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5月29日(土)他者性へのアプローチ

ちょっとばかしスペシャルなイベント(☆1)を翌日に控えつつ、土曜の夜の振り返りを。

「ところで、自分は何をしようとしているのか」と言う時の「ところで」は、時々同じ問いを蒸し返し蒸し返し、改めて問わないことには、すぐにルーティン化してしまい、あまり意味のない朝礼や定例会みたいなものになってしまう。自分の「サタデーナイトフィーバー」はどうだろう。

記憶はリアルだが、軽やかに跳躍できるものではない。想像は軽やかに跳躍できるが、必ずしもリアルではない。みたいなことを、たぶん先週書いた。書いたんやけど、明日のイベントには何の役にも立たない。

そわそわしてるけど、準備のしようがない。だから余計にそわそわする訳ですが。経験がないことは、身をもって経験してみないことにはどうしようもない。記憶(☆2)の中にアーカイブされていない「リアル」を引っ張り出すことは叶わず、想像によって演繹的に導き出した解は決してリアルにはなり得ない。頭の中で考えた「抽象的だが実態がない訳ではない(☆3)何か」なんてのはインチキだ。

「認知の限界」と「経験の限界」を同時に超えて自分の持ちえない「リアル」を希求すると、ヒトは「絶対他者(☆4)」へ向かうことになる。んだと思う。




☆1)チョット大変なイベント:

緊急事態宣言は大方の予想通り延長になったけど、娘の彼氏のご両親に初めてお会いする予定。場所は何でか自分のホームタウン。


☆2)記憶:

集合無意識とかアニマムンディとか、ややこしいものではなく一個人の記憶の話。検索すれば瞬時にヒットするであろう事例も、ここでは関係ない。


☆3)抽象的だが実態がない訳ではない:

「やさしい日本語」を話したいなら、まずはこういった「二重否定」表現をやめること。とある「入門・やさしい日本語」認定講師はそう推奨している。「抽象的だが実態を持っている」と普通に言い切れないのは、そもそもそれがインチキであることに話者自身が気づいているということ。


☆4)絶対他者:

要するに絶対に自分じゃない人。自分とはぜんぜん違う誰か。ほとんど説明になってないけど、関連してRodney Orpheus_ABRAHADABRA/フラターC.S.によるテキトー訳を引用

……数学的にいこう。もし我々が宇宙を∞(無限)と呼び、私が自分自身のことを私(わたくし)と呼んでいるとするなら、聖守護天使(HGA)を次のように図式化することができる。

HGA=∞-私







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