語りえないものを語るにあたって
「北島三郎的なるもの」へのリベンジを誓う。祭は更新されるか?(※1)
語られる物語の中から都合の良い部分をじゃんじゃん抽出せよ、それがAbyss越え/今とは違う何者かになる上での全ヒントとなろう。
細長い雑居ビルの狭い階段を急いで駆け降りる。などという危ない真似はせず、一段一段確認しながら、ゆっくりと踏みしめながら降りていく。馬鹿に慎重なのは、階段の勾配がキツイのと、両手が塞がっていて手摺りが掴めないせいで。両の手で下から支えるように抱えるのは、長方形の紙の箱。中には一対のパンプスが入っている。色や形は既によく憶えていないが、開けて確かめるほどのことでもないのでそのまま進む。
壁と床の間に、もう一つ直角を見つけようとする試みを続ける。1階のロビー、とは言えない狭いホールスペースにソファーが2脚しつらえてある。その上に静かに箱を置いて入り口の開き戸を開けると、足元まで茶色の水が迫っている。地上レベルからささやかな石段のアプローチを昇って入り口へ、という造りになっているのだが、今はぜんぶ泥水の中に隠れてしまい浸水して来ないのが不思議なくらいだ。このビルは泥水の中、完全に孤立している! ああ、どうせなら、この濁りがみんなカニ味噌のせいだったらいいのに…。
外へ出ると、いきなり視界が開けた。何と、世界は大変なことになっているで様子。
先細りの道の真ん中を/スタスタスタ走っていった人/コロコロコロ転がっていく/ミートボール?/先細りの道の真ん中を/スタスタスタ走っていった人/コロコロコロ転がっていく/チョコボール?/その道を両方の端から…誰かと誰かが持ち上げている!/こっそり持ち上げている。(ローリングマン事件)
真ん中が高く端っこが急激に低くなっている、いわゆるかまぼこ形状の道路は、自転車で走行する場合何かと危険なので早急に何とかせねばならなかった。それが、件の事件を起こした犯人(二人組とも単独犯とも言われる。いや、それどころか事件自体が目撃者の幻覚に過ぎないとの説も、専門家の間ではかなり有力視されているようだ)の主張である。
本当かなあ。と言った瞬間、呟きは粉々に割れて砕け散り、太陽光を受けた破片がきらめく。さらに攪拌される。遠くで書き割りの空が破け、お天道さまが顔を出す。
本当かなあ/かなあ/かなあ/かなあ/なあ/なあ/あぅ/あぅ。どうやら、大変なことになっているのは空間の歪みだけではないらしい。七時をお知らせします/質時/知事/痔を/お知/捺し/らさま/します/します/鱒。グリセリン浣腸天文台の痔報も切り刻まれて痛そう。
し/ち/ち/ぢ/ぢ/を/を/お/お/し/し/ら/ら/せ/せ/し/し/ま/ま/す/す/す/ぅ/ぅ。
世界は事件の連続でできている
カタリ派という名前は「清浄なもの」を意味するギリシア語の「カタロス」に由来している。名称が初めて記録にあらわれるのは、1181年にケルンで記されたシェーナウのエックベルトの「このころドイツにカタロスがあらわれた」という記述である。また、カタリ派はアルビ派(アルビジョア派)と呼ばれることもあった。南フランスの都市アルビに由来するこの名前は12世紀終わりに現れるが、実際にはアルビよりもトゥールーズの方がカタリ派は多かった(以上Wikipediaより)。
ラジオのように
DJがクラブのブースにマックブックを持ち込むのは今でこそごく当たり前だが、80年代前半時点では、まだまだ珍しい光景だった、ライブハウスのステージにそんなものを持ち込むテクノ系バンドが現れはじめた頃、ノーパソ担当のメンバーには、「本業は数学の教師です」みたいな類の人が多かったように思う。何のデータを参照している訳でもないので、たまたま自分が知っている人はそうだった、というだけの話かも知れない。それが90年代に入ると、ノイズ系や広義のダブユニットのステージなどで、あまり目つきのよろしくない人や、何となく挙動の怪しい感じの奴がパワーブックなどを普通に扱いだした。おそらく、中古市場が形成されつつあるタイミングだったのだろう。「目つきの悪い人たちは購買力が低い」などという決め付けは、差別以外の何でもないのだが…。
これだ! 自分はそこに、自分が縛られている現実世界で最先端(以上)のマシンが二束三文の「ジャンク」として登場する近未来の物語、ギブスンらが描くサイバーパンクSFのシーンを重ねて興奮しまくっていた。
1945年8月15日(※2)正午(日本標準時)、人々は真空管ラジオを囲み、昭和天皇が戦争の終了を告げる玉音放送を聴いていた。およそ10年後にテレビ放送がはじまるまで、外界の情報をもたらす魔法の箱としてのラジオは、(情報メディアとしては)家庭の中心であり続けるが、主役メディアの座をテレビに奪われたことにより、家庭内でのプレゼンスを下げた。のだが…。一方で、筆者が「ラジオのAbyss越え」と呼ぶ事件が起こった。もちろん、それには小型化という技術革新も欠かせなかったと言われる。
トランジスタラジオの時代になると、ラジオは居間から子供部屋へと移動してパソラジ化。パーソナリティは「家族」に向けてではなく、受験勉強のふりをしているナントカ君へ向けて「個人的に」語りかけるようになる。女性が耳元でセクシーに囁きかける、といったスタイルのCMも可能となった。ラジオは見事、アセンションを成し遂げたのである。
