな店で、ちくま日本文学全集の太宰治の巻を買う自分。何だかすべてが嘘くさく思えてくる。
「で、奥さんとはいつ別れてくれるのよ。てか、ホンマに別れる気あんの」
「いや、急にそんなこと言われても……」
追い出されたサラリーマンの二人連れと入れ替わりに入って来た、不倫カップルらしい二人連れがややこしい話をしている。別に、不倫カップルが居酒屋を利用してはいけないなんて法はない。けど、そういう話は、せめてヒソヒソ声でやってくれ。
もしかすると、さっきのサラリーマンの口論も、不倫カップルの生々しい話も、どこかの劇団員が一種の稽古として演じているものだったりしないか。嘘くさい空間を思い出した拍子に、そんな突拍子もない妄想的な考えが起こった。
今、不倫相手にいつ別れてくれるのかと迫っている女の頬をつねると、そのままズルっとマスクがめくれて、男の顔が現れる。など。もしかすると、昨日ビール瓶を割った古参客も。白髪頭のカツラを取ると、案外若い役者が、いやあバレちゃいましたね……なんてことになるんじゃないか。
「しかし、何で太宰なんですか。いや、誤解しないでくださいね。さっきのお話、僕は嘘だとは思わないんですが、何だかそれだけじゃないような気がして……すいません、もう止めます。また今度って言ったばかりでした」
いろんな葛藤を抱えた人だと思ったからです。何となく言ってしまったひと言に反応した先生の目の色が、はっきりと変わる。
「すいません。またまた前言撤回ですが、そこ、もう少しいいですか」
駄目だとも言えず、所詮は文庫本の巻末にある解説とか、年譜とか、そんなものから想像できる程度のことですが。と前置きした上で、自分は、頭の中で組み立てた図を吐きだす。
地方出身者/東京の大学、社会を構成する要素としての人間を《搾取する側》と《搾取される側》に分けて理解する左翼思想への傾倒/《搾取する側》である大地主の息子……心中の話に触れることはしなかった。
「あと、何で最近薄着なんですか」
落ち着いたら、妻と北欧のどこかへ、オーロラを見に行きたいと思ってるんです。だから私は、もっと寒さに強くならないといけない。
誘惑氏が、苦笑しながら顎をしゃくって移動を促す。
歪んだ部屋から一歩外へ出てびっくり。歩けない。と言うより、真っ直ぐ立つことができないのだ。吐きそうだと先に部屋を出てしまった直角君は、しっかりした足取りでスタスタ歩いて行ったというのに。
手摺に掴まり、と言うよりぶら下がるようにして進んだ廊下の突き当りに、もう一つの部屋があった。そこは平行四辺形ではなく、普通の部屋。だったんだろう。
「ちょっと待ってくださいね、今コーヒー淹れますから」
しばらくして、制服の女性が持って来てくれたコーヒーカップに手を伸ばそうとしたが、空振り。うまく掴むことができず、自分はテーブルの上に突っ伏した。
「おい、大丈夫か」
隣の席で、うまそうにコーヒーを飲んでいた直角君が言った。
真っ直ぐって何だ? 平行、垂直……角度ってどういう意味だった? というか、歪んでいるのはどっちの部屋だ?
突然、すべてが嘘くさいあの感じがぶり返し、自分は、何かにすがるように木のカウンターを撫でる。確かな感触に、とりあえず落ち着きを取り戻すことができた。