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「中動態」的。と思われる例文を作ってみた

【2022.6.25追記】人をして、生理的欲求をはじめ自分という個体「だけ」の欲求を満たすこと「だけ」を目的とする浅ましい振る舞いへと駆り立てる浅ましいモチベーションを、私は「意志」とは呼びません。
自分にとって大切な誰かや会ったこともなく知らない誰かが何を望んでいるか、といったことまで射程におさめた想像力。あるいは、天の声と付き合うための作法……キリがないのでヤメとくが、自分の「意志」たらを考える上で、私は「他者性」の問題を避けて通ることができない。つまり、「意志することを行う」のと「我を通す」ことは、まったく関係がない。という前提に立ったお遊びとして記しました。⬇️

全てのテクストは、《他者》からのメッセージと筆者の《エゴ》のせめぎあいの結果として紡がれる。

それが広告であろうが、トリセツであろうが、ミステリーであろうが、純文学であろうが、メールであろうが、日記であろうが、お筆先であろうが、私にとって当たり前の「体感的真実」ですが、いろんな他者と広く共有できるものでもなさそう(0)。

例えば、「それは誰の意志か」が問題になった時、自分と相手とでは「意志」の捉え方からしてぜんぜん違うので話にならないといった事態が起こったりするのであり。

ややこしい話はさておき、表題のようなことをやってみた。

中動態_例えば古典ギリシア語など欧州の「古典言語」にはあったらしい_とは、能動態でも受動態でもない「態」らしいけど、馴染みがないのでよくわからない。わからないながら、文法カテゴリの「態」は、客観的事実以上に話者の「心的態度」を表すものなので、これはもしかしたら重要かも知れないと思い、最近読んでそのことに気づかせてくれた本はこちら

端折って言うと「する/される」の二分法で取り逃がされるものの問題がクリアに指摘されており、私の関心事であり続ける「他者性」へのアプローチのヒントがあった_対談本を参考にしながら作ってみた例文がヘッダ画像の3本。上から順にンちょっと違うが能動態(1)/中動態(3)/受動態_「僕は、ボールに蹴られた。」では、同列に比較しづらかった為、使役受身のカタチにしています_(2)。


さて、一般的に、能動態は、話者の意志によって為される/為された行為を表すとされるようですが。

「僕は、ボールを蹴った。」

例文中の「僕」は、本当に自分の意志によって、または自分の意志「だけ」でボールを蹴ったのでしょうか?


次は真ん中を飛ばして、受動態(使役受身)は、他者からの強制または指示によって為される/為された行為を表すとされるようですが。

「僕は、ボールを蹴らされた。」

そこに、「僕」の意志は介在しないのでしょうか? 受け入れたのは彼の意志だとも言えるし、果たして彼は嫌々蹴っているのか、嬉々として蹴っているのか、といったあたりの事情についてはこの例文でだけでは不明。


真ん中、メインディッシュの中動態。

「僕は、ボールを蹴るのが好きになってきた。」

誰の意志で? 最早そんな次元の話ではないようで。


例によって、註の方にだけ目次を設定してみました。


(0) 体感的真実は一般的真実か

そんな訳はないのであり。いきなり投げやりに聞こえたら申し訳なく、また、そんなことでネガティブな奴と決めつけられるのは若干残念でもありつつ、「全ての人が共有できる一つの真実」というのはあり得ない。なぜなら「エビデンス」を示せないから。それを示すことができ、なおかつそれが有効なのは、せいぜい、領域や場面を特定しながらの「限定的で小さな事実」でしかない(『言語が消滅する前に』は、エビデンス主義批判の本でもありました)。余談だが、「一般的な特殊詐欺」というフレーズを耳にしたときは流石にこれは凄い!と思った。

ソシュールの用語を借りつつ無理やり説明するなら、「体感的真実=私はそれとともに在りながら言葉によって指すこと叶わないシニフィエ/一般的真実=真実を指しているようでその実何も指していないシニフィアン」とでも言えるかも知れない。


(1)【能動態】話者「だけ」の意志?

「僕は、ボールを蹴った。」

そこに話者=行為者の意志が介在していることは間違いないが、それ「だけ」とは言い切れない。また、そこに話者=行為者の意志以外の何かが介在しているとしても、話者=行為者は必ずしもそのことを認識できているとは限らない。認識できていない話者=行為者を指すカタカナ語に「イノセント」がある。

前掲書中、國分先生によると『行為のプロセスが主体の外で完結すると能動態』(p18)。一瞬何のことやらだったが、下記、中動態の説明と併せて読むと理解できた。


(2)【受動態】受け入れるのも意志?

「僕は、ボールを蹴らされた。」

コーチの指示でそのような練習メニューに取り組んでいたのか、試合中コーナーキックの場面で監督から「君が蹴りなさい」と指示が出たのか。いずれにせよ嫌々そうした場合を除外するなら、それを受け入れるのも「僕」の意志に違いない。ところで、それに従おうと判断するに際して何が重要か? などと考えはじめると∞ループに陥りそうだ。しかし同時に、それ以外に大事な「判断」なんてあるのかとも思う。


(3)【中動態(的)】と『法の書』の矛盾

「僕は、ボールを蹴るのが好きになってきた。」

國分さんによると、上記の能動態に対して『主語がそのプロセスの場所になっている場合には中動態が使われる』(p18)とのことだったので、気持ちの変化なんかがそれに当たるのかな、と作った例文がこれ。自然というか、エゴと他者性の擦り合わせができているというか、最早「それ、だれの意志?」とは言いにくい言葉にしたつもりではあるんやけど、果たして、これ「中動態」的な言い回しになっているのか、まるで自信がない。

ところで、お筆先またはチャネリング文書などと呼ばれる類の場合どうなのか? 古代ギリシャのデルフォイの信託とかは? 『全てのテクストは、《他者》からのメッセージと筆者の《エゴ》のせめぎあいの結果として紡がれる。』というのは、書き言葉の場合であって、話し言葉の場合「せめぎあい」以前の生なものが放たれる場合もありそうな気がするので、口述筆記などあまり参考にならないのかも知れないけど。

『法の言葉はセレマなり』のフレーズを含む『法の書The Book of the law』の場合、英語で記されたものなので、原書にも邦訳にも中動態表現は出てこない。その代わり、と言っては何だが、それは誰の意志ですか? といった箇所が多く見られる。更に、それを記述したのは、出版したのは……。ちなみにこの書、沈黙の神 ホオル・パアル・クラアトからのメッセージを、彼の代理人であるアイワスを通して、著者(?)アレイスター・クロウリーが記したものとされる。「沈黙の神」の「言葉」である時点で「処女の売春婦_どういう状態なんでしょうか?_」同様甚だしい矛盾を含んでいる。



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