このように、技術トレンドの移り変わりにつれて時代遅れになりかけたデバイスが、突然「別なもの」として生まれ変わることがある。自分にとってのアナログディレイも、最初から「美しく自然な残響音を人工的に得るための装置」などではなかった。
粉々になったガラスの破片舞う中、僕はラジオから流れる時報を切り刻んでいた。我ながらな、なかなかカッコイイ。さて、本当の時間はどれでしょう? 愉快で仕方がなかった。そこに油断が生まれたのだろう。
違う局にチューニングを合わせると、大音量で演歌(※3)が流れはじめた。おっと、これはヤバイ。慌ててFM用のロッドアンテナを振り回し、ノイズをブレンドする。しかし、予想に反して声のほうが強い。音量的には、ノイズの方が勝っているはずなんだが…。自分は完全に狼狽し浮き足立っていた。まさに天災(※4)。どんなに細かく切り刻んでも、メロディが分からなくなるぐらいデタラメにピッチをいじりながら混ぜ返しても、声の断片は、北島三郎以外の何者でもなかった。
以上が、演歌の大御所にコテンパンにやっつけられた苦い思い出の一部始終である。読者諸姉諸兄の便宜を考慮し、必要ないと思われる部分は割愛させていただいた。
タロット実占入門
カードがあれば、現金の有無にかかわらず、限度額の範囲内ならいくらでも買い物や飲み食いができる。存分にカードを切り、利用控えを並べ、合計金額を読むこと、修行はそこからだ。と、そんな話を聞いたことがある。冗談にしてもまったく余計なお世話で、放蕩など必要条件でないばかりか、どちらかと言えば避けた方が賢明なのは明らかだ。コントローラブルにまいりましょう(制御を失ったペッパー君のダンスは、まるでミック・ジャガーのようだった)。
切り刻むとは何か。自分は何を無効化した(つもりだった)のか。したかったのか。テーブル上で一組のタロットカードをシャッフルする時、自分は、既成のナラティブがことごとくカットアップされていく手応えを感じる。切り混ぜたカードを一定の作法に則ってスプレッドしていけば、物語の構成要素は変わらずとも、その都度新しい流れが立ち現れる。とは言え個々のカードは、モナド的に全体のスプレッド/展開を構成するわけではない。なぜなら個々のカードは、それ自体が一つの物語だから。そんな訳で、タロットリーディングとは、物語の入れ子構造を整理しながら語ることにほかならない。
あなたは、自分で決めた語るべきことを語ることができただろうか?
何を抽出するか
抽出という表現は誤解を招くかも知れない。語り継がれた物語を聴くに際して、いい話(※5)や絶対的<真実>を求める態度は、非常に危ういものだ。このあたりに対するリテラシーの欠如は、サルが玉葱を剥いていくうち何も無くなってしまいキーッとなるのにも似た結果を招くだろう。筆者にとっての物語は、切り刻むことによってその都度立ち現れる視座/ViewPointに過ぎず、絶えず移動する。1階の窓から眺めたら、今度は10階から、次は車窓から…。従って、物語それ自体から何かを抽出しようなんてことはそもそも思わない。鉱脈は、「物語によって指し示される何か」の裡にある。
先日ネット上で、立ち食いの「いきなり!ステーキ」はなぜ成功したのか、という記事を目にした(※6)。印象に残ったのは、同立ち食いステーキ店が成功した理由についての仮説ではなく、人や情報を含む環境との関わり/交流の中で人間の身体がどのように変化したか、つまり、アサヒスーパードライの話を含め<どのような条件下において人間の味覚は変化したか>だ。もう少し具体的に言うと、自分は「脂っこい食べものには、スッキリとキレの良いビールが合うらしい」という、ちょっとしたチップスを得た。
良くも悪くも現代思想に決定的な影響を及ぼした、トゥールーズとカタリの物語です。
※1)WIRED.jp:「21世紀の民俗学」をはじめよう:気鋭の民俗学者、畑中章宏に聞く、いまどきの「流行」盛衰記
http://wired.jp/2016/01/04/interview-a-hatanaka/
畑中さんは「更新される」と言い切っている。
※2)日本の「終戦の日」だが、大韓民国が同日を「光復節」としているのを除いて世界的には9月2日または3日が終戦記念日とされている。第二次世界大戦というよりは、日本の「大東亜戦争」が終了した日と認識するべきだろう。
※3)北島三郎「まつり」
(※リンクURL削除)
※4)立川談春「天災」
(※リンク先URL削除)
筆者が初めてバロウズを読んだ時連想したのがこの落語。後半、心学者から聞いたばかりの話をうろ覚えのまま再現しようとする八五郎のシッチャカメッチャカな語りは、さながら天然カットアップの趣。
※5)立川談志「紺屋高尾」
https://www.youtube.com/watch?v=4vGYV0hMEzY
憧れの超売れっ子花魁 高尾太夫に一目会いたいと思いつめる紺屋職人 九三を、周囲は止めたり、宥めたり、応援したり、何だかんだでハッピーエンドのドタバタ人情噺。現在の美談がことごとく駄目なのは、早い話このへん、江戸の美意識や倫理観を超えられないからだろう。
※6)ダイアモンドオンライン:立ち食いの「いきなり!ステーキ」はなぜ成功したのか
http://diamond.jp/articles/-/86498
(2016.2.22)